モドル

■毒を食らわば皿までいこう 8


 ああ、やっぱり逃げとくべきだったのだ。雁夜があまりにも遅すぎる後悔に駆られたのは、30分どころか1時間もたってからのことだった。時臣どころか、雁夜すら風呂を終えて準備万端、もうどこからでもかかってこい、な状態になっている。風呂上がりの時臣は、いつにもまして男っぷりが上がっているというか、自信たっぷりというか、であった。それにむかっ腹を立てる余裕なんぞない。すたすたと寝台に向かう時臣の背中を視線で追いかけるのが精いっぱいだ。
「それでは始めようか、雁夜。申し訳ないが、明かりは消してもらえると嬉しい。」
「……ああ。」
「ああ、そういえば。私の動揺した顔が見たいと言っていたね。ならばつけたままでも構わない。」
「いや、いい。明かりは消そう。」
「そうかい。」

 雁夜が明りを落とす間に、手早く上着を脱ぎ、ネクタイを緩める時臣の姿にはこれからの行為に対する躊躇いなんて微塵もなかった。心揺さぶられるのは、いつだって雁夜ばかり。時臣は揺らがない、違えない。だから、雁夜は時臣が嫌いなのだ。だけど、今日こそは雁夜がこの手で時臣を貶めることが出来る。そのためなら、雁夜はどんな高いハードルだって越えることができる、はずだ。
 シャツまで脱ぎ捨て、半裸となった時臣はベッドに腰掛けて、雁夜に視線を投げた。明かりはすでに落ちていたが、薄暗い中でも時臣の力強い体躯はよくわかる。男の体だった。相対する自分の痩せた体が思い起こされて、たちまち気が挫けそうになる。体格差だけの話ではない。主導権を握ると宣言した手前、リードするのは雁夜でなくてはならない。それなのに、雁夜は何をどうしたらいいのか分からない。だって恋を覚えてこの方、雁夜は葵にその純愛を、すべてを奉げてきたのである。思いだけでなく、体もささげてきたわけで。つまり雁夜としては、相手は葵以外考えられないわけで。彼女が人妻となってからも、未練がましくそれを引きずっていたわけで。無論、フリーライターで糊口を凌いでいた手前、取材や記事で仕入れた知識だけは無駄にあった。ナニをするのかは知っている。ちゃんと本に書いてあったし、インタビューした相手だってそう言っていた。しかし、実際雁夜が試してみたことは無い。いわば、ペーパードライバー。若葉マーク。誰でも最初は未経験とはいえ、その状態で初体験の相手が男で、しかも遠坂時臣。目の前のハードルがいかに高く、雁夜の手に余るものであるか、ようようにして彼は認識したけれども、すべて後の祭りである。だが、この試練を乗り越えれば、乗り越えさえすれば、雁夜の願いは叶う。桜を葵の元へ返せる、望んだかたちとはかなり違うが、時臣を倒すことが出来る。蟲蔵を乗り越えられたのだ、それに比べればこの程度のこと、どうってことないはずだ。そうだ、どうってことないはずなのだ。でも、雁夜としてはやっぱり同性を押し倒すなどという、常識の範疇を逸脱した行為を行うためには、それなりの起爆剤がほしい。例えば、時臣を葵さんだと思いこむのは無理すぎるので、そう……男ではなく女性だと思いこんでみるとか。これならばできそうな気がする。幸い?時臣はハーフでとても整った顔立ちをしているのだ。

――ここにいるのは時臣じゃない、男じゃない。女の人なんだ。

 傍から見れば間抜けな努力だが、いやはや雁夜は大真面目だ。自慢じゃないが思い込みは得意である。葵以外の相手と初めての経験(笑)をするなんて不本意だが、万が一葵と経験するときのために、無様な失敗をしないよう練習は必要だ、そうだ、これは必要なことなんだ。近づいてこない雁夜に、時臣が不審気に眉根を寄せるのが見えたが構ってられない。

