■すべて世は こともなし
雁夜、慌てる。
十年が短いと感じるということは、俺も歳をとったということなんだろうか。いや、桜ちゃんがもう高校生だし、俺ももう四十路目前。”なんだろうか〜”なんて暢気している場合じゃない、人生半分過ぎちまったぞ、おいおい。しかも、この十年、俺何してきたっけ?と振り返ってみると、蟲蔵で苛められる。→臓硯にエグい仕事をやらされる。→ストレスで暴走しかかる。→時臣と葵さんの代わりに、桜ちゃんの成長を見守るんだーと自己暗示で復活。とまあ、ここまで単純じゃないけれど、ぶっちゃけ俺の十年間、これのエンドレスだったような。我ながら言葉にすると情けないなあ。
蟲蔵に入ったせいだか、魔術回路が開いたせいだか知らないが、俺の髪と瞳の色は変わってしまった。間桐の魔術は必ず成果が自らの肉体に返るという。とすれば、俺のこれもそうなのだろう。スミレ色の髪と瞳は桜ちゃんとお揃いだ。俺としては、本当の親子みたいでちょっぴり嬉しい。魔術が使えるようになったことなんて、俺にはどうでもいい。今でも、俺は魔術も魔術師も好きじゃない。そもそも魔術で出来ることは、全て科学技術でも実行可能なことばかり。勝手に記事を書いてくれるボールペンとか、取材のためにどこにでも一瞬で移動できるドアとかそういうものは魔術の範疇外だそうだ。しかも魔力回路数も平均的、魔力生成量も普通レベルな俺にとっては、魔術の行使による魔力コストよりも金銭的コストのほうが負担が少ないのだ。ならば、時臣と違い、魔術至上主義でない俺の人生に、魔術は必要不可欠ではない。というわけで、俺の魔術は臓硯による指示をこなすときに以外にはあまり活躍しない。使い慣れた文明の利器のほうが、俺にとっては頼れる代物なのである。
ちなみに、生活が落ち着いてからは、ライターの仕事も再開した。2年以上も音信普通で、また仕事ください、お願いします、などというプロをなめたお願いをする羽目になった俺が、どんな目にあったかという話は、もうきりがないので省略させていただく。ま、結論としては、人間死ぬ気になれば何でもできる、ということだな。終りよければすべてよし、うん、至言だ。
しかしまあ、今日もいい天気だ。間桐邸の無駄に広い庭に、惜しみなく太陽は降り注ぐ。今日は臓硯も留守だ。つまるところ、平和である。聖杯戦争も50年後で、そのころまで俺は生きてないだろう。俺としては何も気にせず、・・・におれたらどんなに幸せだったか。実は深刻かつ難しい問題が未解決のまま、目の前に未だ巌のごとく横たわっている。10年あればなんとかなる、そう考えた俺は若かった。馬鹿だった。甘すぎた。このままでは俺は、凛ちゃんを義姉さんと呼ばなければならない羽目になってしまう。今更「ロリコン」の称号はしょうがないが、それにしたって、俺は「幼な妻」を貰う気はないんだよ。ああ、でも最近、桜ちゃんは綺麗になった。それに葵さんに雰囲気似てきたよな。声とかしぐさとかさ。いや、何を考えてるんだ、俺は。桜ちゃんが綺麗になった理由も知ってるくせに。俺、このままだと、ただの駄目人間だぞ、やばすぎるだろ。
「さっきから一人で何をしてるんだ、雁夜?」
「なんでもないよ。」
俺が人生についての悩みを深めているのを、邪魔するやつがやってきた。兄の鶴野だ。アルコール依存症でズダボロだった鶴野は、俺がちょっとした嫌がらせのつもりで蟲蔵に放り込んだら、すっかり依存症から回復しやがった。けがの功名というか、間桐限定、不思議な蟲蔵機能というやつだ。
魔術回路を少し余分に持って生まれたため、間桐の頭脳や容姿、その他諸々の才能を全く引き継げなかった俺としては、魔術回路以外はスタンダード間桐な鶴野の存在は、小さいころから劣等感を刺激するだけの存在だったが、年を食ってお互い丸くなったんだろうなあ。最近は、当たり前のように兄弟ができるようになった。表の間桐の当主は鶴野、裏側―つまり魔術師の世界―の当主は俺、という具合に役割分担されているのもよかったんだろう。表面上、鶴野は未だ売れないライターやってる俺を養ってくれている優しい当主様というわけだ。ま、どっちにしろ間桐の支配者は臓硯ただ一人、誰が当主をやろうが所詮は飾り物だがね。
