モドル

■すべて世は こともなし

幕間の蟲蔵

 蟲蔵を、かつての俺は世界で一番最低の場所だと思っていて。臓硯のことを、世界で一番最悪な男だと思っていた。勿論、今でも蟲蔵は最低だし、臓硯は最悪だ。魔術師も魔術もくそくらえだ。
 だが。十年間、外の世界をみてきた俺はわかってしまった。魔術師でなくても、最低な人間はいる。蟲蔵と同じくらい悲惨で、嫌な場所もある。臓硯は最悪な男だ、だが同じくらい残酷な人間が、醜い現実が、ごく普通の世界にだって、当たり前のように転がっているのだ。
 だから、世界のどこかの出来事と、今のこの俺の現状の差は殆どない。綺麗なだけの現実なんて、世界中どこを探しても見つけられなかった。この程度の出来事なんて、探せば他にごまんとあるだろう。それが分かったから、今こそ俺はこの家を受け入れられる。否定するのではなく、受け入れてのみこんで、それから考えようと思える。
 蟲は俺の体を這いまわる。俺の体を食んで、侵食していく。痛かった。苦しかった。おぞましかった。蟲は情け容赦なかったし、臓硯も手加減なしだ。死んだほうが楽なんじゃないかと何度も思った。だけど、俺は耐えることができる。この家をのみこんでやろう。間桐の魔術師でもなんでもなってやる。そしていつか、葵さんに桜ちゃんを返しに行こう。時臣に一発くらわしてやろう。ずぶずぶと蟲にのまれながら、俺はずっとずっとそんなことを考えていた。


