はーーーーーーーーーーーーーぁ……
今朝から、何度目のため息だろう。自分で数えることすら嫌気がさしたデューは、傍らで黙々と弓の手入れをする黒髪の青年に目をやり、またこぼれそうになったため息を慌ててかみ殺す。黒髪の青年、つい最近ヴェルダン王国の王位についたばかりのジャムカはそんなデューの様子を知らいでか、さっきから彼の方を一顧だにしないのだ。それが、またデューの憂鬱を誘っている。先にしびれを切らしたのは、当然ながらデューの方だった。
「ねーーー、ジャムカーーーー?」
弓弦をチェックするジャムカの動作はよどみがない。蛮族と蔑まれてきたヴェルダンは他国による、いわれのない侵略行為を多々経験してきている。他の者とは違って、戦いはジャムカにとって特別なものではない。己を守る武器を整えるのを怠れば、その代償は死のみ。ジャムカは今、デューの相手をしている場合ではないのだ。それはデューにも分かっているので、ジャムカを観察しながらおとなしく待つことにした。
切れ長の、どちらかといえば冷たい光を宿した黒瞳が、一度笑えばとても温かく溶けるのをデューは知っている。浅黒い肌や漆黒の髪、グランベル公家や聖戦士の血をひく者たちとは似つかぬその容姿に、ジャムカが内心忸怩たるものがあったことも。ユングウィの公女との結婚を決めた時、相当悩んだことも。ジャムカが口に出さないことでも、なんとなくデューには分かる。初めて会った時から、なんとなくデューにはジャムカが感じられる。他者を拒絶しているようなこの青年が、実は誰よりも熱くて思いやりの深い人間だということが。理屈では無く、分かるのだ。盗賊の勘、なのだろうか。それとも、これが好きってことなのだろうか。
ジャムカの武器の手入れも、矢じりを確かめるところまで進んだ。そろそろ、作業も終わりだ。もう話しかけてもいいだろうか。
「で、どうした?」
と、思っていたら、ジャムカの方から声をかけてきた。弓を傍らに置くと、床に座り込んで、
「俺の部屋に来てから、二十回はため息をついてたぞ。」
「数えてたの?」
「二十回まではな。」
あとは知らん、と笑うジャムカの顔が、ふいに真剣になった。
「言っとくが、次の戦闘に参加したいっていうのは駄目だからな。」
どうやらデューの考えも、ジャムカに筒抜けらしかった。明日の戦とは、レプトール公との戦である。この戦いに勝てれば、グランベルの本城は目の前だ。シグルドの汚名を返上する為にも、どうしてもグランベル国王に会見しなければならない。だが、その前にティルテュの父親、雷神と異名を取る、トールハンマーの継承者レプトールとの戦いが待っている。今までの戦とは違う。血で血を洗うような激しい戦いになることは容易に予想できた。そんな戦いに、まだ少年のデューを参加させるわけにはいかない。シグルドはそう考えたのだろう。
「それに、おまえはシグルドからイザークへと使者にたて、と言われている。明日にはここを出ろ。」
デューを使者に、というのがシグルドの口実なのは、デュー自身にも分かっていた。自分の身を案じてくれているのも分かっている。だが、何故か不安なのだ。このまま離れたらいけないような気がする。このまま離れたら、もうみんなと、ジャムカと2度と会えないような気がして。こんなになったのは初めてだ。こんなにも死というものが身近に感じられるのはこれが初めてで、デューにはそれが恐ろしい。
「でも…やっぱり最後までみんなと一緒に居たかったんだ。」
「戦争が終われば、ずっと一緒に居られるだろう?」
「……」
