モドル

■君の理想郷に届かんことを 


  深夜の蟲蔵は、うすら寒いほどに静かだ。カサカサと途絶えることない蟲のさざめきも、餌を求めて鳴き転がる蟲の醜行もない。いつも雁夜を拘束する手枷足枷が、今この時に限ってはひどく場違いにみえ、ここで日々行われる残酷な調教は、その気配すら残っていなかった。それは臓硯が食事に出かけるときの常だ。臓硯は、きっと今この瞬間、冬木の町で誰かを喰らっているのだろう。
 魔術師になるためという名目の拷問を受ける時以外、できれば近づきたくもないはずのこの蟲蔵に雁夜が真夜中に訪れた理由は、本人ですらはっきり分からない。臓硯は数日中には召喚の儀を執り行うと、雁夜に予告していた。いよいよ始まろうとしている聖杯戦争に、らしくもなく興奮して寝付けない、わけではないだろうけれども。雁夜は蟲蔵の中を見渡し、その冷たさに身を震わせる。半身麻痺が残る体では、蟲蔵まで降りて行くことだって楽な作業ではないのだ。深夜の墓参りなんて酔狂な真似をしたかったわけでは決してない。そもそも先祖の亡霊ですら、蟲に喰らい尽されているはずだ。
「何で俺、こんなところに来たんだ?」
 口に出してみれば、一層虚しさが募る。問うたところで答えてくれるものなど誰もいない、たとえ誰かいたとして失笑されるのがオチだ。夜中に一人で地下室にやってきた挙句、何しにきたのかわからないなどと。
 疲れているのだろう。いや、それとも狂ったか。この一年。ひたすら蟲に苛まれ、嫌悪感しかない魔術の洗礼を受けるだけの日々。時臣への憎悪と、臓硯への殺意、葵への恋慕、桜への自責、それらだけが雁夜を生へと繋ぎとめる縁だった。そんな頼りない糸に縋って、死んだ方がマシな目にあいつづけたのだから、知らず狂ってしまったというのもありえぬ話ではない。自分が愚かなことをしているという自覚は雁夜にもあった。臓硯の操り人形になるのを、間桐の魔術に身を染めるのを、誰よりも恐れていたのは他ならぬ雁夜自身だ。それを。今から思えば奇跡に近かった臓硯のお目こぼしを、自ら棒に振ってしまった今の自分の行為は、気が狂ったという言葉でなら容易に説明がつく。命がけで桜を救おうとする思いがあるならば、もっと別の方法だって選べたのだ。死と破滅が待つだけの、こんな方法よりももっとマシな方法が、今となっては選ぶべくもない可能性が。
 もうこんなところまで来てしまっているというのに、今更のように現実に立ち返りそうになっている自分を封じ込めるためにも、雁夜は天を振り仰ぐ。視界を押しつぶす石の天井、夜よりもなお暗い蟲蔵の空。せめて見上げた先が満天の星空であったならば、迷いも少しは晴れたろう。だが、見上げた先は救いの夢すら見せてはくれず、雁夜をつきはなすのみ。聖杯戦争を勝ち抜いて、桜を助け、葵の笑顔を取り戻さなければならないのだ。そのために、他の参加者を倒して、時臣を倒して、殺して。桜を取り戻して、時臣を殺して。殺して?殺して?それから?それから一体どうしたらいいのだろう?
 それはいうなれば酩酊の中、ふと醒める一瞬に似ていた。例えば、誰かのちょっとした一言。窓から見えた景色。一時の酔いの隙間から垣間見る、いつかは戻らねばならない現実。
 眩暈がした。行き止まりの未来しか見えない。わかって選んだ道だ。だが。踏みしめている感覚がなくなる、足元から冷えていく。
 どうしたらいいのかは決まっている。迷う必要はない。聖杯戦争を勝ち抜き、臓硯の元に聖杯を持ちかえるのだ。何のために?桜を取り戻すために。葵に笑ってもらうために。何故?何故?何故葵に笑ってもらわないといけない?何故なら、雁夜は、葵の事が好きだからだ。禅城の血をひく彼女の事を愛していた、今でもきっと愛している。初めて会ったときから忘れられない。優しい笑顔の、心地よい声の女性(ひと)。誰かの面影を残した、あの女性を、間桐の、花嫁と、して。
 取り留めのない思考は、いつも通りの結論へと到達しようとしていた。だから、時臣を殺さねばならないのだと。桜を助けなければならないのだと。そう、いつも雁夜ならば同じ結論に達していたはずだった。今この時でなければ、そうなるはずだった。
「・・・・・・・・・・・・・」
 小さな違和感があった。いつもならば、恐らく気付かなかったほどかすかなものだ。常に彼を苛む蟲の蠢動が止まっていたため、今の彼には痛みがない。だから、気づけた。己の考えには何か欠落しているものがある。何か目をそらしていることがある。
「・・・・・・馬鹿な。」
 眩暈はいよいよ激しくなった。石の空が雁夜に圧し掛かり、目を開けていられない。手の甲に浮かぶ令呪が警告するように痛みを訴える。こみ上げる吐き気を堪えようと、両手で顔を覆ってその場にしゃがみこんだ。そんなはずはない。間違ってない。そうでなければ、何のために自分はここにいる?この一年間、ただ桜の、葵の為だけに生き抜いた。そう、これが正しくないわけがない。そう思わねば、息ができない。大丈夫、間違ってない。そう思えば、呼吸もおさまる。十、二十、三十まで数えて、息を吐き出し、呼吸を整えて起ちあがった。首を一振りすれば、先ほどまで考えていたことなど、もう忘れた。そう、間違ってない。もし間違っていたとしても、今更どうしようもない、無駄なことだ。今考えるべくは聖杯戦争の勝利のみ。サーヴァントを得て、聖杯を手に入れること、それのみだ。

(2012/03/20)

※やっぱり暗い話。


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