呼びもしないのに俺の傍にやってきた、心優しいお兄様は、
「どうせ、またあいつに桜との結婚をせっつかれたんだろう。」
頼んでもいないのに、俺の悩みをストレートに言い当ててくださった。
「五月蠅い、ほっとけ。」
図星をさされたせいで、つい反抗的な態度をとってしまった。本当のことを言うと、"結婚をせっつかれてる"で、すんでいればまだマシな方だったりする。50年後の聖杯戦争に対する臓硯の執着は、俺の想像を遥かに超えていた。早く子供を作れというプレッシャーは、桜ちゃんの体が大人になった時から始まっていたし、―流石にそれは無茶だと臓硯自身も分かっていたようだが―最近は、俺の貞操?の危機すら感じるレベルである。このままでは、俺に薬を盛って桜ちゃんを襲わせる、なんていうエロゲーさながらの事態も十分あり得る。そして、既成事実が成立すれば、俺の十年間は一瞬で水泡に帰すのだ。子供ができなきゃ問題ない・・・なわきゃないだろ、この年で女の子に手を出して責任取らないとかって人間としてどうよ。しかも、桜ちゃんは俺の初恋の・・・葵さんの娘だ。
そう。実のところ、事態は鶴野が考えている以上に切迫している。一番の問題は、それがわかっていても、俺には全く対抗手段がないというところだ。
「お前がどう考えているのかは知らんが、下手なごまかしが通じる相手じゃあないぞ。」
「分かってるよ。」
鶴野の言うことは一々御尤もであるで余計に腹立たしい。50年後を見越しての桜ちゃんという手段であるならば、なるべく代は重ねず、且つ年齢的有利になるよう考慮すべきだと臓硯に”提案”したのは、俺自身だ。それを忠実になぞるなら、桜ちゃんの結婚は少なくとも二十歳前後に設定されるはず。リミットタイムが延びれば延びるほど、とにかく時間を稼ぎたい俺にとっては有利になる目算だった。下手な誤魔化し、と言われればその通りだし、舌先三寸が何時までも通じる相手ではないのはもとより承知の上だったのだが。それにしても、早い。俺の知らない臓硯の都合があるのか、それとも、まさか俺の思惑がばれたとか?だが、臓硯にとっては俺はただの道具、俺の意思がどうあっても、奴がそれを気にかける必要がどこにある?やはり情報が決定的に足りない、こんな状態で判断すると足元をすくわれる可能性が高い。10年前の失敗を繰り返すわけにはいかない、冷静に考えなければならない、桜ちゃんを守るために。
「で。期限はいつまでだと?」
「桜ちゃんが高校を卒業したらすぐ、だとさ。」
「なるほど。ま、結婚しても進学は可能だしな。名字も変わらんから、下手すれば誰も気付かない。」
第三者だからお気楽でもしょうがないとはいえ、ここまで他人事だと流石の俺もカチンとくるのだ。
「人事だと思って簡単に・・・んなこというなら、兄さんも再婚したらどうよ?」
今は昔の学生時代、鶴野の女性関係の華やかなことといったらそれはもう。今の女っ気のなさが、中身別人かと思えるくらいだ。が、鶴野が口元を歪めるのを見て、俺は余計なことを言ってしまった自分に気付く。
「慎二と桜、それにお前の面倒見るだけで手一杯だ。これ以上、家族は必要ないな。」
「ふん、手間のかかる弟ですいませんね。」
「わかっているなら、もう少し大人になってくれ、雁夜。」
血の繋がりというのは、どうしたもこうしたも厄介で、こんな時に、分かりたくないのに通じ合ってしまう。ほんの少しだけ切実さを込めた口調、それだけで鶴野が何を言いたいのか、俺には分かってしまうのだ。
「・・・・。あと少しだけ、まだ時間があるんだ。その間に、何とか・・・。」
「10年かかってなんともできなかったことが、奇跡的に解決するわけか?随分と楽天家になったものだ。」
「・・・・・。」
奇跡は訪れない。俺たちにとっての奇跡は、臓硯の死以外に存在しないのだから。始まりの御三家の一人である老魔術師を殺せるほどの力をもったモノがあるとすれば、それは――俺が思い浮かべるのは、10年前の聖杯戦争。聖杯に招かれるサーヴァントたち、歴史に名を残した英霊たちの顕現、その人外の力ならばあるいは?だが、聖杯戦争の終わった今、臓硯を殺せる力を持ったモノは冬木を去った。だからといって、唯々諾々と臓硯の思惑に乗っかるなんて、桜ちゃんの幸せを踏みにじるなんて、出来るわけがない。
