モドル

■毒を食らわば皿までいこう 1

 蟲蔵の底の底で、地をうごめく間桐の使い魔達にその身を食まれるなどという気色の悪い日課も、毎日経験すれば多少は慣れてくる。蟲蔵に飛び込んだ当初は、激痛と嫌悪で己が身以外は気にかける余裕も無かったが、今の彼ならば、這いよる不埒な蟲たちを指ではじき飛ばすことも出来てしまえる。臓硯にバレたら半殺しだろうが、素足で踏みつぶすことだってやってやれないことはなかった。
――まぁ、やらないけどな。
 一匹や二匹つぶしたところできりがない。どうせ、ここからは逃げられないのだ。蟲たちが雁夜という生餌を食い殺すまで、この痛みを、苦しみを、恐怖を、堪え切るしかない。どうしてこんなことになったんだろう、と雁夜は何度も考えたのだ。間桐を継ぐこと拒んだことが、こんな扱いを受ける程の罪だとは思えない。雁夜だけならとにかく、桜まで蟲蔵に落とされる罪になんてなるわけがない。断じて雁夜の責任ではない、そう思ってしまいたかったのだ。十にも満たない少女が蟲に苛まれる様を目の当たりにしたときの絶望を思い起こせば、あれを自分のせいだ、なんて認めるわけにはいかなかった。
――絶対俺だけのせいじゃない。臓硯が遠坂に養子の申し込みなんかするのが悪い。それを受けた時臣が悪いんだ。
 俺のせいじゃないんだ、クソジジイのせいだ、時臣のせいなんだ!畜生、時臣の馬鹿野郎!優雅髭!バナナで滑って転んで死ね!
 蟲蔵の奥底の、八つ当たりに等しい雁夜の呪いは時臣には届かない。ぶくぶく沈んで、蟲の餌にもなりはしない。せいぜい、息子の苦しみを至上の喜びとするサディスト、臓硯を喜ばす程度だ。分かっていてても、雁夜の恨み節は止まらない。全部時臣のせい。この魔法の呪文は、一時雁夜の現実を忘れさせてくれる麻薬だった。葵さんに告白できなかったのも、身長が時臣よりも低いのも、徹夜で仕上げた原稿がボツったのも、後で食べようと残しておいたヨーグルトが腐ったのも、貯金がないのも、ポストが赤いのも天気が悪いのも、全部全部全部時臣のせいだ。そうでも思わなけりゃ、やってけない。それに、雁夜としては全く根拠のない恨みではないはずだった。そもそも雁夜が葵を諦めたのは、愛する人を魔術師の嫁などという地獄へと落とすことなどできない、その一心だったのである。その為に告白もせずに、断腸の思いで葵を諦めたのに、それなのにその雁夜の苦悩も知らず、涼しい顔をして彼女を奪っていった遠坂時臣、許し難し。
 雁夜の恨み辛みは、今更そんなことをゆわれても、レベルまで遡りつつあった。
 それでも、葵さんが幸せなら、笑顔でいてくれるなら、それなら諦めてやってもいい、そう思ったこともあったのだ。だから、仕事の合間に時間を作って2カ月に1回は葵さんたちに会いにいった。葵さんの笑顔が少しでも曇ろうものなら、すぐさま時臣に直談判でもなんでもしてやろう、そんなことまで思っていた。それを、その雁夜の信頼を最悪な形で裏切った時臣は許せない。絶対に思い知らせてやる。積年の恨みを思い知るがいい。
 痛みを堪える為に仕方がなかったとはいえ、精神衛生上からみると、最もよくない方法で苦痛を乗り切ってしまった間桐雁夜。曲がりくねった思考の果てに辿りついたその結論が、普通に考えればかなり歪んだ間違ったものであるということに、既に正常から足を踏み外しつつある彼は気付かない。痛いのは臓硯のせい、葵さんを泣かせたのは時臣のせい、桜ちゃんがあんな目にあっているのは、俺だけのせいじゃない。毎日毎日これのエンドレスである。間桐雁夜、色んな意味で人生後ろ向きであった。

■■

 はてさて。蟲蔵に飛び込んでから恨み辛みのマイナス感情だらけ、今日も今日とて恨みごと三昧な雁夜が沈むその場所を、ひょっこり覗き込んだ者がいる。間桐の蟲王、臓硯だ。

――ようもまあ飽きもせんと毎日毎日、時臣時臣いうとれるもんじゃ。そんなに遠坂の小倅が憎いとはの。

 臓硯にしてみれば、遠坂の現当主など青臭いガキにすぎない。更に当代きっての蟲使いと称された彼なれば、雁夜のように誰かへの劣等感に苦しめられたこともなかった。それゆえ、雁夜の時臣に対する感情を、本質的な部分で彼は理解できていない。葵を横から掻っ攫われた恨みは知っているが、ここまでしつこいと雁夜の苦しみを楽しんでいるはずの彼もやや引き気味である。執念深いというか、陰湿というか、陰険というか、これが自分の血脈かと思うと素直に愉悦れない。どうして自分の子孫は多かれ少なかれこの手の傾向を引きずるのか。一体何が悪かったのか。やはり土地が体質に合わなかったのだろうか。遠き故郷を追われてからの長き年月を思い起こし、少々しんみりしてしまう老妖怪。だが、よくよく考えてみよう。今までの間桐を育ててきたのは、他ならぬ彼自身である。何が原因って体罰どころのレベルですまない、虐待そのものな教育方法にそもそも欠陥があると考えるのが妥当な線だ。そこで自省することなく、やれ土地が悪かったかとかなんとか、雁夜の性格のルーツは間違いなく彼自身である。
 ともあれ、雁夜の時臣に対する感情は煽れば煽るほど雁夜が暴走する。その様は見ていて飽きないのもまた事実。このまま雁夜を放置していれば、早晩遠坂へとつっかかり、すぐに敗退することは目に見えていた。しかし、それではつまらない。聖遺物だってタダで入手したわけではない。間桐家の資産からみれば些細な金額とはいえ、一年間の無茶ぶり修行にだって、それなりにコストはかかっているのである。臓硯としては、もう少し雁夜で楽しみた・・・いや、もう少し雁夜に奮起して欲しかった。このままいけば、いくらなんでも雁夜とて己の目標がいかに無謀なのかに気付いてしまうだろう。