――時臣じゃない、男じゃない、時臣じゃ……。

 時臣が筋骨隆々の大男でなくて本当に幸いだった。想像力はありとあらゆる制約を飛び越える魔法の力ではあるが、それとて限界というものはあるのだ。……遠坂時臣氏にとってはまことに気の毒な話ではあるが。 
 雁夜が自己暗示の為、努力に努力を重ねた結果、なんとか時臣を女性だと思いこめそうな気がしてきた。人生何事もチャレンジである。しかし、ここに至って大いなる問題が発生したことに、雁夜は気付いてしまった。時臣を女性として見る為には、彼の容姿にはある障害がある。女性にはあり得ない、あってはならない、アレである。
 必要以上にゆっくりと時臣に近づく。緊張のあまり、喉はからからだし、足元は震えがちだったが、明かりが落ちているため時臣には気づかれなかったようだ。対する時臣は先ほどから微動だにせず雁夜の様子を伺っている。時臣の正面にたどり着けば、大きなため息で迎えられた。どうせ、時は金なりとか時間は有限であるとか、そんなことを考えているんだろう。時間がないことは雁夜にだってわかっている。だから最大限の努力を払って、時臣を押し倒そうとしているのである。でもその前に、時臣のアレをなんとかしなければ。
 
「あの、時臣。」
「何かな?」
「その髭、剃らせてくれないか。」
「断るね。」
「だよな、そうだよな……。」

 髭のある相手を女性だと思うのはなかなか難しい。だからといって、ここでやめた、ってのは更に無理だ。ついでに言うと、時臣を女性だと思い込むのも、そもそもの前提自体に無理がある、もっと早くに気付け、俺。

――髭がなければなあ、いや髭がなくても無理かもだけど、つーか、俺とそんなに年変わんない癖になんで髭なんてはやすんだよ、馬鹿臣め。
 
 身勝手な感想を抱きつつも、さらなるステップアップの為に、時臣の左肩に雁夜は右手を置いてみた。時臣の瞳が雁夜を見ている。変わらぬ碧色は、雁夜にかつての憧れを呼び覚ます。彼が使う宝石にも似た青、綺麗だとそう思っていた、以前の雁夜は。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。遠い昔に読んだ恋愛マニュアル本の内容を何としてでも思い出さなければならない。最初の手順はキスしてから、押し倒す、だったような気がする。いや、愛の言葉を囁く、からか?ハウツー本だけで、実践経験なしのあやふやな記憶だから、頼りないことこの上なかったがやるしかない。
 キスだ。雁夜もいい大人なのだから、男性とのキスくらいどってことない。しかも、時臣は葵さんと当然キスもしてるだろうから、ここで雁夜が時臣とすれば、それは所謂間接キスというやつで。

――そうか、わあ、俺ってなんて運がいいんだ!って思えばいいんだよ、簡単だ!いける!

 葵との間接キスで喜ぶとかどこの小学生だと思わなくもないが、とりあえず言い訳がたてばもう何だって構わないのだ。雁夜はゆっくりと時臣に顔を寄せる。
 キスくらい、大したことではない。たかが唇と唇が触れあうというだけの話、その程度がなんだというのか。それに、片手で数えられるくらいのささやかな回数ではあるけれど、キスは流石に初めてではない。
 時臣の瞳は動揺の欠片すら見せずに、近づいてくる雁夜を映している。間近でみる時臣は、同性なのが恥ずかしくなるほど整った顔立ちだった。どうせ俺なんて、とは今は思うまい。もうすぐこの顔が汚辱と悔恨にゆがむのを見ることができるのだ。今度こそ、雁夜は時臣を超えることができる、ような気がする。
 お互いの距離はどんどん詰まっていく。今や二人の距離はほぼ0に近い。それなのに、時臣の無表情は微動だにしない。雰囲気が出ない、なんて贅沢は言わないが、雁夜としてはもう少し初心者に協力してくれてもいいんじゃないのか、と言いたい。最終的には時臣を嬲ってやるとか思っているわけだが、それはそれ、これはこれ、なのだ。

