彼女の姿を見るたびに、花のイメージが浮かぶのだけれど、肝心の名前が思い出せない。騎士の家に生まれ、主君への忠誠と己の技量を鍛えることにのみ費やしてきたこの20数年。戦いを離れれば、ただの無骨者にすぎない自分。薄れかけた記憶、その中に咲くあの花の名前は、なんといっただろうか。思い出せない。ただ、一つだけいえることがある。それはノイッシュの持つ、一番綺麗なイメージだということ。紅に揺れる、あの花の名前。それがどうしても彼には思い出せないのだ。
「おい、ノイッシュ。」
呼吸を整えつつ、静かに剣を構えるノイッシュは、その声を背中で聞いた。振り向かずとも、彼に声をかけてくる人間は限られている。
「なんだ、アレク。」
愛用の槍を片手に、軽い調子で近づいてきたのは友アレク。予想通りだ。戦の間近いこのシレジアの城で、誰だって多少は張りつめた空気を身に纏っているというのに、彼だけはいつも変わらない。例によっていつものにやにや笑い、−−本人曰く、女殺しの笑顔だそうだけど、じつのところ彼のその自慢の笑顔に引っかかった女の子の話は、長いつきあいの間、今まで一度も聞いたことがない。
「相変わらず鍛錬好きだなあ、おまえは。」
「騎士と生まれたからには、常に体を鍛えておくべきだろう。それに…。」
反乱の汚名を着せられ、故郷を追われて、他国に一城を借りる身となった我が主君の身の上。バーハラは、反逆者を討つという名目の元、シレジアに兵を送るという。
「この状況でのんびりしてられるお前の神経を逆に尊敬するよ。」
「ま、そんなに誉めてくれるな。」
褒めたつもりは全くない。憮然としてまた剣を構えたノイッシュに、アレクはなおも食い下がる。
「なぁなぁ、この間から気になってたんだけど、おまえ、なんかあれじゃないか?」
「あれって?」
「あーもう、無意識かよ?おまえなぁ。」
近づいてきたアレクの腕が、ノイッシュの首を抱え込んだ。体勢を崩した彼の耳元に、アレクがささやく。
「気持ちはわからんでもないけど、もうちょっと控えめにしてくれよな。」
「はぁ?」
なんのことだか本当に判らない。
「……”お主はラケシスのことを愛してしまったようじゃ”だろ?」
「!!」
「バレバレなんだって。全然気づかれないのもまずいけど、わかりやすすぎるのも、俺的にはアウトだと思うぜ。俺の経験から言うと…。」
ことこういうネタになると、アレクの舌は実によく回る。立て板に水の如く、滔々と自体験を例に取った蘊蓄を垂れるアレクの腕の中で、ノイッシュはようように衝撃から立ち直った。
「ち、違う!私は別に…!!」
「隠すなよ。身分違いだとかそんな無粋なこと言わないって。」
身を捩っても、アレクの腕は外れない。力はノイッシュの方が上のはずなのに、どうしたことだろう。
「私はただ!…彼女を見ると花が…昔みたことがあるような気がするだけで…!」
「はぁ?」
何いってんだ?とアレクの顔が言っている。ノイッシュはようやく親友の腕の中から抜け出せた。
「花が思い浮かぶんだ、見てると。」
激しい雨の朝にも、その花だけはいつだって凛と咲き立っている。その景色を見たのは、シグルドに騎士の誓いをたてる前だったような覚えがある。そのイメージは、今も見たままの鮮烈さを持ってノイッシュの中にあった。触れてはいけないような気がするのに、手を伸ばさずにはいられないような、そんなイメージ。これを上手くアレクに説明する自信がなくって、ノイッシュは不機嫌に黙り込む。
「…えーっと…??」
上手く通じなかったのは、アレクの様子を見ればよくわかった。だいたい、ノイッシュにだってよく判っていない。騎士として生まれて、今までずっと主君への忠誠だけを心に生きてきた。誰も教えてくれなかった。笑顔を見たい相手、姿をつい探してしまう相手、それが何なのか、どうしたらいいのか。ノイッシュは知らない。ただ、花の姿が思い浮かぶのだ。ノディオンの大地を照らす太陽の下で、無垢な微笑みを浮かべていた少女の姿と共に。
