モドル

■その道の先には


 遠坂の洋館を見上げ、間桐雁夜はまたもや溜息をついた。葵から桜のことを聞き、その足でやってきた遠坂の館。時を重ねた洋館は、それだけで訪れる人間を威圧するものだが、彼の足を鈍くしているのはそのせいではない。これから対峙しなければならない相手は、雁夜の天敵だ。会いたくない。会いたくないのだが、迷っている時間はなかった。桜が蟲蔵に入れられてしまえば、もう彼女は外の世界には戻れない。
 洋館の門は彼を招くがごとくに開いている。おそらく、この館の主は彼の来訪に気付いているのだろう。いつも貴族然としたあの男、できれば二度と会いたくなかった遠坂時臣は。
「畜生。」
 逡巡する彼を、きっとあの男は嘲笑う。魔術を捨てた愚か者と軽蔑されるのは我慢できても、臆病者と思われるのには耐えられない。ここまで来たのだ。いい加減腹をくくるしかない。舌打ちすると、雁夜は館に足を踏み入れた。


 幼い頃、もう顔も忘れてしまった父に連れられて、兄と共に遠坂の家を訪ねたことがあった。不可侵を基本とする間桐と遠坂ではあるが、没交渉というわけではない。冬木市は遠坂のテリトリーであり、間桐はいうなれば宿を借りている状態だったから尚更だ。遠坂の洋館は雁夜の記憶の姿のまま、古めかしく時代がかっていた。間桐の館も古さからいえば負けず劣らずだが、この場所には間桐のような陰気臭さはない。

――もう昔のことなのに、案外覚えているもんだな。

 入口から正面に階段を見て、左へ。二つ目の扉。確かここの部屋が客間だったはず。導かれるようにして進んで、そうして雁夜は気付いた。

――いや、覚えているんじゃない。

 誘導されているのだ。この館の主に。ならば、この扉の向こう側には、彼の男が自分を待ち構えているに違いない。ノックの前の一呼吸。己の服装を確認したのは、"優雅"をモットーとする相手への雁夜なりの礼儀と、戦闘開始の準備だ。

「どうぞ。はいってきてくれたまえ、雁夜」
 当然のように名指しで呼ばれれば、もう後にはひけない。雁夜が扉を開けた先には、遠坂時臣が、一人己を待ち構えて、いた。

「せっかく来てもらったのに、お茶の一つも準備できず申し訳ない。」
 生憎と家のものも、メイドも留守にしていてね、と笑う時臣は、知人との久しぶりの出会いを喜んでいるとしか見えなかった。人当たりの良い笑顔で迎えられ、椅子を勧められて、当たり前のようにもてなされる。時臣に会って、桜の窮状を訴え、彼女を間桐より救い出すよう説得する、と気負いこんでやってきたのに、そんな自分がとても無粋な人間に思えて、気持が萎えてしまいそうになる。だから、雁夜は時臣が苦手なのだ。
「時臣、話がある。」
「なにかな、雁夜。」
 相変わらずの隙のない笑顔。切り出し方を少しだけ迷った、が、交渉術にたけているわけでもない。つまりは、考えるだけ無駄だ。雁夜に出来ることと言ったら、そもそも最初から正攻法しかない。
「間桐の家に、娘を養女に出したと聞いた。」
「耳が早いんだね、君は。実家と連絡を取っているとは知らなかったよ。」
 間桐を出奔したことを揶揄していると感じるのは、きっと雁夜の被害妄想なのだ。
「何故だ?何故、桜ちゃんを間桐なんかに、あそこは。」
「間桐の当主より、古き盟約による懇請を受け、私は当主としてそれに答えた。」
 雁夜の言葉を最後まで時臣は言わせてはくれない。
「君の兄上の息子・・・慎二君、だったかな。彼の魔術回路では間桐を継ぐことは無理だそうだ。間桐の魔術を途絶えさせぬため、是非にと請われたのだよ。」
 時臣の口調からは、間桐の魔道を理解している気配を全く感じない。当然と言えば当然だ。間桐の魔道の真髄は、正統派からかけ離れている。遠坂家は由緒正しき魔法使いの一族、恐らく間桐の影の中身など思いもつかないのだ。娘をあの家にやれるのも、雁夜のことを侮辱できるのも、何も知らないからこそ。中身を知れば同じ顔ではいられまい。
「時臣、桜ちゃんが継ぐ間桐の魔術がどんなものか、わかっててやってるんだろうな?」
「・・・さっきから何が言いたいんだね、雁夜?」
 間桐の真髄は、己の体を蟲に与えることを対価に得る大量の蟲の使役を始め、他者を己の意志によって縛る強制、力を奪い自らのものとする吸収、どれ一つとっても真っ当なものとは雁夜には思えない。ことに蟲使いの業は臓硯の都合も相まって、修行名目の拷問そのものだ。だが、これらはすべて間桐の秘蹟だった。他家の魔術師にその過程を伝えることなど許されない。それは雁夜にとって、間桐の現当主、臓硯を真っ向から敵に回すのと同義だった。父、臓硯の矮躯がよぎる。包み隠さず時臣に全てを話すことなど、出来るわけもなかった。
「俺は…俺は、間桐に桜ちゃんを養女にしたのは、間違いだといいにきた。」
 それでも、伝えなければならない、と思ったのだ。間桐は、少なくとも時臣が思うような魔術師の家ではないと。蟲の苗代にしか扱われない間桐の血脈については語れない。だが、わざわざ家を出た自分が時臣に直談判することで、何か感じてくれるのではないかと、そう期待した。葵の夫を、桜の父親を、雁夜は―自分の視点ではあったが―信じていた。
「あそこはお前が思っているような、普通の魔術師の家じゃない。桜ちゃんが引き返せなくなる前に、頼む!桜ちゃんを間桐の家から戻してくれ!」
 "わかってくれるのではないか"という思いが、如何に自分の甘すぎる期待だったかに気付いたのは、時臣から返された、ぞっとするような沈黙と。笑顔が消えうせ、はっきりと雁夜に対する侮蔑の色を浮かべたその表情をみた時だ。それは、いつか雁夜が間桐を出ると知ったとき、時臣が彼に見せたものと全く同じだ。その表情が雁夜を威圧する、もう何も言えなくなってしまう、あの時のように。
 あの時も、出来れば雁夜は間桐のことを告げたかったのだ。純粋なる遠坂の魔道とは違う道を歩む間桐のことを。外道と化している当主臓硯のことを。まんざら知らない仲でもない、時臣に対する雁夜の最後の餞で、そして多分、逃げ出す自分への言い訳のために。間桐を去ることを告げたとき、彼から裏切り者呼ばわりされるようなことがなければ。

(2012/02/17)

※暗い話…。


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