モドル

■毒を食らわば皿までいこう 6


  遠坂の家には何度か足を踏み入れたことのある雁夜だったが、流石にプライベートルームまでは範疇外だ。間桐にいた頃ならばまだしも、ましてや寝室など。時臣が雁夜の数歩先をさくさくと進んで行くのに対して、雁夜の足はどんどん重くなる。彼の背中と自分の距離は、徐々に遠くなっていく。少しゆっくり歩いてくれ、そう頼むことだけは死んでもいやだ。ちっぽけなプライドだと、時臣は雁夜を笑うだろう。だけど、負けたくない。なんとしても。彼にだけは。
 左足を引きずりながら、雁夜は必死で時臣についていく。逃げ出すことも今ならまだできたのに、そのことは雁夜の頭を掠めることすらなかった。追いついて、時臣の手を捕まえなければならない。雁夜のことなど、路傍の石以下と思っている相手だとしても、だ。それにしたって。
――なんでこいつは俺の話にのってきたんだ?
 本気でバーサーカーを手駒にして操りたいのなら、お生憎様といったところだ。臓硯に言われずとも、雁夜自身が己の限界などとうに知っている。雁夜があれを呼び出せるのは、せいぜい後2回。戦闘の状況によってはそれも危うい。そもそも一旦解き放てば、マスターである雁夜ですらロクに制御できないサーヴァントなのだ。先般のバーサーカーの暴走は時臣も知っているはずだ。なれば、彼もバーサーカーを戦力にしたいわけではなく、単に狂戦士に場を乱されるのを恐れており、封じ込めておきたいだけなのだろう。
――それだけの為にパスを結んでもいいっていうのかよ。聖杯戦争の為なら何でもするにしたって・・・。何考えてるんだ、お前は。
 答えない時臣の背中に、言葉なき問いをぶつけるのは、雁夜にとってかつての日常であった。まさか10年たっても同じことをする羽目になるとは思わなかった。そもそも真に聖杯戦争の勝利を望むなら、まだるっこしい交渉などせずに時臣のテリトリーに踏み込んできた雁夜を狩ればよかったのである。聖杯戦争の為に、家門の栄光の為に妻子を、自分以外のすべてを犠牲にしても厭わぬ冷酷な魔術師であるなら、そうすべきだ。そして、遠坂時臣は臓硯と同じく、そういう魔術師になったのだ、と今の雁夜はそう思っている。葵と結婚した頃の、雁夜が知っている頃の、かつての時臣はもうきっとどこにもいないのだ。でなければ、間桐に桜を預けるなんてことができるはずはない。
――そうだ、お前もジジイと一緒なんだ。聖杯の為なら、どんな酷いことでもやって・・・。
 人を人とも思わず、魔術を極めるだけの為に、聖杯の為だけに。薄汚い魔術師ども、葵を悲しませ、桜を絶望へと叩き落した男。時臣は雁夜の敵だ。殺さなければ、殺さなければ、息もできなくて苦しくて、助けを求めることもできない。助けを求める?一体誰に?誰かが助けてくれるとでも思っているのか?雁夜を救いあげてくれる人など、今まで誰一人としていなかったというのに。
――・・・・・・・・・・・・・。
 時臣は振り返りもせず、相も変わらず雁夜の先を行く。伸びた背筋は、迷わぬ歩みは、雁夜が時臣を知ってから少しも変わらない。そして、雁夜が決して彼を追い越せそうにないと思ってしまうのも変わらなかった。だから、雁夜はまたも益体もない問いかけを、時臣の背中に繰り返す。振り返ってほしいと思わない日はなく、振り返ってくれるなと思わない日もなかった遠い昔のように。
――・・・・なあ、時臣、どうして俺を殺さなかった?
 憐れみ?優しさ?そんな人間らしい感情が。雁夜が期待をかけていたかつての時臣の、その欠片が今の彼に残っているのか。もし残っているのなら。もし、まだ残っているのだとしたら。
 不意に時臣の背中に縋りつきたい、そんな衝動に駆られて愕然とする。縋りつき間桐の真実を時臣に告げる自分の姿が目に浮かぶ。時臣が桜の窮状を訴えた雁夜を受け入れ、父親として彼女をも救い、葵の笑顔が戻り、そしてそれから。
 その幻が雁夜を捉えたのは一瞬だった。泣きたくなるほど幸せな夢想だ。今となっては決して叶うことがないと知っている、それ故に甘く、何より残酷な夢物語だ。救ってくれるわけがない、時臣は魔術師なのだから。
 伸ばしかけた手は、時臣の背中に触れることもなかった。これ以上、時臣に何を求めると?時臣に何を期待している?バーサーカーを生贄に差し出してやっと手に入れた、このきっかけは奇跡に近い。こんな状態でも、雁夜にとってはあり得ないほどの幸運なのだ。振り返らない背中への執着なぞ、忘れてしまえばいい。今はただ、桜を救える可能性にかけるだけだ。これが叶えば、少なくとも雁夜の罪は贖えるのだ。
 だから。
 努めて考えまいとしてきた当初の目的を、ついに雁夜は思い出してしまった。思い出すだけで胃に穴があきそうなアレである。
――畜生、全部時臣のせいだ。
 面と向かって時臣を罵れるほどの度胸は今の雁夜にはない。心の中で何を言おうが、当然赤い背中が答えてくれるわけはないのだ。

(2013/08/30)

※全然通じ合ってないから、この二人は面白いと思うんだけどねえ。


モドル