■すべて世は こともなし
雁夜、後悔する。
日がな一日蟲蔵で、今日もなんとか生きてて良かったな、俺。いつもならベッドに倒れこんで朝まで死んだように眠るのだが、今夜ばかりはそうはならなかった。虫の知らせとでもいうのか―俺の場合は比喩でもなんでもないのだが―どうも蟲たちが騒がしい。何の気なしに外を眺めて、ようやく合点がいく。蟲が興奮するのも当然だ。今夜の冬木には、俺でも感じとれるほど魔力に満ちているのだ。霊地の面目躍如かなんだか知らないが、大がかりな魔術を組もうとする輩がもしいるとするなら、今夜ほど相応しい時はないだろう。しかしまあ、これでは蟲が騒いでとても寝られたもんじゃないぞ。しょうがない、今夜の眺めも、魔術師の卵の俺にとってはエンターテイメントと言えないこともない。俺は臓硯に内緒で手に入れた―これが結構大変なのだ―煙草に火を付け、景色を肴に久々の一服を楽しもうとしたその時。
「おじさん。」
絶妙のタイミングでかかった声に、咥えた煙草を盛大に吹き出してしまった。哀れ、夜の庭に消えた俺のマルボロ、貴重な一本が・・・などと、天寿を全うできなかった煙草を気にしている場合ではない。なんでこんな夜中に桜ちゃんが俺の部屋に来るんだよ。子供の寝る時間は、とっくに過ぎているはずだ。
「桜ちゃん、こんな時間まで起きてちゃ駄目だよ。明日も学校だろ。」
パジャマ姿に御供のぬいぐるみを抱えた桜ちゃんを前に、俺は時計に目を走らせた。もうすぐ日付が変わる時間ときたもんだ。当然、小学生が起きててよい時間ではない。
「ごめんなさい、おじさん。でも、ざわざわして眠れないの。」
胸を抑えて俯く桜ちゃんの、そのしぐさに俺は一瞬言葉に詰まる。それはつまり、蟲が騒ぐ、ということだ。仕方ないだろう、短期間とはいえ桜ちゃんも蟲蔵に入っている。本当は、俺も間に合ってなかったのだ。蟲はゆっくりと少女を食い荒らし、彼女は徐々に間桐の人間となっていく。俺のしたことは、やはり時間稼ぎにしかならなかった。本当の意味で桜ちゃんを救うことは、臓硯の蟲を取り除くことは、俺では無理なのだ。じゃあ、俺じゃなければ?もしかしたら、時臣だったら救えるのかもしれない、そう思うと苦いものがこみ上げる。
「おじさん?どうしたの?」
この程度の事で表情を変えてしまって、桜ちゃんに見とがめられる。蟲蔵帰りの俺は、疲労で感情を隠すこともできやしない。無様だ。
「ん、いや。・・・なあ、桜ちゃん。」
畜生。俺は開き直るって決めたんだ。そうさ、贖罪で悪いかよ?罪悪感で優しくするのが、何で悪い?俺は葵さんが、凛ちゃんが、桜ちゃんが、笑っててくれれば、それだけでよかったんだ。
「・・・おじさんの仕事が落ち着いたら、みんなで遊びにいかないか?桜ちゃんと、凛ちゃんと、遠坂の葵さん、それと俺、四人で。」
俺は敢えて時臣の名を外した。いいだろ、それくらいの役得があったって。時臣は留守番だ。アイツが来たら、葵さんに俺が構ってもらえなくなる。でもまあ、どうしても来たいっていうのなら一緒に連れて行ってやってもいいけどな。
臓硯だって、もう俺で遊ぶのに飽きてきてるだろうし。一年の蟲蔵調教で、俺の魔術回路も既に開いている。毎日蟲蔵に放り込まれることも今後はなくなるはずなのだ。ここに来るまでの一年、思い出したくもない一年間。なあ、だから、これくらい、少しくらい、お願いだから俺にも許してくれ。
「みんなと、一緒に?」
桜ちゃんが首をかしげると、赤いリボンがふわと揺れた。断らないでほしい、諦めないでほしいんだ。少なくとも俺が生きている間くらいは。それだけで俺は救われるから。
「ああ。みんなで。」
おずおずと桜ちゃんは頷いてくれ、そして小さな欠伸を漏らす。俺は既に日付が変わってたことにようやく気付いた。蟲のざわめきも止んでいる。ショータイムはいつの間にやら終わってしまったらしい。
