モドル

■君の理想郷に届かんことを 2


「・・・あれ?」
 無理やりにそう結論付けた雁夜の視界に、奇妙な円陣が映った。どうして今まで気付かなかったのか。それは蟲蔵の床の、ちょうど中心に描かれている。正円の大きさは、雁夜が両手を伸ばしたくらい。彼の乏しい魔術の知識では、それが水銀で描かれていることがわかる程度だ。しかるべき時、しかるべき触媒を捧げ、呪文にてサーヴァントを召喚する。臓硯は、そう言っていた。とすると、これが。
「ああ、そういえば。爺ぃは呪文を覚えろとか言ってたな。」
 必ず暗記するように、と念押しされて渡されたことを思い出す。雁夜は今もその紙をポケットに入れていた。もっとも。
「暗記ね・・・えーと、素に銀と鉄。・・・礎に、石と・・・?あれ?」
 呪文を詠唱できるレベルには程遠かったが。
 近日中には召喚の儀式が行なわれる。暗記しろ、と命じた臓硯の顔を思い出す。呪文を覚えてない、などととても言えるものではない。ポケットからそれを取り出せば、手のひらサイズの紙にびっしりと書かれた召喚の呪文。几帳面な字体に、かつての上司を思いだして失笑した。普通の世界を捨ててから、まだ一年とたっていない。それなのに、なんと遠くまで来てしまったことだろう。既にこの身は、刻印蟲なくては生きられぬ、最早死人も同じ。だが、それも全て自ら選んだのだ。振り返るまい。詮のないことだ。それに、もう無駄な事に費やす時間はない。雁夜は隻眼で呪文を追った。
「・・・降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。・・・」
 何度か読んで、今この場で覚えてしまおう。聖杯戦争の勝利のために。桜のために。葵のために。それを、己の行為の意味を、そうであると雁夜は信じるのみだ。知らず昂った感情に誘われ、眠りについていたはずの刻印蟲が蠢動する。消えていた痛みが蘇り、体中に広がる。だが、最早それも気にならぬ。この痛みこそ、雁夜の力。聖杯にかける雁夜の宿願を叶えるもの。
「・・・繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する。・・・・・・」
 普段使うような言葉ではないが、何故だかするりと口から流れ出すのが不思議だった。刻印蟲の痛みは更に強くなり、甲に刻まれた令呪は焼けついて警告する。だが、言葉はもう止まらない。
「・・・我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。・・・・・」
 そして、雁夜は気付かなかったのだ。己の詠唱に呼応して、地面に描かれた魔法陣に力が満ちていくのを。魔術師として正規の教育を受けたものであったなら、当然気付いたであろう、異界からの力の流入を。気付かなかった、いや、気付いたとしてももう間に合わない。
「・・・抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ・・・。」
 もしもあのときそうだったならば、という過去の仮定は無意味ではあるが。間桐雁夜という人間が魔術そのものを嫌悪していなければ、多分こんなことにはならなかったのだ。間桐の家に生まれたならば、ましてや一度は後継者として目される程度の魔術回路を持っているならば、当然知っていなければならない魔術師としての知識が、彼には根本的に欠けていた。その上、一年間の臓硯からの手ほどきは、刻印蟲による魔術回路の増加のみに特化して行われ、魔術の知識においては皆無に等しかった。もし多少なりとも理解しておれば、不用意に呪文の練習などしなかったろう。危険を察知して、途中で口を閉じたろう。
 雁夜が気付いた時には、既に手遅れだった。魔法陣に、蟲蔵に魔力が満ち満ちる。先ほどの痛みとは比べ物にならぬ苦痛が雁夜の体を引き裂いた。満ちた魔力が空をこじ開ける。暗闇の蟲蔵に満ちる光は、魔法陣からあふれ出し四方へとはじけ飛ぶ。風が同じ源より沸き起こり、雁夜を突き飛ばした。魔法陣の中、空間が歪んで色を変える。何かが形作られていく。聖杯が英霊を至高の座から引きずり降ろし、この世へと繋ぎとめる儀式。人の形をしたものが、今、雁夜の目の前で現実化した。