「桜が、もしお前と結婚してもいいと言い出したら、お前どうするつもりなんだ?」
「まさか。だって、桜ちゃんには憧れの先輩が・・・好きな人がいるんだ。そんなことあるわけないだろ。」
衛宮士郎、というのだ。桜ちゃんの好きな男の名前は。その名前が持つ意味、俺にとってそれはまるで聖杯の呪いそのものだ。だが、その名前を口にする桜ちゃんは幸せそうだった。"恋"に頬染める彼女は美しく、それだけでもう俺は何も言えなくなってしまう―葵さんの前で、かつての俺がそうであったように。
ならば、もう彼女の思いを叶えてあげるしかない、時臣の代わりに、葵さんの代わりに桜ちゃんを幸せにしてあげないといけないのだ、俺は。
「何故、お前にそんなことが分かる?何のために自分がここにいるのか、桜が気付いてないと思ってるわけではないだろう?」
「俺は。俺は、桜ちゃんには好きな人と結婚をして、幸せになって欲しいんだ。間桐の家じゃ、桜ちゃんは幸せになれない。」
鶴野のつきつける現実に揺れる俺は、奴の放つ言葉でさらに揺さぶられる。だけど、葵さんの笑顔を守れなかった俺は、今度こそ間違えない、間違えたくない。桜ちゃんが笑顔でいられるように、幸せにするために。だから、俺は間桐に戻ってきて、この身を魔術に染めたのだ。それがなくなったら、俺の存在意義は、一体何のために、ここにいるのか。
「それはお前が決めることじゃ・・・まあ、お前の好きにしたらいい。」
相も変わらず、厭味ったらしい。聞えよがしに溜息なんかついてみせやがって。俺の気持ちも知らないくせに、自分に余裕があるからって好き勝手な事を言ってくれる。大体、鶴野が今みたいに表の間桐に集中できるようになったのは、俺が戻ってきたおかげだろうが。少しは俺に感謝の気持ちを見せてもいいと思うぞ。・・・とはいえ、鶴野が心配してくれているのは、ちゃんとわかっている。つくづく出来の悪い弟で申し訳ない、という気持ちだけは、そう、気持ちだけなら俺にもあるのだ。
「大丈夫だよ、兄さん。まだ何も起こらない。大丈夫だって。」
せめて弟として兄を慰めてやろう、そんな気持ちでかけてやった言葉だったのに、鶴野は疲れた顔で肩をすくめた。
「お前に言われると、何か起こりそうで逆に不安になる。」
「なんだよ、それ?俺は疫病神かよ。」
「全部お前のせいだ、なんて言うつもりはないが・・・一度自分のやったことを思い出してみたらどうだ?」
「・・・?」
高校卒業と同時に、臓硯に絶縁状を突き付けて家を飛び出した。俺がやらかした出来事といえば、それくらいしか思い当たらないんだが。他に何かあったっけ?
そのことを鶴野に告げると、またもや溜息が返ってきた。言っとくけど、俺は本当に何もやってないぞ。冤罪だ、こん畜生。言い返したところで、鶴野が聞く耳を持たないのは経験上わかっている。むかつくし、納得いかないが、まあ勘弁してやるよ。寛大な弟を有難く思え。
それにしたって、ああ、今日は本当にいい天気だ。多少の現実逃避を含みつつ、俺は天を仰ぐ。突き抜ける蒼天はどこまでも高い。そうさ、何も起こるわけがない。だってこんなにいい天気なんだから。
鶴野の予感がまさかの的中を果たすのを俺が知るのは、それから一週間後の話だ。もう二度と、俺が経験することなぞないと確信していた聖杯戦争、その第五回目のイレギュラー開催、そして、桜ちゃんに宿った令呪。
なんなんだ、これは。俺が何か悪いことしたのか?それとも何かの呪いか、天罰か?久しく使ってなかったかつての口癖、それを口に出しそうになった俺は、既の所で我慢した。
そう、奴のせいじゃない。ああ、そうだよ、全部俺のせいだよ。でも、もうそんなのどうでもいいよ。俺のせいでも、時臣のせいでもどうでもいい。悪かったって認めるから、この際、悪魔だろうが正義の味方だろうが構わない。頼むから、誰か、何とかしてくれ。
切実に。生まれて初めて何かに願った俺の祈りを、聞き届けてくれたのが誰だったのか。それはまた、どこか別の物語、なのである。
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