「・・・おじさん、今夜は一緒に・・寝てもいい・・?」
「え?ああ、構わないよ。」
蟲が静まったら、途端に眠気が襲ってきたらしい桜ちゃんは、生あくびを繰り返している。桜ちゃんの年齢なら、まだ一緒に寝ても色んな意味で問題ないだろう。しょぼしょぼ瞬きしている桜ちゃんをベッドに抱き上げてやる。一応、俺だって男だから、いくら非力でも小学生を持ち上げるくらいは出来るのだ。
布団にくるまってすぐに寝てしまうかなと思ったけれど、桜ちゃんはかぶった布団から目だけのぞかせて俺を見ている。流石に葵さんの血を引くだけあって、可愛らしいことこの上ない。まあ、なんだ。俺がそういう趣味を持ってなくて、本当によかった。
「・・・おじい様が、言ってた・・・おじさんと私は、いずれいもせとなるから、一緒に寝るのがいいって・・・。」
いもせ?・・・ああ、妹背、ね。ジジイめ、桜ちゃんに意味が通じると思ってはいないだろうが、打つ手が細かい。鶴野といい、桜ちゃんといい、外堀から埋めていく作戦か。そうやって、何でもかんでも自分の思い通りになると思うなよ。
窓を閉めてベッドにもぐりこんだ俺は、気付かなかった。いつもと同じ顔になった夜の世界で、その時、その場所で、聖杯戦争が静かに幕をあけたこと。そして、約束を果たす機会は、未来永劫俺には訪れないこと。
桜ちゃんの寝息を聞きながら、俺はいつものように眠りに落ちる。まさか、もう二度と葵さんに、そして時臣にも会えないなんて欠片も思わずに。
幕間の蟲蔵 2
聖杯戦争に参加した時臣が死んだと、そう俺に伝えてくれたのは臓硯だ。
「そうか。」
それだけ返してやったら、あからさまにつまらなさそうな顔をしやがった。お前、どんだけ人の不幸が好きなんだよ。俺の苦しむ顔なんざ、この一年間で嫌というほど見せてやったろうが。
でも、そうか、時臣は死んだのか。馬鹿だな、時臣は。どうせ、魔術師の理想は"根源への到達"にあるのだから、そのためならどんなものでも犠牲にしてもいいんだ、って突っ走って死んだんだろう?残される人の気持ちなんて、何も考えていなかったんだろう?葵さんを、凛ちゃんを桜ちゃんを悲しませて、魔術師とはそういうものだ、で片づけられると思ってんのか。何だよ、俺はお前なら絶対大丈夫って思ったから、葵さんを譲ってやったのに。それなのに、俺よりも先に死んじまうなんて、詐欺にもほどがある。何が聖杯だ。何が魔術だよ。そんなもん、犬にでも食わせちまえ。だから、俺は、出会ったときから、ずっとずっと、お前のことが、大嫌いだったんだよ。そうさ、だから、俺は、別になにも。お前が死んだって、もうなにも。
心臓がずくずくと跳ねる。それを痛みだと、俺は認めるわけにはいかない。悲しいなんて、認めたくない。認めない、絶対に。
時臣の馬鹿野郎。
全部お前が悪いんだよ。全部お前のせいだ。
お前のことが、嫌いで、嫌いで、ちっとも悲しくなんてないのに。それなのに。それでも。
お前の声が思い出せない、思い出したいのに、もう思い出せないんだ。
思い出せるのはお前の背中だけ。もう追いつけない、振り返ってくれることもない。
俺のことなど、けほども思い出さずに死んだであろう相手のことを想って。
蟲の痛みに耐えられなかった俺は、声も出さずに一人で泣いた。
■
葵さんが亡くなったと、鶴野が俺に知らせてくれたのは、それから2年後だった。
「そうか。」
俺はあの時と同じ答えを返し、思い出したようにこう付け加えた。
「・・・葵さんは、綺麗だったろ?」
「ああ、そうだな。」
鶴野はそう言って俺から目をそらす。そうだな。時臣が死んだあの時から、俺はこうなることを予測してたんだ。
だから、もう涙は出なかった。
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