んなわけないじゃないか。デューはただの盗賊で、ジャムカはヴェルダンの王様で。戦争という特殊な環境なればこそ、こうやって一緒に居られるけど、戦争が終われば二人の世界も、行く道も違ってしまう。そして、もう2度と交わることもないだろう。
頭をたれたデューに、ジャムカは静かに声をかけた。
「一つ、俺からの提案だ。」
「えっ?」
弾かれたように顔を上げるデューに、ジャムカの優しい笑みが降る。
「もし、おまえが戦争が終わったら盗賊から足を洗うというのなら、俺の弟として、ヴェルダンで一緒に暮らすというのはどうだ?」
信じられない。最も願ったことが、今、デューに差し出されている。
「ヴェルダンはそう豊かな国じゃあないから、衣食住を保証するくらいしかできんがな。」
デューは何も言えなかった。こうやって、いつもジャムカはデューの欲しい物をくれる。ぶっきらぼうに、事もなげに、いつもそうしてくれる。ずっとジャムカの傍にいられたらいいのに。
何も言えずに、ただ頷くばかりのデューの頭を撫でながら、
「だから、明日にはイザークに行くんだぞ?」
「うん。」
そう答えるのが精一杯なデューは、それでもとても幸せなのだった。
ジャムカのベッドで、何時の間にか寝ついてしまったデューの寝顔は、年相応に子供っぽい。まだ、十五にもなっていない少年をこの戦争に巻き込んだことは、ジャムカにとって後悔の一つだったから。だからこそ、シグルドにデューを戦争から遠ざけることを頼んだ。いささか遅すぎるけらいもあったが、それでも、まだ間に合う。今までで最も危険な戦争にデューを参加させるわけにはいかない。それに、万が一、シグルドの軍が勝利を得たとしても、ジャムカは自分が生きていられるとはとても思えないのだ。ユングウィの公女を攫い、戦争のきっかけを作ったヴェルダン。その主たる自分をグランベルが生かしておくとはとても思えない。例え、シグルドがそれを望まないとしても、恐らくグランベルの王はこの機を逃すまい。労せずして、目の上のこぶだった蛮族を除くチャンス。ジャムカが死ねば、指導者を失ったヴェルダンの部族が、結束を緩め瓦解するのは目に見えている。グランベルは、弱体化したヴェルダンをゆっくりと料理すればよい。
ジャムカは己の運命をおおよそ悟っている。しかし、シグルドを助けるとジャムカは誓ったのだ。それを破るわけにはいかない。死ぬことが怖いわけではない。だが、自分が死んだら、残された人はどうなる?エーディンは、おそらくユングウィに戻るだろう。だが、デューは??天蓋孤独のこの少年はどうなるのだろう?
デューの隣に身を横たえれば、少年の体温を肌で感じる。
一緒にいたかった。ヴェルダンでずっと一緒に暮らしたい。それが無理なら、せめてデューとエーディンだけは生きていて欲しい。自分で幸せにしてあげることが叶わないけれど、どこかで生きていてくれれば…。
――俺が死んだら、デューは泣くかな?
嘘をついたと責めるかもしれない。守れない約束をした自分を憎むかもしれない。それでも、構わなかった。
――俺もおまえのことが好きだよ。
あの戦闘のなか、躊躇わずにジャムカの弓の前に飛び込んできたデューを。ヴェルダン城で初めて会った時から、屈託なくジャムカに話しかけてきた少年を。いつのまにか本当の弟みたいに感じていた。家族を全て亡くしたジャムカにとって、エーディンとデューがどれだけかけがえのない存在になっているか、恐らく本人だけが気付いていない。
だから、この命に代えても、絶対に、彼らだけは、守って見せる。
夜空を切り取った窓の向こう、浮かぶ半月を瞳に映すジャムカは、遠き彼の国に思いをはせる。思うは、祖国に残した身重の妻のこと。今ごろ、彼女はどうしているだろう?