「惚れてるわけじゃない…ってわけでもなさそうだしなあ。」
とんとん、アレクの槍が彼の肩でリズムを刻む。アレクの、考え事をするときの癖だ。思いつくのは大抵ろくでもないことだけれど。
「よし、それじゃあ、俺がとっておきの口説き文句を教えてやるよ。」
ノイッシュは黙って剣をアレクに向けた。
「なんだよ?」
「もういいから、剣の相手をしてくれ。」
「人生の先輩がアドバイスをしてやろうってのに、いい態度だなあ、ノイッシュ君。」
「いいんだよ。」
別にどうにかしたいわけじゃないから。そう、付け加えた彼を親友はまるで信じられないものであるように見ている。
でも、本当になんとかしたいわけではない。あの少女に対して、シグルドに捧げた忠誠とはまた別の何かを感じているのは確かだ。それがなんなのか。ノイッシュには上手くいえないけれど、それはきっと具体的な行動を伴ったものではなくて、
(彼女に悲しい顔や、辛い思いをさせたくないだけなんだ。)
守りたい、と思うだけで。たとえ、彼女の手を取るのが自分でなかったとしても。幸せになって欲しいと、そう思う。
「横から誰かにかっさらわれても知らないからな、俺は。」
つきあいきれん、とぼやきながらも剣を構えたアレクに、ノイッシュは曖昧に笑った。
□■□
マスターナイトの称号を受けたばかりの、ノディオンの姫君の胸中は不思議と落ち着かない。
シレジア城は今日もまた訓練にいそしむ新兵達や、己の武器の手入れに余念のない戦士達、で満たされていた。戦の風を、嵐の予感を、みな肌で感じているのだ。城壁からはそんな彼らの姿が一望できる。
が。ラケシスの心を乱しているのは、戦火の接近ではなかった。
(どうして私が、こんなことを考えないといけないのかしら?)
男の視線に気づかぬほど、彼女は初な少女ではない。金髪の青年が、時折自分を視線で追っているのは知っているし、戦場でもそれとなくフォローしてくれているのにも気づいていた。それに、かつてノディオンの景色を好きだと言ってくれたノイッシュのことを、決して彼女は嫌いではない。寧ろ、好ましいと感じている。
なのに。肝心の彼は、ラケシスに好意の視線は向けるものの、それ以上何もいってこないのだ。話しかけてくるわけでもない、ただ、ものいいたげな不思議な視線をむけてくるだけ。
元々、軍の構成上、口をきく可能性も低い二人だ。何もしなければ、何もおこらないというのに。いや、そもそも何故、こんなことで自分が悩まなければならないのか、それも彼女には不満だった。
(別に……どうでもいいじゃない。)
そう、どうだっていい。優しい目をした青年のことなど、自分には関係がない。
目を閉じてラケシスはエルトシャンに思いを馳せた。ノディオンの誇り、獅子王とまで称えられた兄の、凛々しい姿を。だけど、閉じた瞼の向こう側、エルトシャンの姿が見えてこない。見えるのは不器用なくらいまっすぐに、彼女を見つめる騎士。
思わず息をのんで、目をこじ開けた。
「………どうかしてる……。」
お兄様のような人じゃないと好きになれない。でも、お兄様のような素敵な人はきっといやしないから、私は一生誰とも恋をしない。
そっと手をあてた両頬は、不自然に温かく。名前を思うことさえも、恥ずかしいことのような。
それなのに。どうして私は今、馬鹿な娘のように頬を染めて、誰かのことを考えていなければならないの。
曖昧な態度に、思いを伝える視線に、心が揺らされている。
ノイッシュはエルトシャンにちっとも似ていない。誰よりも強く、誰よりも凛々しかった兄には。好きになるわけがない。
眼下では飽きもせずに訓練にいそしむ騎士たち。彼の姿も見える。緑の騎士と剣を合わせてから、もう半時はたっていた。
…………。
(……半時?)
「………私…。」
とうとうラケシスも認めなければならなかった。気がつけば相手の姿を探していたのは、彼だけではなくて。
だから、それは、つまり。
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