モドル

■7月の誤算


 
 色とりどりの極彩色の花々や、目の色、髪の色、話す言葉もまるで違う人々、巌に彫られた宗教彫刻、かつてあった人々の不可思議な神殿、こことは違う空の色、海の色。ページをめくる都度現れる、雁夜がまだ見たことも行ったこともない異国の景色が、彼を魅了してやまない。行ってみたい、という思いは未だ憧れの域を出ず、どうせ無理だからと諦めで締めくくられるのもいつものことではあったが。それでも、雁夜にとって向こう側の別世界は美しい。己がここに縛られているという意識がある分、届かない世界だからこそ、より一層魅力的に思えるのだが、そのことに彼は気付いていなかった。雁夜を囲む冬木の町並み、窓から差し込む夏の夕日差しも、桜の緑の鮮やかさも、それは決して珍しくない日常ではあったけれども、劣らず美しいというのに。ただただ、遠くの世界ばかりを夢見ている雁夜が、それに気づかないのは本当に残念なことだ。
 人気のない教室で、一人、本を眺めながら、雁夜は埒もない時間を食いつぶす。六時を過ぎても、日暮れまでまだ余裕がある季節になった。家に帰らねばならない時間が先送りできるだけでも、彼にとっては有り難い。後、三十分はここにいられる。暗くなったら家に帰ろう。
 と。廊下をゆく足音がこちらに近づいてきているのに気付き、知らず雁夜は顔をしかめた。こっちくんな、と密かに祈ったのも空しく。教室の扉をあけ、こちらへ近づいてくる足音ひとつ。誰かと確かめるまでもない、誰なのかなんてとっくに分かっている。だから、敢えて本から目をそらさなかったのだ。

「雁夜、まだ帰らないのかい?」

 誰かは、雁夜の机のすぐ横までやってきた。こうなったら意地でも相手を見てやるまい。

「これを読み終えたら帰るよ。」

 世界中の国が載っているだけあって、馬鹿みたいにその本は厚かった。本気で読んでしまおうと思ったら随分と時間もかかる。こういえば、普通ならば先に帰るのが当然だ。少なくとも雁夜はそう思っている。だけど、雁夜の”当然”は、その相手には全く通じないようだった。

「読み終えたらって・・・夜になってしまうよ?今日はもう帰らないか?」

 相手が先に帰る選択肢を選ぶ様子が全くないのが分かると、早々に雁夜は諦めた。余所余所しく振舞ってみたって通じなければ何の意味もない。ようように傍らに立っていた時臣を見やれば、相変わらずの笑顔で雁夜を見ている。

「雁夜が地理書を読んでいるの、初めて見たよ。」
「そうか?行きたいなあってみてるだけで、結構楽しいからさ。」
「いずれ君だって時計塔に行くだろうし、その時にヨーロッパなら見て回れるよ。そろそろ君も・・・。」

 時計塔。倫敦は大英博物館にあるという魔術協会の総本部。若き魔術師たちの教育機関としてもその名を知られている場所。遠坂時臣のように間桐雁夜がそこへ留学する未来なんてありえない。例え、雁夜が間桐を継ぐ羽目に陥ったとしても、あの男が真っ当な魔術師としての教育を雁夜に施そうとするとは思えず。己の血に矜持など持てるはずもない雁夜もまた、時計塔への留学など願い下げだった。
 とはいえ、雁夜は自分の本音を時臣に告げようとはこれっぽっちも思わなかった。何も知らずに、同じ古き血を受け継ぐものとしての親愛を寄せてくる時臣を愚かだと密かに馬鹿にしたいのか。それとも、自分ですらはっきり分からない他の理由があるのか。判然とせぬ胸の内を突き詰めて考えることをせず、雁夜はまたいつものように、話を逸らすことを選んでしまう。

「ああ、そういえば時臣はもうあっちに行ったんだっけ。いろんな国を見たんだろう?言葉で困ったりしなかったのか?」
「一応、向かう前に色々勉強したからね。それほど困らなかったよ。」
「あ、そう。そりゃ素晴らしいな。」