「あ・・え・・・?」
 雁夜の目の前に立つのは一人の男。明らかに日本人ではない蒼髪蒼眼の、きつい眼差しが雁夜を捕える。召喚されるサーヴァントは準備した触媒に応じた、それ相応の出自のもののはず。だが、触媒のないイレギュラーな召喚のためか、黒のガウンを身に纏って立つ痩躯の男には、その伝説を窺わせるものがなにもない。わかるのは、雁夜などとは比べものにならぬほどの力を持った相手だ、というだけだ。何れの伝説を背負った英霊なのかはわからないが、圧倒的な存在感だった。これがサーヴァントというモノ、なんという非現実なのか。その反面、何故だか雁夜にはどこか見知った相手のようにも思えた。いや、まさかそんなことはあり得ないのだが。
「懐かしい匂いがするな、ここは。・・・で。お前が私のマスターということか?」
 雁夜の記憶をたどる作業は、男の声で中断される。散々雁夜を観察し終わったらしいその男は、雁夜と視線を合わせると口の端を歪めて冷笑した。
「口がきけないのか?そんなはずはないだろう?」
 侮蔑を隠そうともせず、そう言い放つ。予想外の召喚で、茫然自失だった雁夜の意識がそれで冷めた。サーヴァントの力は通常の使い魔とは比べものにならないほど大きい、制御も容易ではないのは臓硯より聞いている。だが、令呪さえあれば急造魔術師である雁夜でも、イニシアチブを取れるはずなのだ。とはいえ、ここで気圧されてしまったら、いくら令呪を持ってしても負けてしまう。
「そうだ、俺があんたを召喚したマスターだ。」
「ふん。聖杯の導きにより、私はサーヴァントとして召喚に応じた、ようだ。この契約をお前は受け入れるか?」
 雁夜に否やのあろうはずがない。もとよりそのために一年間の拷問に耐え、その手に令呪を得たのだ。躊躇う理由はない。躊躇う理由があるとしたら、それは。
「どうした、怖いのか?」
 無遠慮に雁夜の目を覗き込む男は、まるで全てを見抜いているかのように、正しく雁夜を言い当てる。黒に近い濃藍の瞳が、雁夜のそれを捕えた。
「そんな体になってでも、叶えたい望みがあるのだろう?欲しいものがあるのだろう?その手の令呪はその証。恐れや躊躇いなど捨ててしまえ。その願望の為に、聖杯を手にすることだけを考えればいい。もとより、私もその為に呼ばれた者。雁夜、お前の望みは私が叶えてやろう。」
「・・・桜を助けるのを手伝ってくれる、のか?」
「・・・それがお前の望みであるというのなら、私に異存はない。」
 それならば、もう雁夜に迷う理由はなかった。心のどこかで何かが不安を訴えているのを感じていたが、それを黙殺する。叶えてやろうと、サーヴァントはそう言った。ならば聖杯戦争に対する怯えなど、最早邪魔にしかならない。男の言うとおりだ、そんなものは捨ててしまおう。
「契約を受け入れる。俺に力を貸してくれ。」
「いいだろう、契約は成立した。」
 未だクラスすら判然とせぬ英霊は、雁夜に向けて手を差し伸べた。その手を取って、雁夜はもう迷うまいと密かに心に決する。勝ち抜くための武器を手に入れたからには、この武器で必ずや聖杯を手に入れる、と。桜を救って、時臣にできなかったことを、今度こそ自分が成し遂げるのだ、と。

――男は密やかに嘲笑っていた。愚かな男だとは知っていた。しかし、ここまで簡単にかかってくれるとは思わなかった。これではまるで白痴と同じ。そして、男は同時に己自身を嘲笑う。ここまでが所詮自分の限界か、と。絶望の果てに辿りついた願いは余りに遠く、廃れていく血脈を留める術はなかった。プライドに縋り、認められなかった現実を捻じ曲げるための行為の結果が、今のこの現状だとするならば、やはり自分は間違っていたのだ。だが、幸いやり直しの機会を得た。今度こそは違えない。今度こそ聖杯を手に入れて見せる。そのためならば、どんな事でもやってのけよう。何を犠牲にしてでも、必ずあの理想を手に入れる。例えそれが何であろうとも。
「哀れだな、雁夜。結局、お前は私の手の中だ。」

(2012/03/20)

※やっぱり暗い話。


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