モドル

■こころの音色

 雁夜君と初めて会ったのが、幾つの時だったかは覚えていない。だけど、その時に私が着ていた服のことは覚えている。お母様に作ってもらった白いワンピースは、その日がおろしたてだった。私が歩くと裾がふわふわ広がるそれは、長い間私のお気に入りだったことも覚えている。でも本当のことを言うと、白いワンピースを忘れないのは、雁夜君が大きくなってからも時々私にその思い出を教えてくれるからだった。

――あの時の葵さん。すごく可愛かったな。白のワンピースだったよ。
――あら、雁夜君。今の私が可愛くないみたいな言い方。
――あ、いや!そんなことないよ、今の葵さんは綺麗っていうんだ!

 学校帰りに、二人でそんな会話をしたこともあった。あれはいつごろの話だったかしら。初めて会った時の事を、雁夜君は本当に嬉しそうに楽しそうに話してくれる。だから、私もあの風景を未だ鮮明に思い出せる。間桐のお屋敷で、雁夜君に初めて会った時の事を。

  そう。白い花が咲いていた。あれは、四月の初め。風に吹かれてひらひらと、名もない白い花弁が舞い落ちる、その木の下で。つくねんとただ一人、雁夜君がそこにいたの。頭に沢山の花弁をくっつけた男の子。私に気がついて、知らない人に吃驚したんでしょうね。ひどく幼いしぐさで、誰?と首をかしげたのよ、雁夜君はきっと忘れてるわね。

――こんにちは。邪魔をしてごめんなさい。
――・・・こんにちは。お姉ちゃんは誰?
――私は、禅城葵っていうの。あなたは?
――間桐雁夜・・・。
――雁夜君、初めまして。
――初めまして、葵・・・お姉ちゃん?

 私には年の離れた姉が一人いるだけだったので、こんな風に呼ばれて嬉しかった。弟や妹がもしいたら、きっとこんな感じなのだろうと思った。雁夜君は鶴野君と二人兄弟で、歳の近い女の子と会うのが初めてだったんだろう。目をぱちぱち瞬かせて、私のことをじっと見て、それでも私が笑うと安心したみたいに笑ったの。今でも時々思い出すわ、雁夜君のあのときの笑顔。幼馴染だとはいえ、もう子供じゃないのだから、可愛かったなんて言ったら、きっと雁夜君は怒るわね。でも、本当に本当に可愛かったんだから。あの時見た雁夜君の笑顔。
 実はもう一つ、その時の事で雁夜君に内緒にしている事がある。初めて雁夜君が私の名前を呼んだとき、私の耳に音が聞こえたの。リーンと聞こえたその音は、鈴のような澄んだ優しい音色。空耳かしらと思ったのだけど、そうじゃなかった。だって、その音はそれから時折、私の耳に澄んだ音を響かせるようになったのだから。
 その音が雁夜君の音だと気づくのに、時間はかからなかった。雁夜君が喜んだり笑ったりすると、その音は優しく。悲しんだり泣き出したりすると、低く重たく。そして、怒りは鈍くざらついた嫌な音になる。いつも聞こえるわけじゃなかった。幼いころは頻繁に聞こえていたそれ。お互いに成長したせいなのかしら、年を重ねるにつれ、それが雁夜君を伝えるのは間遠になった。それでも、やっぱり時々聞こえるの。雁夜君が心の底から嬉しいとき、そんなときにあの音色が私にも聞こえる。どうしてそうなったかなんて、私にはわからない。でも、あの音色が優しく鳴るときは、雁夜君はきっと笑っている。だから、私も弟みたいな彼が喜んでいるのが、ただただ嬉しかった。血の繋がりはなくっても、私たち二人はどこかで繋がっている、あの音が聞こえるのもきっとその証なのだから。姉弟のように、きっとどこかで。大人になってもずっと。そう思ってたのだけど。


 結婚を前提に付き合っている人がいるの、と告げた時、雁夜君はひどく寂しそうな顔をした。雁夜君が何を考えたか、私にも経験があるから分かるわ。お姉様から結婚を告げられたとき、私も置いていかれるような寄る辺の無い気分になったもの。でも、今はそうじゃないのを知っている。だから雁夜君もすぐに気づくはず。新しい絆が出来たからといって、古い絆を切り捨てるわけではないのだと。置いていくわけではないの、一番大事な人ができただけなの。私の大好きな人、時臣さんのこと、出来れば雁夜君も好きになってくれると嬉しいの。そう思って雁夜君に彼の名前を告げた途端、ざらりと引き攣った鈍い音が私の耳を打った。

「遠坂時臣?」

 その名前を口にして、雁夜君の顔が一瞬引きつる。低音が絶え間なく私の耳をざわつかせた。短い間とはいえ、雁夜君が嫌な感情をこうまで顔に出すのは珍しい。表に出てこない雁夜君の感情を慮るのに、私も最初は音にかなり頼っていたから。でも、何故?時臣さんの名前を雁夜君がこんなにも拒否するのは何故だろう。