だが、バーハラ凱旋の後に彼らを待っていたのは、ジャムカの想像を越えたものであった…。
圧倒的過ぎる。兵の数も、兵士の能力も。何もかもでグランベルはシグルドたちを遥かに凌いでいる。レプトールを倒し、グランベル王との会見が叶うはずではなかったのか?先の戦で疲れきった兵士たちは、グランベルの正規兵達にとっては格好の的以外のなにものでもなく。ヴェルトマーの魔導師たちの炎により次から次へと倒される味方を思いやる余裕もジャムカにはない。自分の身を守るのすら危うい。神速ともいえる早さで矢を繰り出せる彼とはいえ、矢が尽きればどうしようもない。
大地を血に染めて、日が落ちる。見上げた先に、その落日にも似た、赤い炎。真っ直ぐに己目掛けて落ちてくるそれを彼は認め、微笑む。
こんなものなのだろう、自分の一生なんてものは。デューをまきこまずにすんだことがせめてもの救い。あいつさえ生きていてくれれば。
視界いっぱいに広がる赤。その先に微笑む誰かの姿。太陽に透ける優しい髪が、なんだかとても懐かしい。
幸せになって欲しい。俺の分まで。それだけを願う。ひたすらに。
己の死を、体で受けとめながら。ジャムカは、今までになく安らかな微笑を浮かべて。瞼の後ろ、浮かんだ面影の名を、呼んだ。
自分でも、どうしてこんなに焦っているのか分からない。イザークへの使者の役目を終えて、のんびり帰ればいいはずだった。グランベルの城に彼が辿りつく頃には、戦争は全部終わっている。それから、デューはジャムカと連れ立ってエーディンの待つヴェルダンに帰るのだ。だけど、なんだかやっぱり不安が消えない。ジャムカの顔を見ないと安心できない。
自分の旅立ちを見送っていた、シグルドのあの曖昧な笑顔。旅支度の袋を、ジャムカがわざわざ用意してくれた。レックスの大きな手が、デューの頭をわしわしと撫でてくれたこと。
まるで、パズルのピース。断片的で訳が分からなくて。形にならない。隠されたその絵が示す真実が、なんだかとても恐ろしかった。
思いに急かされるままに、デューの足が速まる。グランベルへ近づけば近づくほど、不安は大きくなるばかり。心の中で、誰かが何かを叫んでる。その声が急げ急げとデューを突き動かすのだ。急がないと。急がないと…どうなるというのだろう??
戦の混乱さめやらぬ人々には、辺りに目もくれずにひたすら街道を行く少年に構う余裕もない。そして、逆に人々が口々に囁く反乱軍とグランベルの王国軍の戦争の結果も、デューには耳を傾ける余裕がなかった。
「うわぁっ!」
早足でゆくデューの足先が、石ころにとっつかまった。体が勢いよく前に投げ出され、肩にしていた袋が宙に放り出される。揺るんだ袋の口から、雑多な品々が砂利道に飛び散った。
パチンコ、盗賊の七つ道具、チョーク、砂時計、ブレスレットに虫刺されの薬。
レヴィンから貰った本、ビー玉、水筒、タオルにパン。
そして、小さな銀のダガー。
銀のダガー?そんなものは入れた憶えがない。すりむいた膝を引きずりながら、転がった物を拾い集めるデューの手のなかに最後まで残ったダガー。見覚えはある。しかし、自分のものではない。その時、デューは気付いた。そのダガーの持ち主が誰であったかを。
だって、これはジャムカがとても大切にしていた。
お母さんの形見だって、いつも肌身から話した事はないって、そう言ってた。
どうして、こんなところにあるの?
どうして、おいらの袋の中にあるの?
ジャムカ?ねえ、どうして?どうして、答えてくれないの?
肩に担ぎなおした袋は、やたらに重い。そして、グランベル城もまるで遥か彼方にあるかのように思えた。
泣きはしない。こんなことで泣いたりなんて、するもんか。
悲しくなんかない。涙も出ない。心が真っ白になって、なにも考えられないだけで。
置いていかないっていったのに。一人にしないって言ったのに。一緒に暮らそうって言ったのに。
一歩一歩ゆっくりと、デューは行く。どこへと行くあてもない。右手にジャムカのダガーだけを握り締めて。帰れる場所も、帰りたい場所も、もうデューには何も無かった。
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