「えーっと時臣。」
「今度は何だい?」
「こういうときは目を閉じるもんだろ?やりにくいんだけど。」
「おっと、それは失礼。」

 思いのほか素直に時臣は目を閉じた。時臣とキスするのだと思うとやりにくいが、間接キスだと思えば雁夜としては望むところである。触れ合った唇は意外なほどに柔らかかった。本当は葵さんとしたかったけど、この際時臣でいいや、間接キスだし、と思ってしまえるのは、妥協している気もする。
 さて、口付けの関門はクリアしたとして、次のステップは。時臣を、ベッドに、押し倒して、そして。そこから先はあまりリアルに想像したくないミステリゾーン、雁夜にとっては未知未踏の魔境突入だ。心の準備として、まずは大きく深呼吸。
 よし、時臣を押し倒そう、押し倒すぞ、押し倒してみせる、押し倒したい、押し倒せればいいな、押し倒せるかな、押し倒せそうな予感がする。ええい、俺も男だ、一度決めたらやり遂げる、もう逃げ出したりなんてしないのだ、とばかりに時臣の肩を押してみた。思いのほか、あっさりとベッドに倒れる時臣の体に不思議な達成感を覚える雁夜だったが、はや時臣の視線は冷たいを通り越して絶対零度である。ちなみに、踏ん切りをつけるのと手順を思い出すのに必死な雁夜には、既に時臣の心中を慮る余裕なんぞ欠片も残ってなかったが。
 さて。雁夜の下には時臣がいる。薄暗い室内でお互い半裸で、もう後は雁夜が一歩踏み出せばそれで済む状態では、ある。わかってはいる、わかってはいるのだけれども。  

「時臣、ちょっと確認なんだけど。」
「まだ何か?」
「俺、このまま始めちゃっていいのか?」
「とっとと始めたまえ。」

 お許しも出たのだ。今こそ時臣を貶める絶好の、そして最初で最後のチャンスだ。パスを結ぶ事を承知した時臣は、雁夜の行動を拒まず受け入れるだろう。時臣を自らの手で倒すこと、雁夜の積年の願い、今こそ叶う時が来たのだ。動け。動いてください。雁夜の両手。今動かなかったら、今までやってきたことはすべて無駄、あの腐れ外道蟲ジジイに体を張ってちょっとした暇つぶしを提供した、で終わってしまう。

「雁夜?どうしたんだ?早くしてくれないか、お互い時間が有り余っているわけではない。」
「分かってるよ、分かってるんだけど……。」

 繰り返しになるが、ナニをしないといけないかは分かっている。今こそ、だいっきらいな遠坂時臣を蹂躙して、屈服させて、叩きのめすことができるだ。できるのに、雁夜の意思に反して、体は少しも言うことを聞いてはくれない。蟲蔵ダイブのときは躊躇わなかった。もう一度よみがえれ、あの時の俺!あれができればなんだってできる!
 いくら自分を鼓舞したって、浮かんでくるのは頼りない自分が、時臣を押し倒しているという滑稽な状況。しかも上半身裸で。想像するだけで萎える。この上に更に事態をすすめていいものか。そもそも最後までやり遂げる事が出来るのか。
 雁夜の額に嫌な汗が滲む。やること、とはつまり、アレだ。最後までやれる自信は、到底なかった。

「…………………。」
「……………………。」

 それは雁夜の人生の中で、もっとも気まずい沈黙の時間といってもいいくらいだ。

「………………………………………雁夜、立ち入った質問になるが、構わないかね?」
「………………………………………………………………………………………なんだよ。」

 いつもの上から目線はどこへやら、どこかしら雁夜への気遣いを感じさせる時臣の言い回しが癪に障るが、のんきにムカついている場合ではない。時臣を押し倒した状態で、ガチガチに固まってしまって雁夜は動けなかった。両肘を使ってズルズルと器用に体をずらした時臣の、優しくも生温かい視線で、雁夜のなけなしのプライドは最早瀕死だ。いっそこのまま時臣に燃やしてもらったほうが、どれだけ気が楽だろう。時臣を押し倒す、口で言うほど簡単に出来ることではない。色んな意味で。

