■2月の憂鬱
早春とは名ばかりの2月。しかし、生徒たちが寒さを忘れ、浮つく一日がある。所謂バレンタインデーというやつだ。お昼休みや下校途中の本命を捕まえて、チョコレートを手渡す女生徒たちの華やかなること、その手の騒ぎとは元より無縁の雁夜ですら、少々心の浮き立ちを感じるほどだ。なんやかんやと理由をつけて帰宅を遅らせるのが恒常化している雁夜にとって、自席―窓際前から三番目―からの、バレンタインデーの攻防戦は格好の見ものであった。ましてや、彼女らの攻略相手が自分の知人であるなら尚更だ。
「・・・四人目。」
右手で頬杖、で校門近くを見守って早30分。雁夜の視線の先には時臣がいる。青い瞳に整った顔立ち、育ちのよさを感じさせる物腰、その上、頭もよく性格も優しい、とくればもてるのは当たり前なのだ。今日、この機会をとらえて、思いのたけを伝えようとする女生徒たちの数、雁夜が観察を始めてから既に4人。ちなみに、誰ひとりとして時臣にチョコを受け取らせた者はいない。
優しく微笑みながら、それでも曖昧にせず、相手に期待を持たせずに、きっちり断っているのだろう。遠坂の跡取り息子という彼の立場は、他人が考えるようなそれではなく、その己の血を真正面から向き合うとすれば、時臣のようなやり方にもなるのも決して不思議ではない。そのやり方を酷いと非難する者もいようが、雁夜はそう思わなかった。100%望みがないのなら、時臣のやり方こそが正しいのだ。下手に優しくされて、その子がもしかしたらと思ってしまったら、それが叶わなかったときがつらかろう。ならば、最初から期待させない方がマシだ。
5人目が時臣の傍に寄って行くのが見える。彼女もきっと丁重にお断りをされるのだろう。可哀想だな、と雁夜はそういう風にも思う。先ほど、自分で時臣のやり方を肯定しておきながら、それはあっさりと彼の中で覆っていた。元来、雁夜は深く物事を考える性質ではない。
大体、時臣のような奴が誰かとお付き合いしないなんて、高校生活への冒涜だ。四角四面に考えなくったっていいだろうに。同級生たちのように、鶴野のように、学生生活を楽しめばいい。時臣ならば、その資格はある。
左手に目を落とす。腕時計は四時をさしていた。学校で粘れるのも、もってあと一時間といったところだ。帰りたくない、帰りたいはずがない。家に帰ればあの男がいる。が、他に帰る場所もない。学校で過ごす時間を姑息に引き延ばすのが、雁夜の精いっぱいの抵抗だった。時臣観察もその一環だ。
視線の先の彼女は、勝ち目のない勝負に挑んでいる真っ最中だ。断られるだろうな、と雁夜は思った。普通に可愛いと評価して差し支えないように思える女生徒だったが、時臣を動かせるほどのモノを感じない。それなり長い付き合いだ、それが分かる程度には、雁夜は時臣の事を知っている。可哀想に、と思うが、やはり他人事だった。
「おーい、雁夜。まだ帰らないのか?」
「うーーん。」
時臣から視線を外さず、反射的に返した雁夜の言葉は全く答えになってない。廊下から顔をのぞかせて彼を呼んだ学生は、それに気にとめた風もなくずかずかと教室に入ってきた。膨らんだ紙袋を片手に、雁夜に近付いてきた彼の名は後藤という。数少ない雁夜の友達の一人だ。
「帰らないのか?何見てんの?こんなとこにいてても、退屈だろ?」
彼はよく喋る。雁夜が返事をしてもしなくてもお構いなしだ。雁夜が1喋る間に、彼は5を返してくる。軽妙な喋りと、ドングリ眼に太い眉、愛嬌のある彼は人気者だ。膨らんだ紙袋はきっとチョコだろう。少しだけ羨ましいが、無論雁夜はそんなことを口にしなかった。
「何見てるのかと思ったら、"時臣様"か。なるほど、相変わらずおモテになって、羨ましいねえ。」
ロクに返事をもらえないのを全く気にせず、――この程度で気を悪くしていたら、雁夜とは付き合えないが――雁夜の視線の先を追った後藤が、聞き流せない言葉を言った。なんとも前時代的な通称に、流石の雁夜も思わず聞き返す。
「時臣様?」
「女子のつけたあだ名だよ。ファンクラブみたいなので、そう呼んでるみたいだな。」
「ファンクラブ?!」
「雁夜、声が大きい。ご本人様に聞こえちまうぞ。」
時臣がもてるのは知っていたが、ファンクラブだと?確かに、時臣はとても整った顔立ちをしているし、誰に対しても分け隔てなく紳士的な態度を崩さないし、更には勉強もよくできる努力家のお坊ちゃんで。
考えれば考えるほど、やるせなくて胸が詰まる。雁夜は、溜息とともに机に突っ伏してしまった。他人に誇れるものなど、雁夜は何も持たない。それなのに昔から比較対照される相手は、色んな意味で自分よりも能力の高い、到底勝ち目のない相手ばかりなのだ。鶴野しかり、時臣しかり。十数年生きてきて、回りに期待をされることもなく、自分にも諦めを感じてはいるが、それにしたって、と雁夜も思う時がある。そういう運命なのだ、と思うようにはしているから、今更傷ついたりはしないけれども。
「気持はわかるけど、僻むだけ無駄だって。まあ、時臣様が友達っていうのも辛い立場だとは思うけどさ。」
「その"時臣様"ってのやめてくれ。それに、俺と時臣は友達じゃない。」
