■伝えられない 2

「イシュトー様。」
 闇が広がるメルゲンの執務室。イシュトーは、その言葉に目を開けた。窓の外では、夜明けの兆しが雲を照らす。思索の途中に、椅子にかけたまま眠ってしまっていたらしかった。
 何か夢をみたような気もするし、そうでないような気もする。まとわりつくけだるさを振り払うかのように、イシュトーは頭を振った。リアルな現実が緩やかに自分の中に戻ってくるような…。
 それでも、声の主がライザだということはすぐに判ったのだ。
 美しい女魔導師。そして、イシュトーの優秀な副官。自分には勿体ないような人だとイシュトーは常々思う。
「お休みのところを申し訳ありません。」
 そして、イシュトーの恋人でもあるライザは、いつでも一線を画した態度を崩さない。彼女が女性になるのは、ベッドの上だけだとイシュトーは知っている。
「いや。構わない。」
 そっとそばに近づいたライザが、案じるようにイシュトーを覗き込む。眉根を顰めた彼女の顔に手を伸ばして、自分の元へと引き寄せた。拒まれないのをいいことに、唇を奪う。
 深紅の髪が、生き物のようにイシュトーの胸でうねった。ライザの唇は甘い。
 何もかも忘れて、それを貪る自分は、酷く浅ましい人間であるようだ。

 ふいに妹の顔が浮かぶ。不安な顔を隠せずに、イシュトーの旅立ちを見送っていたイシュタルと、ティニー。イシュタルは彼が出立した後、すぐにバーハラへと伺候しているはずだった。イシュトーがユリウス殿下から渡された手紙の内容は、イシュタルのそれを求めるものだったから。
 そして、ティニーも既にフリージの城をでていることだろう。彼女を戦場へというのも、またユリウス殿下の意思だった。父、ブルームへの援軍を率いてコノート城へ。戦いを知らぬ少女には、いきなりの嵐だとは思うが、イシュタルもイシュトーもいないフリージの城へティニーをおいておくよりは、父のそばにいたほうがよい。ユリウス殿下の目的が何処か知らないが、その点でイシュトーの希望と合致したので、父から先んじてそれを知らされたとき、特に何も手を打たなかったのだ。父は不憫な姪に対して、それなりの愛情を抱いている。母からティニーを庇いはしなかったし、母の前ではティニーを構うこともなかった。だが、ティルテュ叔母の死の原因が自分の妻だと知っている父は、ティニーを同じ運命に陥らすことだけはさせるまいと考えていたのだと思う。その父の傍ならば、とそう思ったのだ。これ以上、イシュトーは何も彼女にしてやれない。

 だが、しかし。
 ここまで考えて、己の滑稽さに苦笑する。女の体を抱き、睦言を囁きながら、イシュトーの思うのは腕に抱く女性のことではなく。
 ライザのぬくもりに安らぎを感じた端から、彼は妹のことを考えているのである。

−不実な恋人と言われても仕方があるまいな…。

 ライザは何も言わない。虚言に気づかないほど、愚鈍な女性ではないはずなのに。目を背けてくれる理由が愛だとしても、イシュトーは同じ言葉でライザに答えてはあげられないのだ。

 唇がほどけて、すぐさま二人は軍人の顔を取り戻す。
「…すまないな、ライザ。」
「そのようなことを…。」
 戦場へと向かう恋人を、送る言葉がこれだとは。さすがの彼も心が痛んだ。”愛している。”そんな簡単な言葉を囁くのさえ、どうして自分はいつも躊躇ってしまうのだろう。ライザはいつも彼を支え、戦場での働きも申し分ない。それが自分への思い故だと判ってはいても、勝ち目の薄い戦いに恋人を送り出す彼の口からは相手の望む言葉が出てこない。
 迷いなき副官の後ろ姿を見送りながら、もう一度彼は同じ言葉を反芻した。

”すまない。…私は…。”

■□■

 意外とあっけないものだ。
”死ぬ”ということをこんなにあっさりと自分が受け入れられようとはイシュトーは思っていなかった。
 メルゲンの守備兵は、ほぼ全滅。ライザも戦場に散った。反乱軍は一時もしないうちにこの城に踏み込んでくるだろう。多勢に無勢、そんな言葉が浮かんで、イシュトーは苦笑する。
 よくもまあ、ここまでやってくれたものだ。反乱軍がティルナノーグで旗あげた、という情報をバーハラが聞いたときなど、みなしめしあわせたかのように同じ言葉ばかりを口にしていたというのに。
”所詮は烏合の衆。多勢に無勢。すぐに鎮圧されるだろう。”
 だが、この現実はどうだろう。窓から見える、あの征旗は一体なんだというのだ。バーハラは手遅れになる前に、これに気がつくべきだ。今ならば、まだ間に合うはずだ。
「イシュトー様。」
 敗北を目の前にして、なお主に忠実な部下がイシュトーの傍に控えている。イシュトーはゆっくりと振り返った。
「コノートへ行くものは、もうみなここを出たな?」
「はい。」
 ならば、これ以上は無意味だ。
「籠城はやめることにする。」
 深々と頭を下げたその部下の表情は、最早彼には見えなかった。

■□■

 大気を切り裂く炎が見える。それが目指しているのが自分だと判ったときには、もうそれに飲み込まれていた。どこか自分に似ているような、銀の髪をなびかせた青年が、炎の向こう側にいる。大きな瞳で自分を見ている。ティニーの面影を映した、優しい面立ちの誰かを見たとき、イシュトーは何もかもが判ったような気がしたのだ。

 笑顔を見たくて悪戦苦闘したこと。イシュタルにかこつけて、何度となく顔を見に行ったこと。兄の代わりだからと、何度となく自分に言い聞かせていた自分のこと。優しい兄として振る舞いながら、本当はいいたかったことがあったこと。守らなければ、そんな使命感の本当の理由。気がつくのが遅すぎて、気がつきたくなかった自分の…。

「……。」

 嘘の代償が後悔だというならば、それはもう仕方のないことなのかもしれなかった。それに、もう間に合わない。

 大地をはう炎の渦に巻き込まれて、次の瞬間に青年の体はあっけなく世界から消え去る。かつてのシグルド軍が、ファラの炎にかき消されたように。僅かに残った灰すら、風に巻かれて大地に散る。確かにそこにいたはずの、彼の欠片も残さずに。

「ごめんな、あんたが俺の従兄だって知ってるけど。」
 残された、そんな誰かの言葉も、戦勝のどよめきの中であっという間にかき消されていった。

■□■

 メルゲンの落城の知らせが、コノート城に届くのに一刻もかからなかった。
 ブルームと共にその知らせをティニーは聞いた。覚悟はしていたが、その知らせに愕然とする。メルゲンの落城、イシュトーの戦死。イシュトーがフリージに戻ってから、まだ2週間も経っていないのに。

「イシュトー兄様…そんな…。」
 ティニーの胸の上で握りしめた右手に、もらった指輪が小さく瞬いた。守護の魔力を秘めた銀の指輪。語らぬ本当を含んで、静かに輝いてはいたけれど。だが、もうその思いを解き明かせるものは誰もいはしないのだ。

(2003/03/17)