「いや、やはりやめておく。その代わり、提案させてくれ。私が主導権を握る形を取りたいのだが、どうだろうか?」
「!!」
 雁夜の様子を見てとった時臣の、次の判断は早かった。雁夜ができないのなら、時臣から仕掛ける以外にやりようがない。至極妥当、合理的、且つ雁夜に任せるよりは数倍優雅だ。
「その方が、色々と手っ取り早いように思う。」
「て、手っ取り早いってどういう意味だよ。俺は別に!」
「言葉どおりの意味だよ。君も存外往生際が悪いな、自信がないなら自信がないとはっきり言えばいい。お互い知らない仲でもないし、こんな時に無駄なプライドなど邪魔なだけだ。」
 自信がないどころではなかったのだが、流石の時臣も雁夜が魔法使いになる寸前だったとは思いもよらない。
「お前相手にそんなこと言えるわけないだろ!って、おいちょっと待て!」
「待たない。私は君ほど暇ではないんだ。」
 動転した雁夜のささやかな抵抗も、時臣にしてみれば予想の範疇内だったようだ。身を起こした時臣が雁夜の肩を軽く押しただけ、たったそれだけでベッドに転がされたのは雁夜の方だ。元々の体格差、ウェイト差、おまけに雁夜は左半身が動かない、ではそもそも雁夜に勝ち目はない。
一瞬で床に縫われた雁夜は、そりゃあもう盛大に混乱した。時臣は上でも下でもどっちでもいいかもしれないが、雁夜はその点を譲るわけにはいかない。最後の思い出がまたもや時臣にしてやられました、なんてまっぴらごめんだ。だが、本気になった時臣に雁夜が敵うわけもなく。肩を押さえつけにかかる手を片手で払いのけようとしたが、あまりにも無駄な抵抗でありすぎる。払いのける間もなく腕を取られれば、それだけでもう動けない。作業的に押さえにかかる時臣に、雁夜が覚えたのは本質的な恐怖だ。真っ向勝負で雁夜に勝ち目がないことは、今まで散々思い知らされてきている。
「ちょ、ちょっと待て、マジで待てって!冷静になれよ、時臣!よく考えたら、俺、葵さんと棹姉弟なんて嫌すぎるわ!つーか大体、お前が俺なんかでたつはずがないっていうか!!」
「五月蠅いよ、雁夜。自分から言い出したことだろう、あれだけ大口を叩いておいて、無責任だと思わないのか?」
「や、やっぱりパスを結ぶことじゃなくて、セルフギアススクロールとかにしよう!俺、全面的に時臣に協力するからさ!な!」
 自由がきく右半身を駆使して、必死で逃げをうつ。ゾウケンから聞きかじった魔術用語を意味もわからずに口にしたのも、時臣を説得したい一心だったのだが。思いついただけで適当に口にした雁夜の言葉で時臣が納得するわけがない。当然、押さえつけられたままの態勢も変わらないし、時臣が雁夜の提案にのってくれる気配は欠片もない。それどころか。
「君は考えずに喋る癖をまずは何とかしたまえ!さっきも言ったけれども、自分が決めたことには責任を取るべきだ。乱暴にされたくなかったら、いい加減観念して大人しくしてくれないか!」
 いきなり頭ごなしに怒鳴られた。優雅貴族の表情には、もはや隠しようがないほどはっきりと不快だと書いてある。なんで?なんでだよ?何か地雷を踏んだのか?ギアススクロールじゃ駄目なのか?というか、”乱暴にされたくなかったら”って、雁夜ならとにかく時臣が口にして許されるセリフではない。少なくとも、雁夜の考える時臣はそんなことは言わない。もっとスマートでお上品なはずだ、それこそが遠坂時臣のはずだ。
「時臣、キャラが変わってるぞ!」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
 時臣が怖い。滅多と感情を表に出さないあの遠坂時臣が、本気の本気で怒っている。
「わかった、わかったから!大人しくするから、ちょっとどいてくれ!」
「………。」
 時臣の胡乱な視線が雁夜を追いかけてくる。が、黙って時臣は雁夜の上からどいてくれた。無論、もはやパスを結ばないという選択肢は残ってない。あるのは大人しくして優しくしてもらうか、無駄に足掻いて酷くされるか、雁夜にしてみればどっちもどっちだ。こうなったのもすべて雁夜が一線を超える度胸がなかったせいなので、流石に全部時臣のせい、は使えない。
 体を起こそうと身じろぎすると、察した時臣はすぐに雁夜の手を取り引き起こしてくれた。時臣の自然にそうしてしまえるソツのなさが、かつては妬ましくも鬱陶しかったものだが、今となってはもうどうでもいい。
「あーーー。いや、でも、俺は別に蟲で慣れてるっていえば慣れてるかもしれないけどさー。お前、俺相手で何とかできるのかよ。」
「…………………。結論から先に言わせてもらえば、何とかはなるね。体の生理的反応を操る術は、別に魔術師じゃなくても誰でも持っているさ。正しく五感に働きかければ、相応の反応を引き出すことは可能だ。」
