■注意一秒、怪我一生 2
ソファーの上で時臣に押し倒されて、現在進行形で俺は貞操の危機の真っ最中だ。如何ともしがたい体格差のため、この体勢に持ち込まれると俺の逆転は難しい。魔術師に腕力なんて必要ないのに、どうして無駄に力強いんだよ、死ねよ、時臣!とまあ、いつもなら考えるよりも先に、ぽんぽんと口から飛び出す悪口雑言が、今まさにそれを必要としているこの時に、全く出てこない。
三十年近く生きてきて、今まで臓硯以外を恐怖したことなぞ一度もなかった。だが、今の時臣が俺は怖い。微笑んでいるのに、目が少しも笑ってないのだ。時臣の考えが全く読めない。怖い。
「雁夜。」
名前を呼ばれて、全身鳥肌が立った。魔力供給といえば聞こえはいいが、魔術師同士におけるそれは、相手の体液に含まれる魔力を取り込むことだ。血液、汗、唾液等々の摂取、これらの中で一番手っ取り早いのが口づけによる唾液の吸収。時臣の言うところの利子の先払い、早い話がキスだ。しかも、ディープな方。嫌だ。お断りだ。御免こうむる。初めてのディープキスの相手が男だったとか、俺の想い出が黒歴史になってしまうだろうが。そりゃ、時臣はいいさ、葵さんと何度もしたろうからな。でも俺はそうじゃないんだ、初めてなんだ。出来れば、というか絶対に相手は好きな子がいい。三十路前が何夢見てんだと言われても構わないんだ、男相手、ましてや時臣が相手なんて最低最悪だ。畜生、こんなことになるのなら、やっぱり桜ちゃんにしてもらっておけばよかった!!
情けないやら悔しいやら、頭はごちゃまぜで沸騰寸前だった。おまけに涙まで出てくる始末。大体、時臣も時臣だ。いくら怒ったからってそんな嫌がらせってどうなんだ。火の属性なんだから、炎の魔術で燃やすとか、紅茶を沸騰させて舌を火傷させるとか、喧嘩の方法なら他に選べるだろう。よりにもよってなんでこれだよ、性格悪いにもほどがある。
先ほど自分が時臣に言った嫌味を棚に上げて、心の中で散々時臣を罵る。口に出せないのは、これ以上相手を怒らせたら本気で何されるかわからないからだ。先ほどから俺は時臣の腕から逃げだそうと無駄な努力を続けているが、一向に効果がない。重力と体重を味方にしてのしかかってくる時臣に、非力な俺は対抗手段がないのだ。体術でも習っとくべきだった、なんて後の祭りも甚だしい。そもそもこんな事態を想定できる能力があるなら、俺は臓硯にいいように使われたりしない。
馬鹿なことを考えているうちに、時臣の顔がどんどん近付いてくる。マジでやる気だ、こうなったら後で葵さんに時臣に無理やりひどいことされたって尾鰭を付けてチクってやるんだからな!葵さん驚くだろうな。悲しむだろうな。時臣のこと、嫌いになってくれないかな。もしかしたら、俺のこと好きになってくれないかな、ってそれはないよな。この期に及んで俺の現実逃避は、いよいよ磨きがかかる一方だ。今更逃げられるなんてもう思わないが、せめてもの意趣返しだ。舌が入ってきたら、思いっきり噛みついてやる。来るならきやがれ、後悔させてやるぜ。
憎まれ口をいくら叩いてみても所詮は空威張りだ。正直、もう怖くて目をあけてられない。俺は目をぎゅっと閉じて、その時を待つことしかできず。
が。時臣の感触が落ちたのは、俺の想像していた場所ではなく。
「くっくくく。」
俺の胸の上に押し付けられた時臣の頭が見える。震える肩が見える。くすくすとまるで笑っているような声も聞こえる・・・ってじゃねえ!本当に笑ってやがる!
顔をあげた時臣の目は、先ほどの気配はかけらもなく、なんとも楽しげに輝いているではないか。一杯喰わされた!この俺が!しかも、みっともない泣き顔までさらして、怖くて体が動かなかったのも全部、全部こいつに見抜かれた。
「時臣ぃ!てめぇ!!」
「あっはっはっは。雁夜、冗談だよ、冗談。」
な・ん・だ・と。このやろう!
「おまえ、こんな悪趣味なこと冗談で済まされると思って・・・!」
「君のさっきの”冗談”も、私にとってはかなり悪趣味だ。違うかい?」
・・・・・・・・・。
はい、そうです。時臣の言うとおりです。反省しました。俺が悪かったです。
時臣の正論に、俺は忽ちやり込められてしまった。時臣は、桜ちゃんの本当の父親、なのだから、あんなことをいうべきではなかった。俺だって、葵さんの前だったらあんなことはいわなかったけどな。
「わかった、俺が悪かったよ。もういいからどいてくれ。」
俺がそういうと、拍子抜けするくらいあっさりと時臣は俺の上から離れた。涙を拭う俺を、楽しげに見てやがる。ああ、ムカつくなあ、もう。
「俺、桜ちゃんから魔力貰ったりなんてしてないからな。」
「ああ、それは今のでわかったよ。」
「今ので?」
「随分と初心な反応をしていたからね、君は。」
あはは、とのんびり笑ってみせた時臣を、俺は本気で殴りたくなった。力づくで支配される屈辱と恐怖が、時臣の体温とフレグランスと共に呼び起される。吐息の熱さまでリアルに思いだしてしまって、俺は身を震わせた。あの感触は、簡単に消えてくれそうにない。時臣の野郎、トラウマになったらどうしてくれるんだ、責任取らせるぞ、阿呆め。
俺の傍から離れていく背中へ、ありったけの怒りを込めて睨みつけてやる。
「じゃあ、雁夜。先ほどの件、明日までにお願いする。」
「・・・お前、この状況で・・・いや、何でもない。」
先ほどのことなどもうひとかけらも気にしてないだろう時臣に、もう俺は反論する気力も残ってなかった。それに何を言っても藪蛇になりそうだ。また何かされたら、今度こそトラウマ一直線、一生時臣に怯えて暮らさなければならないかもしれない。それだけは御免こうむりたい。
「・・・明日、小切手でいいんだろ?」
「ああ、構わない。感謝する、雁夜。」
感謝なんかいらない。正直なところ、俺はすぐにでもここから立ち去ってしまいたかった。小切手は明日誰かに届けさせよう。
挨拶もおざなりにして、俺は起ちあがる。
とっととここを出たい。こんな場所、二度と来るもんか。もうそれしか考えられない。
早く。一分一秒でも早く。時臣の傍から離れよう。
「雁夜。」
時臣が俺の名を呼んだ。俺は振り返らない。足も止めない。扉を開けて、外へ出る。
「利子を払って欲しくなったら、ここに来たまえよ。」
笑いながら、声が追いかけてきたけれど、俺には何も聞こえなかった。
|