雁夜、青ざめる。

 今日も今日とて蟲に嬲られて、俺が半死半生で部屋に戻る途中、ひょっこり鶴野に出くわした。実に十数年ぶりの再会だった。そもそも、俺は鶴野が苦手だ。ハンサムで頭脳明晰、一通りのスポーツをそつなくこなし、しかも俺よりも背が高い。小さい頃なんて、近所のおばさん連中の、『あら、弟さんはあまり鶴野君と似てないわねえ。』だの『お兄ちゃんに負けないよう雁夜君も勉強しないとね。』だの、悪意はないけど気遣いもない一言にどれだけ俺が傷ついたか。しかも、俺は鶴野に唯一勝っていた才能―魔術素養―のせいで、うっかり間桐の後継者として指名される始末。逆恨みなのは承知の上だ、俺が僻んで何が悪い。とまあ、こんな理由で俺と鶴野は頗る仲がよろしくない、一方的に俺が苦手意識を持っているだけだろうという説もあるが、もうそんなことはどうでもいいんだよ。とにかく俺にとって鶴野とは、あまり会いたくない相手なのだ。
 そんな相手に、一番会いたくないタイミングで遭遇してしまった。よりによって蟲蔵帰りに。
「あ・・・。」
「あ・・・。」
 蟲蔵帰りの俺は、蟲の体液まみれでよれよれのぐちゃぐちゃだ。意識しないようにはしているが、臭いもひどい。だが、対する鶴野のほうも俺に負けず劣らずよれよれだった。奥さんを亡くしてから、アルコール中毒も同然、と聞き知ってはいたが、こうして目の前に出てこられるといよいよ現実が迫る。元が整った顔立ちをしているだけに、アルコール逃避の結果は一層無残に現れていた。幼いころから、俺にとって鶴野は臓硯に次ぐ絶対者で、越えられない壁だった。それが、まるでこんな敗残者のような姿で俺の前に出てくるなんて。なんでだよ、昔はあんなに俺を馬鹿にしてた癖に、俺よりもずっと先にいた癖に、今更俺と同じ場所に立つなんて何の冗談なんだよ、そう心中毒づきながらも、本当は鶴野のこんな姿だけは見たくなかった、それが本音だと、気づいてしまっている。十年という年月は、俺だけではなく全てのものに等しく重かったのだと思い知らされる。そんな当たり前の事実を、こんな形で。
「今更戻ってきて・・・お前、一体何のつもりだ?」
「・・・。」
 廊下で対峙する、鶴野と俺と。鶴野は逃げた俺を恨んでいるだろう。そして、俺は何もかも捨てて逃げ出した落伍者なのだから、もう何を言われても仕方がない。罵られ侮蔑されても、甘んじて受けるしかない、のだ。
「しかも、桜と結婚させてくれるなら、間桐を継いでもいいと、そう言ったらしいじゃないか。」
「・・・・・・。」
 鶴野の視線が尖がっているように感じるのは、俺の考えすぎだと思いたい。
 ジジイ、何で言わなくてもいいことまで喋るんだ。というより、俺の言葉はあさっての方向へねじ曲がって伝わっているような気がする。いや、確かに間桐を継いで、桜ちゃんと結婚すればいいんだろう、とは言った、ええ、言いました。だが、俺は桜ちゃんと結婚したいから間桐に戻ってきたわけではない。俺の身代わりになった桜ちゃんを遠坂に返すため、葵さんのために戻ってきたのだ。その予定が臓硯との交渉をちょっと失敗したせいで狂って、でも、せめて蟲蔵から桜ちゃんを助け出すことだけはしようと思ったら、何故か俺は桜ちゃんの未来の花婿になってしまっていたわけで。で、でもまあ、桜ちゃんが結婚できる年齢になるまでは少なくとも十年はかかるわけだから、その間に色々と手を打ってだ。なんとか桜ちゃんが本当に"間桐桜"になることだけは阻止しようと思っているんだ、俺としては。いやいや、別に桜ちゃんが嫌いだからとか、結婚したくないわけでは決してなく。俺と桜ちゃんの年齢差なんかを色々考えると、とてもじゃないけど結婚とかそういうことが考えられないだけで。だって、葵さんの娘だよ?葵さんの弟ポジションから義理の息子ポジションに移行って、それはランクアップなのか?一層葵さんとの距離が開くだけだよな。更にだ、葵さんの義理の息子っていうことは、時臣からも同じってことでだなあ。俺はあいつを”お義父さん”と呼ばないといけないんだぞ、何の罰ゲームだよ、それって。ムカつくことに骨の髄まで魔術師なあいつなら、例えそんな事態に陥ったとしても、顔色一つ変えないだろうし、それどころか『このような形で遠坂と間桐の血が結びつくとは思いもよらなかった。だが、これは素晴らしいことだ。』とかなんとか涼しい顔でのたまいそうだ。頼む、時臣。勘弁してくれ。
 よせばいいのに、俺ときたらその時の時臣の姿をフルビジュアル音声付で思い描き、更にダメージをくらってしまった。
 いや、いやいやいやいや。十年ある、時間はたっぷりあるんだ。その間に、この避けられない俺の運命を何としてでも変えてやる。少なくとも、俺は桜ちゃんを蟲蔵からは助け出せたんだ。そして、何より貴重な、時間というものを俺は稼いだのだ。よし、やれる。
 無理やりに自分を納得させた俺の一喜一憂を、先ほどから鶴野はじっと眺めていた。何故かその眼差しは可哀想な人をみるそれに変わっている。
「雁夜、俺はお前の趣味に口出ししようとは思わんが。」
 嘘つけ。中学校の頃、なけなしのお金を貯めてようやく俺が手にしたマイカメラ。それを片手に屋敷をうろついていた俺に、”オタク趣味”だの”暗い”だの好き放題言いやがったのはどこのどいつだ。言った本人は忘れても、俺は一生忘れない。
「幼女趣味(ロリコン)というのは、どうかと思うがな。」
 よしわかった、その喧嘩、受けて立つ。後悔させてやるぞ、鶴野め。俺が、臓硯の拷問に耐えきって、見事間桐の魔術師として立つことができたなら、我が親愛なる兄上に、間桐蟲蔵フルコース、デザートとして俺の積年の恨みごと、ってやつを、味わっていただこう。いや、必ず味あわせてやる。

(2012/03/30)

※雁夜さんのついうっかり言っちゃった話。


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