■あなたにキスを
「時臣、キスしてくれ」
いきなり館にやってきた雁夜は、開口一番、とんでもないことを言ってきた。香りを楽しんでいたワイングラスが手から滑り落ちる。”常に余裕を持って優雅たれ”を心がけている私だが、どんな出来事でも余裕で対処できるわけではないのだ。私の余裕にだって限界がある。
大体、私と雁夜は男だ。勿論、恋人同士でもなんでもない。私には葵という愛する妻がいるし、可愛い娘も二人いる。妻とするのならとにかく、何が悲しくて同性の、しかも聖杯をめぐって相争い真っ最中の間桐のマスターとキスしなければならない?雁夜のサーヴァントはバーサーカーらしいが、まさか狂化が彼にも及んだのだろうか。
「雁夜…キスというものは、普通好きな相手とするものだと私は理解していたのだが?」
「へぇ、気が合うなあ。俺だって遊びでキスするなんてごめんだよ。」
と、すると。まさか、これはあれか。戦いの中で生まれる愛情とかなんとか。私は雁夜を憎んでいるわけではないが、それとて葵の幼馴染としての知人、ないし間桐の次男坊という程度の認識だ。たとえ、雁夜が私に道ならぬ思いを抱いたとしても、それに応えてやれるだけの思いがない。つまり、私は雁夜とはキスすることはできない、ということだ。さて、ではそれを如何にして優雅に彼に伝えようか。
「雁夜…君の気持は有り難いが、私は君の気持にはこたえられ…。」
「何わけのわからないことを…時臣、俺はもう魔力切れ寸前なんだけどな。お前がキスしてくれないなら、桜ちゃんにしてもいいのか?いいのか、やっちゃっても?!」
可能な限り遠まわしに拒絶を伝える私の言葉を、雁夜は足を踏みならすことで遮った。
「何故、そこで桜がでてくるのかね?」
それに、"やっちゃう"とは…なんと下品な物言いだ。と、待て。桜にキスだと?魔力切れ?
「あー。…もしかすると、私に魔力供給を求めていると?」
「そうだよ。一体何だと思ったんだ?わざわざ俺がお前に愛の告白しに来たとでも思ったのかよ?」
その通りという代りに、小さく肩をすくめて見せれば雁夜は顔をゆがめ舌打ちをした。
「葵さんにならとにかく、なんでお前なんかに…。」
「聞き捨てならないことをいう。葵は私の妻だが。」
「そんなことはどうでもいい!キスしてくれるのか、くれないのか、はっきりしろ!」
どうでもよくない。と思ったが、雁夜のあまりの迫力の前に口には出せない。バーサーカーを抱えて、ガス欠寸前の雁夜はかなり怖かった。しかし、相手の選択肢がどうして私と桜の二択なのだ。同性か幼女しか選べないとは、雁夜の交友関係は狭すぎる。
「臓硯殿に頼みたまえ。」
間桐の現当主、間桐臓硯は時計塔にも名が知られている魔術師だ。無論、非才の私など足元にも及ばない実力の持ち主である。
「あいつが俺に魔力供給なぞしてくれるわけがない。第一、あいつの体液なんて御免だね。」
それよりも私のほうがマシということらしいが、その結果が"キスしてくれ"ということなのだから、喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからない。あまり考えないことにした。
「君には兄がいるだろう。」
「効率が悪い。」
一言で切り捨てられた。弟が後継者になるくらいだ。つまり、彼では魔力が弱すぎて、吸収できる魔力もタカがしれているということなのか。なんとも気の毒なというか、身も蓋もない話だ。
「間桐の属性は吸収だったのでは?何も体液でなくても…。」
その属性を生かせば、接触だけでも魔力摂取は十分可能なはず。
「臓硯の禿げ頭でも撫でとけってか。」
「いや、握手程度でもそれなりに…。」
「要は嫌なんだな?」
「普通、男同士でキスしたいなんて思うわけがないだろう?」
「まあ同感なんだが。」
お互い意見の一致を見たということでメデタシメデタシ、ということにはならなかった。不意に雁夜が私の胸倉をつかみ上げ、自分の方に引き寄せたのだ。
「何のつもりだね、雁夜。」
「俺だって、お前とキスするなんてごめんだけど。」
雁夜は優雅とはとても言えない、品のない顔で笑いかけてくる。嫌な予感がした。
「よく考えれば、お前に嫌がらせできる機会なんて滅多にない。それに、もう魔力が切れそうだ。背に腹はなんとやら、だな。」
されるのとするのと、どっちがいい?と、ロクでもない二択をさも楽しげに口にする。燃やしてやろうかと考えたが、お互いの距離が近すぎた。腹立たしい話だが、ここで炎を呼び出せば、確実にこちらも巻き込まれる。
「貸し一つということになっていいのかね、雁夜。」
「ああ、構わない。ところで、"する"方を選ぶんなら、下手なのは勘弁してくれよな。」
「君は…年長者に対する口のきき方をもう一度学んできたまえ。」
何がおかしいのか、私の胸ぐらをつかんだまま、くすくすと笑いだした雁夜の冷たい唇に。私は不愉快さを顔に張り付けたまま、黙って口づけを落とした。
私にとっては早く終わってほしいとしか思えない、そんな時間が過ぎてようやくにお互い解放された。魔力を好き放題食われた体が重い。
「貸し一つでは安すぎるな」
「”間桐の貸し”がか?臓硯に借りを作る機会なんて滅多にないだろ?」
臓硯殿が君の作った貸しを返済するとはとても思えない、と言うと、またもや雁夜はにやりと笑う。わかっていてやったのだろうが、それを責める気力はもう私には残っていなかった。
「君がこんなにがっつくと知っていたら、そもそもこんな申し出を受けたりはしなかった。」
「情けないこと言うなよ、遠坂の当主様。これくらいで枯れるような、ヤワな男じゃないだろ?」
散々人の魔力を吸い取った雁夜は、それはもう怒りを覚えるほどに気力を回復している。対する私は、とっととこの疫病神を追い返して、床につきたい程に消耗しているというのに。
「無駄口を叩いている暇があるのならば、さっさと帰ったらどうだ。用件は済んだのだろう?」
他家の魔術師から魔力を、タダ同然で奪っていったのだ。戦果?としては上々の部類だろう。最早優雅たれ云々に拘る余裕が私にはなかった。不機嫌を隠すつもりもなく、出て行けと片手を振る。
貰うものをもらってすっかり満足したらしい雁夜は、敢えて私の言葉に逆らおうとしなかった。黙って帰らなければ、魔力切れかけだろうがなんだろうが、得意の炎で燃やす気満々だった私の決意に気付いたのだろうか。
と、部屋を出る寸前の雁夜がふと足を止め、
「ああ、時臣。」
振り返りすらせずに言う。無論、こちらも見送る気など更々ない。
「気にしてるかもしれないから、一応教えといてやる。」
ソファーに深々と身を沈めた私の耳に、雁夜の捨て台詞が飛び込んでくる。
「"下手"じゃないよ。お前。」
扉は、不躾な騒音と共に閉じた。
|