 何事もそつなくこなす彼のことだ、家訓通り余裕を持って優雅に留学をこなしたのだろう。魔術師たちの時計塔にはきっと電化製品もないだろうから、彼のウィークポイントがばれるはずもない。ちょっとしたうっかりをしたとしても、それは遠坂時臣の名を少しも傷つけはしなかったろう。だから、雁夜の目の前にいる時臣は、未だに完璧で非の打ちどころのないまま。
 やりきれないな、と不意に思った。
 何故、時臣はわざわざ雁夜を誘いにやってくるのか。学年も違うのに。友達の数だって、雁夜よりもずっと多いのに。せめて傍にいなければこんな思いをせずにすむ。もうこれ以上、近づきたくないし、近づいてほしくもない。そう思いながらも、もし本当に時臣が離れていけば、どれだけ自分が寂しく心痛ませるか、雁夜はわかってしまっているのだ。そうしてもう一つ、直視したくない事実がある。時臣は雁夜がいなくなっても、何の痛痒も感じない、と。今、示されている親愛も、ただの義務―礼儀だの社交辞令だの―そんな無味乾燥な代物に違いないのだ。
 本当にやりきれない。

「ほら、雁夜。日が落ちてきたよ、もう帰ろう?」
「俺は、まだ帰らない。」

 帰りたいなら先に帰ってほしい。雁夜を待つ必要なんてどこにもない。そう、何一つそんな理由はないのに。

「そうかい。」
「先に帰れよ。待っててくれなんて言ってないぞ。」

 迎えに来てくれなんて言ってない。待ってて欲しいなんて思ってない。時臣が、勝手にそうしてるだけなんだ。それだけなんだ、絶対に。

「そうだね。」

 何度も頷いておきながらも、時臣は帰るそぶりを見せない。

「・・・。」

 埒が明かない。時臣から目を逸らして、雁夜は再び本へ向かった。
それなのに。時臣の気配は一向に動かない。
 ついさっきまであんなに魅力的だった異国の景色は、砂を噛むような味気ない、つまらないものにみえる。少しも集中できない。
時臣は、やっぱり動こうとはしない。
 ただ馬鹿みたいに突っ立ってるだけなんて退屈だろうに、どうして帰ろうとしないんだ。律儀に義理立てなんてしなくていいのに、放っておいて帰ればいいのに。
時臣は動かない。
 なんでだよ、馬鹿野郎。なんで、なんでいつもいつもそうやって。

「・・・なあ、時臣。この国の言葉で何か言えるか。」

 喉の奥からこみ上げる、わけのわからない感情をいつものようにねじ伏せ抑え込む。
 時臣が帰るつもりがないのなら仕方ない。それならそれで、自分のペースに付き合わせるしかない。半分無理やりに時臣に話を振った。ネタも適当、開いていたページを適当に指差しただけというだけのお粗末さ。それでも時臣ならば、真面目に応えてくれるに違いない。

