モドル

■行き止まりの男




 桜の手を引き、雁夜は走る。行くあてなどあるはずもなかった。ただただ、間桐から逃げなければならないという思いが、それだけが彼を突き動かす。走れ、走れ、決して立ち止まるな。後ろを振り返ってはいけない。
 間桐の家に戻ったその日に、彼は桜を見たのだ。かつてあの公園で、笑いながら凛と駆けていた少女が、蟲蔵で嬲られる様を。色を失った虚ろな瞳を。桜をこのままここに置いてはいけない。体が蟲に完全になじむ前に、間桐から逃れられるうちに、彼女を連れてここから逃げる。お互い体に蟲を植えつけられる前ならば、臓硯の人形となる前ならば、限りなく低いとはいえ、逃げおおせる可能性は決して0ではない。
 折しも今夜は臓硯が食事(ヒトクイ)にでている筈の新月。闇夜に紛れ、冬木を出よう。深山町の西の森を抜ければ、冬木の外。もう追ってはこれまい。この街を出さえすれば、出ることさえできれば。桜は何故?ともどこへ?とも問わずに、雁夜が導くままに彼の手を取った。しっかりとつながった少女のぬくもりが雁夜を前へと向かわせる。絡みつく草草が、温く頬に纏いつく風が、無駄だ、無駄だと雁夜に囁く。間桐からは逃げられない、臓硯が逃さない。戻ってこなければよかったのに、見逃してもらえた幸運をドブに捨てた愚か者。
 ああ、五月蠅い。五月蠅い。そんなことなど百も承知だ。逃げられない?そんなこと、どこの誰が決めたというのか。逃げてみせる。一度は逃げおおせた、二度目ができないわけがない。そうだ、絶対に逃げてみせる。
 そう思わねば足がすくむ。間桐の当主は裏切りを許さない。一度は逃した。二度目を許すは、臓硯のプライドにかけてありえない。逃してはもらえない?心の隅に陰る不安から、敢えて雁夜は目をそらした。それを見ては負けてしまう。

「おじさん。」

 黙って引かれていた桜が、雁夜を呼んだ。

「もう少しだから、桜ちゃん。もう少しだけ我慢して。」

 足を止めずに、雁夜は答えた。遠くへ行かなければ。もっともっと。

「でも、おじさん。お祖父様が来た。」

 ぞわり。前触れもなく、雁夜の周りが黒く歪む。魔術?いや、黒い闇からその姿を顕していくのは、雁夜も見慣れた生き物たち。きちきちと牙を軋らせるもの、空を震わせ唸るもの、穢れた鱗粉を宙に撒くもの。間桐の眷族、蟲蔵に潜むおぞましい秘儀が、気付けば桜と雁夜をびっしりと取り囲んでいた。羽音の低音が鼓膜を逆なで、鱗粉が甘くぬめって毒を注ぐ。もう、動けない。逃げられない。先触の蟲のあとから、間桐の当主が現れる。始まりの御三家が一、蟲使いの臓硯がそこにいた。


 その視線に、息が詰まる。耳元で囁く誰か。だから言ったのに、だから忠告したのに。もう遅い、もうおしまい。蟲使いが笑うのが見えた。枯れた指先が、己を指すのが見えた。
 蟲の渦が速やかに主の命令を遂行せんと膨れ上がる。生餌を前にした喜びか、歯鳴りが一層高くなった。雁夜は最早動くことすらかなわない。見たくもない己の運命を、ただ頭を垂れて受け入れるばかり。
 乾いてひび割れた、笑い声が聞こえた。笑っているのは誰だ?桜を助けなければいけないのに。葵さんがきっと待っていてくれてるのに。
 雁夜は、確かに己の手を握りしめているはずの少女を見ようとし。桜が、色を失った瞳で、ただ雁夜を見つめるのを見たような気がして。
 それが、彼が一番最後にみた、――

(2012/03/01)

※間桐雁夜の死亡フラグ回避挑戦A:桜を連れて間桐から逃げる→BADENDでした。


モドル