 君に家にもこの手のものはあるだろう?と何の衒いもなく時臣は口にする。もってまわった言い方をしているが、要は媚薬の類を使うことだ。時臣の口からそんな下世話なネタを聞きたくはなかった、雁夜は葵にだけでなく時臣に対してもそれなりの理想像を持っていたのに。媚薬だのなんだのそういうネタは、飲み会で同僚に聞かされるだけで十分だ。時臣はそんなこと言わない、言ってほしくなかった。さながら憧れの先輩の意外な一面を見てしまった箱入り娘の如く、受け入れ難い現実にショックを隠しきれない雁夜であったが、そもそも雁夜の思い描く時臣ならば、雁夜とパスを結ぶなんてまどろっこしい手段をとってくれるはずもないわけで。桜を助ける為には、時臣と平和的な手段でパスを結べることは喜ばしい話であるのに、どうにも雁夜としては納得がいかない。それに、やっぱり間接キスならとにかく、という無駄な貞操観念が、出てこなくてもいい弱気の虫を呼び戻さますのである。
「でもお前、葵さんになんて言い訳をするつもりだとか、桜ちゃんや葵さんに、俺、なんて言ったらいいのかというか……お前はくだらないって思うだろうけど。」
 とことん歯切れが悪いのは、流石の雁夜もこと此処に至って言うには余りにも腰が引けすぎているとわかっているからだ。
「思うね。以前から思っていたが、君は魔術師としての行動と冬木での生活を混同しすぎている。君の言葉を私は間桐の魔術師のそれとして受け取っているんだよ?君がどんなつもりで言ったにせよ、君の全てには常に間桐の家が存在する。簡単に翻しては家門に傷がつきかねない。」
「……別にそんなもん、俺は気にしてないんだけどな……。」
「なんだって?!」
「い、いや!なんでもないです!ちょっと言ってみただけ……すいません。」
 柳眉を吊り上げる時臣に、心ならずも雁夜は謝ってしまった。今更、雁夜が何をしたとしても臓硯は痛くも痒くもないだろうが、時臣のあまりの剣幕にそれを言い出すことはできない。間桐の一族として雁夜を扱うのは実のところ時臣だけで、ずいぶん前から当主の臓硯からも鶴野からも、雁夜はいてもいなくてもどうでもいい存在だ。口にすれば時臣を更に怒らせることはわかっているので、無論それを告げるつもりはない。
「……。」
 言い訳のネタも逃げ出す気力もすっかり尽きてしまった雁夜は、肩を落として黙りこむ。
「さて、随分と寄り道をしてしまったけれども、雁夜もようやく納得してくれたようだし。そろそろ始めようか。」
 さあ、と雁夜に手を差し伸べる時臣の、その笑顔のなんと爽やかなことか。ムカつくし腹立たしいが、全部雁夜のせいである。
「そりゃ俺が言いだしたことだから、全部自業自得なのはわかってるけど、色々と納得いかないぞ、おい。」
「術式自体はさほど複雑なものではない、落ち着いてさえいれば何の問題も生じないよ、安心して臨んでくれたまえ。」
「無視か。畜生。」
 雁夜の恨み言を時臣はさらりと聞き流す。遠坂の当主様は、既に完全復活していた。半裸のくせして、何故に彼はこうもきまっているのか。優雅恐るべし。
「それに、少なくとも私は君よりは経験豊富なつもりだ。その意味でも安心してくれて構わない。」
「なんだ、そりゃ。遠回しな嫌味かよ。」
「嫌味のつもりはなかったけれども、そんな風に聞こえたのだとしたら申し訳ないね。」
「へっ。」
「雁夜。私のアホ面が見たいんだろう?始めるよ。」
「……。」
 令呪でバーサーカーを呼びだせば逃げられるとか、嘘泣きでもしてみせれば紳士を自負する時臣の手も止まるんじゃないかとか、余計な事を考えている間にも、青い瞳が雁夜にゆっくりと降りてくる。感覚が残る右半身に触れる手も、気味が悪いほど優しい。認めたくないが、可能な限り時臣はこちらを気遣っている。受け身の無防備さに雁夜が恐怖を感じないようとする配慮が、胸に突き刺さった。未遂に終わったとはいえ、先ほどの自分のやりようとのあまりの差異。時臣が出来た男なのは知っているが、こんな時に思いださせなくったっていいのに。
 時臣の気配から少しでも気をそらしたくて、雁夜は必死で考える。おかしい、そもそもこんな風になるはずがない。これは何かの間違いだろ?間違いだよな?だれか間違いだと言ってくれ。こんなつもりじゃなかったのに、どうしてこうなった?時臣を辱めるはずが、どうして雁夜が時臣を受け入れる羽目になっているんだ?
 いくら考えたって答えは出てこない。答えを知っているのは運命の神様だけだが、神の存在を信じない魔術師にその秘密を教えてくれるわけがないのだ。


(2014/05/11)

※主導権を取られた。


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