「ん?スペイン?」

 時臣の反応は、雁夜の予想を裏切らない。こんなつまらない話題にさえ、彼は。
例え時臣が間違えても、雁夜は気づきはしない。そんなことくらいわかっているだろうに。

「知らないなら別にいいけど。」
「・・・・・・。」

 ほんの少しだけ、時臣は逡巡したように見えたが。

「・・・"me gusta usted"」

 淀みなく、そう答える。日本人離れした容貌の時臣が口にする異国の言葉は、違和感がまるでない。そういえば以前、雁夜は彼から、ハーフなのだと聞いたことがあった。

「めげすた・・?ふうん、どういう意味なんだ?」

 時臣は笑って答えない。だが、こんなにあっさりと答えられては面白みがない。ちょっとは自信ない顔を見せてほしい。

「じゃあ、ここは?」

 適当にページをめくって、選んだ国はヨーロッパの一国だ。

「Ik hou van je.」

 即答された。ますますもって面白くない。

「この国は?」
「Seni seviyorum、かな。」

 こともなげにそう言って、時臣はやっぱり微笑んでいる。面白くなかった。更にいうなら、なんて可愛げがないんだ。困った顔しろよ、空気読め、馬鹿。

「お前、適当に言ってるんじゃないだろうな?」
「そんなことはしないよ。」
「じゃあ、この国は?」

 子供っぽいのは承知の上だ。雁夜が更に次の国を示したのは、半分意地である。

「・・・・。」

 時臣が口ごもった。バツの悪い顔で視線を泳がせる時臣の表情を捕えた雁夜が感じたのは、意地の悪い満足と根拠のない優越感である。時臣だってなんでも出来るわけじゃないんだ。そんな暗い喜びは、だけど次の時臣の言葉がひっくり返してしまう。

「雁夜、そこは日本のページだよ。」
「あ・・・。」
「さあ、もう帰らないと。すっかり暗くなってしまった。」
「・・・じゃあ、今まで言ったことを日本語で。」
「雁夜。」

 見たくて見たくてたまらなかった時臣の困り顔は、頗る雁夜を満足させた。我ながらなんと性格の悪いことだろうと思うが。やられっぱなしで終わらせるのだけはお断りだ。時臣の答えを待たずに、本を閉じる。思ったよりも大きな音がした。

「なんてな、冗談だよ。さ、帰ろう。」

 夕闇へちらと眼を走らせて、雁夜は起ちあがる。時臣の言ったとおりだ、これ以上帰りは引き延ばせない。遅くなったのは雁夜が片意地を張ったからだ。罪悪感が雁夜の胸をチクリと刺した。次、もしも懲りずに時臣が雁夜を誘いに来たら、意地悪をせずに素直に一緒に帰ろう。

「・・・。」

 時臣からの返事はない。流石の時臣も、雁夜のあまりな絡みように怒ったのだろうか。年も上だし、間桐と遠坂の立場も、冬木のオーナーという意味で遠坂の方が上位である。時臣の怒った顔など、雁夜は今までほとんど見たことがないが、それに甘えて調子に乗ってしまったのかもという意識はあった。時臣と一緒にいると、自分が嫌な人間に思えて腹が立つが、時臣には全く非がないのである。謝らなきゃ、そう思った雁夜の行動は早い。

「時臣?・・・ごめん。俺が態度悪かった・・・です。」

 考え事をしてるのか、俯き加減の時臣を窺いつつ、雁夜は頭を下げ。

「・・・”貴方が好きです。”」

 そのせいで、ぽつりと頭上を通り過ぎた時臣の言葉を聞き逃してしまった。

「え?何?」
「日本語で、と言ったのは君だよ?君が好きだって、そう言ってたんだけど。」

 顔を上げた雁夜と、時臣の目があった。時臣の瞳の青は、いつも通り澄んでいる。いつものように笑っている。当然のように、当たり前のようにさらりとこぼされたせいで、雁夜は何を言われたのか理解するのが遅れた。

 あり得ない言葉が、あんまりにもいつもと変わらぬ顔で、薄暗い教室の中で、あっさりと宙に消えて、まるで嘘のようだ。

 呆けたように雁夜の口は開くのだけれど、声は出ない。
 さっき時臣がなんて言ったのか、分からない。あり得ない。
 好きだって?まさか。何を考えてそんなことを?
 ひたすら混乱する。当然だ。
 だって、時臣は俺なんかよりもずっとずっと。
 わけがわからない。
 好き?好きって、そんな馬鹿なことを。
 嘘だ、きっと聞き間違いだったんだ。そんなことを時臣が言うはずがないんだ。
 俺のことが好きだなんて、あり得ないんだ。

 思考はループして、ループしてまた戻ってくる。雁夜はもう動けない。
 だのに、爆弾を投げつけた本人は呆れるほどに普通に、雁夜に手を差し伸べるのだ。

「どうしたんだい?帰らないの?雁夜。」

 だから、つい。手を、雁夜は取ってしまった。いつものように。

(2012/05/25)

※間桐雁夜の学生時代ねつ造、時臣との年齢差ねつ造。さて、時臣フラグ1がたちました。


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