「学年違うくせに、よく一緒に帰ってるじゃないか。仲いいんだろ?」
なんだと。またもや聞き捨てならないその言葉に、雁夜は顔を上げた。時臣と仲がいいなんて誤解は、すぐに解いておかなければならない。
「そんなに仲がいいわけじゃ・・・。一緒に帰るったって毎日じゃないし。」
毎日ではない、せいぜい三日に一度。それに、雁夜が時臣を誘っているわけでもない。家に帰りたくないあまり、教室に自主居残りをする雁夜を時臣が勝手に迎えに来るだけだ。勿論、迎えに来てほしいなどと、雁夜は一度たりとも頼んだことはない。
「なんだそりゃ、よくわからん関係だな。一緒に帰ってるのに、仲はよくないって?」
「別に俺が時臣に一緒に帰ろうって誘ってるんじゃないぞ。引き立て役にちょうどいいから、とかじゃないの。」
学年も違う。趣味も違う。性格も違う。時臣と雁夜の共通点なんて何もない。引き立て役というのは、実に妥当な理由だと雁夜には思える。だが、後藤は雁夜の答えを一笑した。
「はは。そこまで優柔不断な性格してないだろうに。」
「どういう意味?」
「だって、お前そういうとこはっきりしてるだろ。嫌なら断ってるよ。」
「断る理由がないから、だよ。一応、先輩だからな。」
それ以外に他意は、ない。知り合いから帰ろうと誘われれば、いくら雁夜だって無下にはできないのだ。勿論、後藤に同じ誘いをうけて、断ったことは今までに一度もなかった。
「そういうもんかね。」
「そういうもんだよ。」
「何でそんなにむきになるんだよ?」
「俺は、むきになんてなってない。」
「遠坂先輩と友達だなんて、いいことじゃないか。」
「だから、友達じゃないって。」
非生産的なやり取りを交わした末に、諦めたのは当然ながら後藤の方だ。
「まあいいけどな。」
納得いかない。後藤がそう思っているのは、その顔を見ればすぐにわかる。だが、雁夜は認めるつもりはない。時臣は友達なんかじゃない。絶対に。
寡黙で一見大人し気な雁夜は、実のところ一度決めたら梃子でも動かぬ強情者で、それは後藤も知っていた。
「・・・友達じゃない。」
苦い呟きを最後に雁夜が押し黙ってしまえば、そのまま会話が途切れてしまう。
外から吹き込む風が、カーテンを乱暴に押し上げた。二月の風は、まだ冬の冷たさしかない。暗く沈んだ空の色、春はまだ遠かった。
不意に寒さが身にしみて、雁夜は自分の体に腕をまわす。冷えた体をいくら抱きしめても、簡単に温まりなどはしないのだけど。
友達じゃない。友達じゃないなら、じゃあ一体何なんだろう。わからない、ただそれを思えば心が凍える。時臣の背中、真っすぐに伸びた背、声、思い出せば、それが雁夜をいつも苛む。追いつけないし、振り返ってもくれないから。
「ふぇっくし!」
色気の欠片もない、後藤のクシャミが上から降ってきた。ついでにとっても嬉しくないものまで降ってきた。
「っわ!後藤・・・お前、汚い!」
「だって、寒いし、生理現象だし、まあ、諦めろ。」
けらけら笑いながら、ひらひら手を振る。あまりの悪びれなさに怒る気も失せた。ついでに先ほどまで雁夜に纏わりついていた重たく湿ったモノも、後藤の笑顔がどこかへ吹き飛ばしてくれたようだ。
「なあ、雁夜。もう帰ろうや。」
「ん。」
窓の向こう側では、未だ時臣がアタックを受けている。もう何人目の女子か、雁夜にはわからなかった。だが、もう時間つぶしする必要はない。何人玉砕しようとも、雁夜にとってはどうでもいいことだ。今、また一人、時臣に断られた子が踵を返す。走り去る少女を見送る時臣の、困惑を含んだ微妙な笑顔が、距離があるにもかかわらず、雁夜にははっきりと見えた。時臣は、いつか女性に刺されてしまうに違いない。そう思いながら、雁夜は立ち上がる。
時臣様、とは何と言い得て妙だ。その瞳は、透き通る海の青。女性から見れば、彼は王子様なんだろう。その目に自分だけを映して欲しい、名前を呼んでほしいとそう憧れたりするんだ、きっと。綺麗で優しい王子様、決して手の届くことのない夢まぼろし、望むだけ無駄だ、どうせ手には入らない。傷つく前に諦めてしまえばいい。
何故だろう、どうしてこんな三流詩人みたいな言葉ばかりが浮かんでくるのか。本当に呆れるほどにくだらない。彼と自分は、存在している世界すら全く違うというのに。相手を知れば知るほど、己を惨めな立場に追いやってしまうばかりだというのに。それでも、視線を外せない自分はいったい何だというのか。
そう。だって、今この瞬間も、時臣の姿を、追いかけてしまうのだ。自分に気づいてくれるな、それだけを願いながら。もし気付かれてしまったらどうしたらいいのだろう。気付かれてしまったなら?
その時、視線の先の時臣が振り返る。蒼い瞳が、雁夜に向けられていた。口元が言葉を紡ぐ。声は聞こえない、あまりにも隔たっているので。唇が動く、その形だけ、あり得ないほど甘く優しく、はっきりと雁夜に届く。
「雁夜。」
時間が止まってしまえばいいのに。その瞬間、心が震えた。そして、そう感じてしまった自分自身が、雁夜は心底恐ろしいと、そう思った。
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