■その道の先には 2
「なるほど。」
たっぷり一分ほどの時間を経て、時臣はそう言った。
「桜が間桐を継ぐとなって、今更間桐の当主の座が惜しくなったかね、雁夜?」
雁夜は、その時、本当に、時臣が何を言っているのか、わからなかった。いつの間にかうつむいてしまっていた顔を上げ、その言葉を彼に投げた男の顔を見つめる。醜く口元をゆがめ、雁夜を見下ろす男の顔を。
「全く、浅ましい男になったものだ。間桐を逃げ出し、魔術に背を向けた君が、そもそも間桐と遠坂の盟約に口をはさむことなど筋違いも甚だしいというのにね。」
時臣の言っていることが、雁夜には、やはり全く理解できなかった。それなのに、その言葉は雁夜を穿ち、呼吸を止めてしまう。
違う、そうじゃない、彼に伝えなければならないのは。間桐の家に入った者、全てが同じ運命を辿ることを、伝えなければならないのに。声が。
「とき…おみ?」
やっと絞り出した言葉は、ただただ彼の人の名を呼ぶばかり。
「帰りたまえ、雁夜。私は君に用はない。君も、もう二度とここに来る必要はない。」
そんな資格は、君にはないのだからね。深淵たる魔道は、君はもう開かれない。地を這いずって生きていきたまえ、君にはそれが相応しい。
そんな言葉を、投げかけられたような気がする。
時臣の侮蔑を受け、遠坂の屋敷を出、扉が彼の背後で閉まるまで。何も言えなかった。何も。時臣の言葉だけが、ぐるぐると頭の中を回っていた。
何故だろう。不意にそう思った。資格は時臣にあって、雁夜にない、と。彼は何故そんなことを言うのだろうか。魔道の力も、正しいことも全て時臣にあるのだという。何故?雁夜には何もないのだと、まるで当たり前のように。そうであることが当然のように、いつも時臣が雁夜を打ちのめすのは、何故だ?
――資格。でも、それは何の資格なんだろう?
一歩だけ、前に進む。
――桜ちゃんが、蟲の餌になるのを止めるための資格って、どんなものなんだ。
更に一歩。向かう先などなかった。
――俺に開かれない魔道って、なんだ?
もう一歩だけ。気付けば、後ろからやってきた夕暮れの色が雁夜をのみこむ。
――間桐の、蟲に身をゆだねてのみ得られるものが、アンタのいうところの、深遠なる魔術だっていうのか。
そんなはずがなかった。そんなことがあっていいわけがなかった。
葵の娘が、桜が蟲に蹂躙されてしまう。父と母のように。凛と葵の笑顔が消えてしまう。かつての雁夜がそうだったように。
――俺が。間桐を出なければ。
幸せになって欲しかったから、ただそれだけだったから、思いも伝えずに彼女におめでとうと告げたのに。
――俺が。臓硯の望むまま間桐を継いでいれば。
間桐のことなど何も知らない癖に、家を出る自分を蔑んだ時臣のことも、それでも許せるはずだった。
彼の努力を知っている。あの自信も、魔術も、彼の不断の努力の賜物だと。
――俺が。間桐の秘蹟を彼に伝えていれば。
彼ならばきっと、葵の幸せを守ってくれるはずだと、そう信じた。そう信じていたのだ。
――桜ちゃんが間桐へやられたのは、俺のせいだ。
初恋の人の娘が身代わりになるとわかっていたなら、間桐から逃げたりなぞしなかった。蟲の苗床だろうが、果ては蟲の生餌に成り果ててようとも構わない。血の因縁から逃げ出した代償を払わなければならないのは、雁夜のみのはずだ。桜に一体何の咎があるというのか。
時臣の言葉がまたも蘇る。
”地を這いずって生きることが、相応しい。”
彼の言うとおりだ。魔術の高みを目指すことを考えもしなかった雁夜には、魔術師の高邁な理想などわからない。わかるのは、自分の運命を肩代わりさせてしまった、救わなければならない少女がいるというだけ。その理由だけで雁夜が選んだ選択肢を、彼は今更と切り捨てるだろうか。
だが、しかし。桜を間桐にやった男が、雁夜を責める資格があるはずがない。だから、今この瞬間に雁夜が下した決断を、無為な自己満足などとは言わせない。そして、罪を贖わんとする自分ならば、心おきなく時臣を憎んでもよいはずだ。雁夜の思いを裏切り、葵を幸せにしてくれなかった彼を。
遠坂の館に背を向けて、夕闇の奥へ雁夜は走り出した。
向かう先はただ一つ。
もう二度と戻らない、そう決めていたはずの間桐の家、桜の元だ。
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