――聖杯を得るのが雁夜程度の実力で可能ならば、とっくの昔に聖杯戦争は終わっておるわ。

 刻印蟲やバーサーカー程度の底上げで勝ちぬけるほど甘い戦ではない。全て承知で雁夜の参戦を許した、初戦敗退しても惜しくない捨て駒として。だが、発端は雁夜自らの望みとはいえ、今となっては臓硯のささやかな楽しみとなりつつあるこの聖杯戦争である。雁夜に諦めてもらっては困るのだ。どうせ今回の聖杯戦争は、はなっから捨てていた。ならば、多少遊んでも問題はあるまい。同じ遠坂に殺されるにしても、最後の最後まで雁夜の苦しむさまが見たいのだ。ぎりぎりまで手のひらで踊ってもらおう、老い先短い年寄りの娯楽として。雁夜の鼻先にぶらさげるニンジンネタを考えながら、臓硯は内心ほくそ笑みつつ蟲蔵へと足を踏み入れた。蟲の痛みで雁夜の思考力が低下していなかったとしても、舌先三寸で息子を意のままに操ることは、臓硯クラスなら容易いことだ。まして、例え100%かなわない夢であろうとも、今の雁夜であればみせかけの希望にひかれて動くだろう。雁夜を絶望させないためのあとひと押し、外道の魔術師はまたロクでもない思いつきを含みながら、底へと向かう階段を一歩一歩降りて行く。雁夜を喰らっていた蟲たちが、主の気配を感じ取ってぎちぎちと歯を鳴らした。雁夜の険呑な視線を浴びても、臓硯は毛ほども気にしない。刻印蟲を受け入れた以上、雁夜は自分に逆らうことはできない。苛立たしげに蟲たちを払いのけた雁夜が、蟲蔵の底に立ちあがる。
「何しにきた?聖杯なら何れ手に入れてやる。年寄りは無理せず、部屋に引っ込んでたらどうだ?」
「ほ。バーサーカーをたった一回使役したくらいで、満身創痍のお前がよくもいいおるわ。」
 遠坂のサーヴァントにバーサーカーをけしかけた、あれが雁夜の初戦だ。戦略の欠片もない戦ではあったが、臓硯としてはそれなりに興味深いものだった。アインツベルン、遠坂のサーヴァントが確認できた上に、遠坂のサーヴァントは宝具の一つを晒している。これで間桐のマスターがせめてもう少し使い物になりそうなら、臓硯のやる気も出ようものだが、雁夜のこの体たらくでは後押しする気も失せるというものだ。バーサーカーの使役もあと数回が限度だろう。これが御三家の末裔とは、情けないを通り越していっそ笑えるではないか。
「わしの見るところ、このままではお前が聖杯を手にする可能性は万に一つもないのう。」
 ぽろりとこぼれ出たのは、臓硯の本音に近かったのだが、
「何がいいたい?嫌味をいいにきたのなら、とっとと出て行け。」
 残念ながら、雁夜には全く通じなかった。
「相変わらず可愛げのない。桜を救いたいのじゃろうが。その心意気と今まで生き残ったお前に敬意を表して、条件を緩めてやろうかと思うてやってきておるのじゃぞ。そのような口を叩いてよいのか?」
 その言葉に、雁夜は明らかに心動かされたようだった。無論、警戒はしていようが、条件いかんによっては受けてもいい、そう考えているのが手に取るように分かる。人生経験を積み過ぎた彼にとっては、雁夜の考えなどは赤子のそれを読むのと同じくらい容易で、つまらないこと甚だしい。
「ふん。今更聖杯はいらないとかぬかすなよ、ジジイ。」
「呵々。聖杯をお前が取ってきてくれるならそれこそ本望よ。そうではないわ。聖杯の入手以外に、あることをお前がしてのければ、桜の修行は取りやめてもよいと言っておる。」
「・・・どうせロクでもないことだろうが、言ってみろよ、クソジジイ。」
 馬鹿な奴。聞いてもいいなんていう態度なんぞは、相手に見せた時点で負けと心得よ。もうこの時点で、よほどの条件で無い限りは雁夜は受け入れるだろう。交渉の相手としては、雁夜ほど遣り甲斐の無い相手は無い。手ごたえの手の字もなかった。
「では、雁夜よ・・・。」
 だから、おぬしは愚か者よ。内心の嘲笑を隠しつつ、臓硯は徐にその新たなる条件を口にした。


 

(2013/03/27)

※そうやって誰かのせいばっかりにして、自分の見たいようにしか世界を見ないから、いつまでたっても時臣さんが壁になるんです。まずは自省しないとあかんて、雁夜さん。


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