「そう。遠坂時臣さん。知ってるでしょう?」
「あ・・・うん。」
 雁夜君が時臣さんのことを知らないはずがない。二つの家は魔術師の家系。古き血を残す間桐と遠坂。顔くらいは知っているはずだ。
「時臣さんが卒業したら、結婚をってそう約束したの。」
「・・・・・・・・・・。」
 雁夜君は何も言わない。先ほどまで唸るように響いていた音も止んでいた。
「今度、私と一緒に会ってくれる?幼馴染だって紹介したいの。」
「・・・・・・・・・・・え。」
 そう言った雁夜君の顔ときたら、本当に今にも泣き出しそうな顔をしていた。置いていかないで、葵さん、雁夜君の顔にはそう書いてある。そんなところは、子供のころと少しも変わらないのね。名前を呼びながら、私の後ろからほてほてとついてくる、遠い昔の小さな幼馴染の姿を思いだす。私を本当のお姉さん同様に思ってくれてるから、雁夜君は私の前ではひどく幼い様子を見せるときがある。しっかりしなきゃ駄目よ、と思う反面、頼られているのが分かるからそれはそれで嬉しい。でも、もうそろそろ姉離れしないと駄目なんじゃないかしら。このままだと、私、結婚してからも雁夜君のことを心配しないといけなくなってしまうわ。嫌だというわけでは決してないのだけれど、少しだけ不安になってしまう。でも、私の心配が気にしすぎなのも分かっている。だから、いつか雁夜君が恋人を紹介してくれるときまで、私のお節介すぎる心配のことは、その時の笑い話として取っておこう。
「葵さん?」
「なあに?」
「時臣のこと、好きなの?」
 さっきまで雨降り寸前だった雁夜君は、いつのまにかいつもの彼に戻っていた。遠慮がちに、でも笑ってそんなことまで聞いてくる。からかわれてるのがわかっても、頬が赤くなってしまう。年上をからかおうなんて、生意気なんだから。
「もう!当たり前のこと、聞かないで!雁夜君ったら、大人をからかうもんじゃないわ。」
「大人は、この程度で真っ赤にならないと思うな。」
 ふいにぷいと横を向いてしまった雁夜君の横顔は、それでも口元に笑いがあったから、私は安心してもいいんだと思った。雁夜君は笑っている、なのに鈴の音は全く聞こえない。そのことだけが、本当は不安だったのだけれど。


ざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざりざり。
 
「それでいいのか?」
 結婚式前夜に禅城の家を訪れた雁夜君は、言葉の最後をそうしめくるる。魔術師の妻になるということ、その一族に連なるということ、それがどういう意味なのか分かっているのか?たどたどしく、そう語った雁夜君の気持、魔術を嫌って間桐の家を出た雁夜君が、私のこれからを案じてくれている気持は痛いほどよく分かる。だけど、彼の不安は私の幸福に影を落とすことはない。魔術師の妻になる覚悟はしている、それがどういうことかもわかっている。なにより、私は時臣さんを愛している。これから先、美しい未来だけが待っているはずはない、それでも共に歩んでいけると思ったから結婚を受け入れたのだ。
 雁夜君がこんな感情を表に出すのは珍しいことだ。怒っている、でも何に対して?何故?私は愛する人を、生涯の伴侶を得て幸せになるのよ。なのに、雁夜君は私の目の前で一人、何かに怒りを覚えている。雁夜君の音が聞こえる。だから、わかる。でも、雁夜君の怒りをこれほどまでにかきたてるものが何なのか、私には見当もつかないの。
 雁夜君の問いかけに、微笑んで頷けば、音はより一層大きくなった。
「葵さん?」
「なあに?」
「葵さんは、幸せなのか?」
 その問いにも、私は笑顔で答える。ええ、そうよ、雁夜君、私は幸せだし、魔術師に嫁いだとしてもその想いは揺るがないの。心配してくれているのは嬉しいけれど、貴方の幼馴染は大丈夫よ。安心していいの、そんな顔をしなくていいの、何故怒っているのか分からないけれど、それは雁夜君の勘違いだから。いつものように笑って、私を祝福してほしい。
「幸せよ、雁夜君。」
「・・・・・・・・・・・・・・・そうか。」

 ざりざりざりざりざりざりざりざりざりざくり。

 砂を踏みにじるような嫌な音が、不意に止まった。もう私の耳には何も聞こえない。当たり前のことなのに、その静寂は重たく私たちの間に満ち満ちる。今まで雁夜君に距離感を感じたことはなかったように思う。笑っていてほしい、幸せでいてほしい、お互いにそう思っているのが分かるほど、私たちの距離は近かったはずなのに、それが今は全く感じない。それとも、今まで私がそう思っていたこと自体が勘違いだったの?
「雁夜君?」
「俺、こんなときに余計なこと言って、本当にごめん。おめでとう、葵さん。」
「いいえ。そんなこと・・・。」
 雁夜君の笑顔、いつもと同じだ。柔らかく優しい笑顔。いいえ、いつもと同じ、なのだと私が思いたいのだ。私のこれからを案じていても、最後は結婚を祝福してくれているのだと、そう思いたい。

 鈴の音は聞こえない。

 雁夜君は、私の結婚を心から祝って、喜んでいてくれて、笑っている。それなのに、どうして、どうして音が聞こえないの?雁夜君は、笑っている、笑っているのだ。でも、微笑みの裏側、雁夜君は私に本当の事を言ってくれてなかったのかもしれない。近いと思っていたのは私だけだったのかもしれない。
 雁夜君の笑顔に、私はかつて見たはずのあの表情を、笑っていた雁夜君を探す。いつか見たことのある、確かに私だけが見ていたはずのそれは見当たらない。どうしよう。何かがおかしい。途方に暮れる私に、鈴の音はやはり聞こえてはこなかった。

(2012/06/13)

※葵さんと雁夜さんの話。


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