その丘の上からは、ノディオンが一望の下だった。どこまでも広がる春の草原を囲む山並みを、朝の光がじわじわと縁取っていく。空へ空へと昇る黄金の光と一緒に、大地も背伸びをしている。ノイッシュの体も上へ上へつれていかれそうな気がした。
大きくのびをして、朝の空気を吸い込む。隣国ではあったが、ノディオン公国は彼にとって初めての土地だった。朝駆けのつもりで、馬を駆って偶々たどり着いたこの丘の上。樹齢がわからないくらい育った、ブナの木陰が心地よい。初めてやってきた土地で、こんなに気持ちのいい場所を見つけられるとは。ここへ連れてきてくれた愛馬にも感謝したいくらいだ。
「おまえ、いい場所につれてきてくれたな。」
空と風と大地と。ありふれた風景のはずが、それはどこかシアルフィに似ていて、ノイッシュの足を引き留める。シグルドとともにエバンス城に入った彼は、ヴェルダン遠征以来、故郷の地を踏んでいない。転戦につぐ転戦で、帰郷するどころではなかったのだ。現に今とて、彼は異国の空の下にある。ハイライン城を制圧したとはいえ、エルトシャン王の救出はまだなされていなかった。こんな風に気を抜いてはいけないのだろうけども。もう少しだけ、この景色をみていたい。退屈して肩に顔を寄せてくる愛馬を撫でながら、彼はそんな風に思った。
戦場へと赴けば、もう二度とこの景色をみることもできないかもしれないのだから。
「あなた、誰?」
ひどく無遠慮な誰何が、物思いから彼を呼び戻した。緊張を含んだ、若い女性の声だ。ぎょっとして身を翻し、幹を背にして立つノイッシュは、一人の少女と対面した。
平服に身を包んだ、明らかに自分よりも年下の少女−−16、7といったところか−−が、いた。唇をひき結び、彼を睨み付けている。
「あなた、誰?ここで何をしているの?ノディオンの人ではないわね?」
矢継ぎ早の言葉に、しばし声を失う。ブロンドを肩に垂らした少女は、何処の貴族の令嬢かと思うほどの気品にあふれた顔立ちをしているのに、ノイッシュを睨む剣呑な視線は迂闊に触れば切れてしまいそうだ。
しかし、何故いきなり睨まれねばならないのだ。たしかに武装をした他国者がうろついていたら、住民としては警戒するとはおもうが、その点についてはノイッシュとしても言い分がある。
まず、自分は何もしていない。それに、シアルフィ軍はハイライン兵からノディオンを救いにやってきたのだ。歓迎されこそすれ、憎まれるはずがない。それなのに、初対面の相手からどうしてここまで露骨に怒りをぶつけられねばならないのだ。
が、すぐに思い直した。今のノディオンは国王不在でひどく不安定な状態だった。すでに追い払ったものの、ハイライン兵は城下を混乱に陥れた。民が警戒するのも当然だ。
相変わらず、怖い顔でこちらを睨め付ける少女の前で、ノイッシュは両手を広げてみせた。
「私の名前はノイッシュという。シアルフィの騎士だ。ここには朝の空気を吸いにきたんだ。」
「シアルフィ…?エバンス城のシグルド様の騎士なの?」
「そう。」
自分は敵じゃないことを判ってほしくて、ぎこちないながらも笑顔さえ浮かべてみせた。女性経験が少ない彼にしては、最大限努力をはらって。
ほっとすると、ようようノイッシュにも相手を観察する余裕がでてくる。自分と同じ目と髪の色をしているのに気がつくと、親近感すらわいてくるような気がするのは、あまりにも単純だろうか。
「えーっと…君の名前を教えてくれないか?」
「ラケシス。」
ノディオン公国の姫君の名と同じ名にも、ノイッシュは驚かない。自国の姫君の誕生と同じ年に娘が生まれたなら、姫君にあやかって名前を付ける夫婦は多いだろう。シアルフィにも、シグルドやエスリンの名は多い。
「この場所は…あまり立ち入っては行けない場所なのかい?」
「…そうではないけれど。でも、ここは私とお兄様の場所だから。」
またもや睨み付けられて、ああ、なるほど、と納得する。ここは彼女の秘密の場所だったのだ。彼も自分だけの優しい場所を自国に持っていたから、彼女の怒りは理解できる。
「…ごめん。」
「どうして謝るの?」
「だって、ここは君と君の兄上の場所なのだろう?あんまり素敵な場所だから、ついつい長居をして、君の邪魔をしてしまって…。」
なんでこんなに一生懸命にならねばならないんだろう。何も悪いことなどしていないのに、女性相手になってしまうと、途端に並はずれた不器用者になってしまう自分を自覚して、暗澹たる気分になる。こんな時にあいつなら、と。アレクの顔が頭の片隅をよぎった。
「でも、ここから見えるノディオンがあまりにも綺麗で…、つい、時間を忘れてしまった。その…悪気はなかったんだ。」
深々と頭を下げるノイッシュに、ラケシスの笑い声が降ってきた。
「そんなに謝らなくてもいいのに。」
「そうかい?」
「ここを褒めてくださって、有り難う。えー…。」
次の言葉がでてこない。ノイッシュが言葉を継ぐ。
「ノイッシュだ。ラケシス。」
「有り難う、ノイッシュ。お兄さまも私も、ここからの景色がとても好きなの。だから、そういってもらえてとても嬉しい。」
と、少女の顔が笑顔になる。まるで花が綻ぶようだ、とそう思った瞬間に、思い出したのはいつかみた風景。バーハラの王宮の庭を彩る、大輪のハイドランジア。近寄りがたい雰囲気を漂わせていた彼女の笑顔は、可憐に咲くその花を思い出させる。
突如として気がついてしまった。目の前にいる女性の眼差しは、とても魅力的だと。
あれ?と思ったときには、もう彼女から視線が外せない。何故だかわからない。どうしてこんなに心の中が暖かい?
不確かな感情が、ノイッシュを戸惑いの渦に突き落とす。ラケシスの前で、生真面目な人生を送ってきた騎士は、ただただ困惑の中にあった。
そして。
その、感情の名を、ノイッシュはまだ知らない。
■□■
”ここからみるノディオンは、とても綺麗だ。”
ノイッシュの言葉は、すとんとラケシスの胸に落ちてくる。
出撃前のわずかな一時。もうすぐ彼女はノディオンを出発する。アグストリア城に囚われている、兄エルトシャンを救出に向かうシグルド軍と合流するために。
ノディオン王家の紋章を柄に浮き彫った細身の剣をもてあそびながら、ラケシスは小さく笑った。ノイッシュのあの言葉。同じ場所で同じ言葉を、エルトシャンからラケシスは聞いたことがある。
もうかなり昔、ラケシスの母がノディオン王家に迎えられた直後の話だ。兄とともに早暁の丘へと登り、太陽が大地を祝福するのを見守りながら、兄はそういった。不器用で、まっすぐな眼差しは、ひたすら大地へだけ向けられていて、嫉妬めいた気持ちと同時に自分も兄と同じようにこのノディオンを愛していきたいと、そう思った。
遠ざかっていたあのころの気持ちが、胸の中で活き活きと蘇ってくる。そして、ノイッシュの眼差しは、あのときの兄と似ているような気がした。
この国を守らなければ。いいえ、守りたいの。私も。
「姫様。」
扉の向こうで、イーヴが出撃を告げる。
「判りました。」
手慰んでいた剣を佩き、戦地へと向かう。兄を救わねばならない。すべてはそれから。それは、ラケシスにとっての運命の扉が開いた、その瞬間だった。
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