モドル

■初めて会った人
 その男が目についたのは、第一に菊よりもゆうに頭一つは背が高かったから。さらには、無駄に大きな、なのにつばを持たない帽子とか、浅黒い顔立ち、目元を覆う白い仮面とかイチイチあげればきりがない。道行く人がみなその男を避けていくのも当然だ。外人なのが一目でわかる。菊としては引きこもり体質改善を目指している最中でもあり、国際交流の必要性も感じている今日この頃ではあった、が。それにしたって怪しい、怪しすぎる。こういう手合いは関わり合いにならないほうがいい、目を合わせないほうがいい。
 だが、しかし。大通りの真ん中から、まっすぐに自分に向かって歩いてくる、ように見える男からなるべく距離を取りつつ、可能な限りさりげなく、目を合わせないように、避けて通ろうと努力している菊に、無情にも声は降ってくる。
「菊さん、お久しぶりですねぇ。ご無沙汰して申し訳ない。」
「は、はい?!」
 知らない人に声をかけられたら逃げなさい、の教えと、外人さんだからって差別してはいけません、の教えが菊の脳内でせめぎあう。逃げ出してしまいたい、だけど、それはそれでだいの大人が情けない。半分逃げ腰で向き直る菊を、男は面白い見世物を見ているようにみていた。
「……俺が声をかけただけで、そんなに怯えなくたっていいでしょうに。何も取って食おうってわけじゃあねえんだから。」
「い、いぇ、怯えてなんて……!」
 見知らぬ相手でも、自分のおもっていることを正直には話せない。悪いタイミングでそんな条件反射をしてしまう。おかげで逃げ出すチャンスを逸してしまったではないか。強張った顔で、それでも必死で笑顔をつくろうと努力する菊を、真正面から男が覗き込む。
「笑顔で迎えてくれるのを期待してたわけじゃあねえが、その反応は俺としてはちょいとショックでさ、菊さん。」
「?」
 私は仮面の知り合いを持った覚えはない、と菊は思う。が、彼は自分の名前を、しかも名字ではない、下の名前を呼んでいる。
「そりゃ、お礼が遅れたこっちが悪いってのは認めますがね、こうやってなんとか暇を作ってやってきた誠意をくんでいただきたいねえ。」
 いったい何の話ですか?とは思うものの、あなた誰ですか?というのが聞けないのだ。だから、外人は困る。同国人なら、雰囲気でそれとなく察してくれるものなのに。
「恩着せがましくなるんであんまりいいたかぁありませんが、俺は結構遠くから、菊さんに恩返しするためにやってきたんですぜ。それなのに、そんなに冷たくされちゃあ、悲しくなりますぜ。」
 だから一体何の話ですか?と目で訴えてみたものの、仮面の男にはまったく通じていないようだ。だから外人は…(以下略)強張った営業スマイルも、そろそろメッキがはげかけてきた。男に非があるわけではないので、我ながら理不尽だとは思うが、段々腹が立ってきたのだ。ここは、ひとつ相手の勘違いを正さねばならぬ。
「あの、ですね。」
「おーっと、遠慮なんかなしにしてくださいよ、俺は菊さんのお役に立つことなら、何でもやらせてもらうつもりなんですからね。どんどん俺にゆってやってくださいよ…っておっと、俺としたことがちゃんと名乗ってなかった、こりゃ失礼。」
 目を白黒させている菊の様子に今だ気づかない男は、にやりと笑った。
「サディク・アドナンと申しやす。前ん時は菊さんのほうはとにかく、俺は自己紹介どころじゃあ、なかったですからねぇ。」
 サディク、アドナン?異国の名前を鸚鵡返しに口にした菊は、次の瞬間、サディクに引き寄せられていた。身長差の悲しさか、菊の頭はサディクの胸のあたりに押し付けられた。まるで父親が幼い息子を慰めるの図の如く、背中をぽんぽんと叩かれる。今度こそ、菊の営業スマイルも吹っ飛んだ。悲鳴を上げなかった自分をほめてあげたいくらいだ。初対面の男にスキンシップだと?時代が時代なら手打ちにしてやるのに。
 赤くなったり青くなったり、大混乱の極みにいる菊から体を離すと、またもや能天気にサディクは言い放つ。
「まあ、そういうことで。これからよろしくお願いしますぜい。」
「はい?」
 息を整えるので精一杯で、一瞬わけもわからずぽかりと相手を見つめた。これから何をお願いだと?
「恩返し、ですよ、菊さん。ちょこちょこ顔を出す予定なんで、ちゃんと考えておいてくださいよ。」
「は、はぁ。」
 ここで何の恩返しか判りません、とか答えるときっとこの青年を傷つけてしまうだろうし、かといって勘違いを正さないと彼は本来恩返しをすべき相手と違う相手に恩返しをしてしまうわけで。いかに相手を傷つけない方法で、相手に勘違いを気づかせるか、と。この期に及んでも、身についた以心伝心体質は変えられず、そんなことを菊は思っているのである。
「菊さん?」
「あの、サディク、さん?」
「はい、なんですかい、菊さん。」
 私はあなたを知りません。そう言うつもりで、名前を呼んだのだ、本当は。
 でも、自分より頭一つ、いや二つ背丈が抜けている青年が、そのときあんまりにも嬉しそうに微笑んで、”菊さん”と自分の名前を呼んでくれたものだから。
 そんな風に楽しげに自分の名を呼ぶ相手がいてくれるのも、もう随分と久しくなかったことだから。
 そして、名前を呼んでもらえるのを、自分がとても心地よく感じていることに、気づいてしまったので。
「………今度から、こられるときは電話の一つでもかけてから来てください。」 
 人違いですよと告げるはずが、まったく違う言葉が転がり出る。
 そうしたら、サディクがまたもや嬉しそうな顔をしてくれたものだから、ほんの少しの罪悪感は、あっという間に消えてしまった。 

誤解の上に成り立った出会い…(笑)

アップ日:09/02/22
モドル