セーラは走っていた。髪を風になびかせ、まとわりつく僧衣の裾を気にもせずに。久々の全力疾走で、息が切れ、顎があがる。木々の間を通り抜けた拍子に、小枝が袖口を引き裂く。一張羅なのに…と思うまもなく走り抜けた。足を止めた瞬間、自分が自分でなくなりそうな、そんな気がするのだ。走るセーラに、先ほどのエルクの姿がまざまざとよみがえる。
エルクが傍らの少女をセーラに紹介する。プリシラというエトルリアの貴族の女性は、柔らかくセーラに微笑みかけた。優雅な物腰に、衣服はきっとセーラが触ったこともないような上等なそれ。普通に挨拶を返そうとしてできなかった。いつか本当の両親が迎えにきてくれたら、セーラがそうなれると夢見た姿がそこにある。
エルクが、自分に決して向けなかった眼差しで、プリシラを見つめるのをみ。それを当然とばかりに受け止めるプリシラを見て、さらにセーラは何もいえなくなった。どうしてこんなにいたたまれない気持ちになるのか。エルクが悪い。エルクは遠くに行ってしまわないと思っていたのに、突然、こんな形であっさりと自分を裏切るのだから。何か言わなければと、笑わねばと思うのに声が出てこない。こんなことには慣れているのだ、孤児院をでてから、何度も同じ思いを味わった。慣れている、だから、平気、だ。
「セーラ?どうしたんだ?黙ったままなんて君らしくない。」
プリシラだけを見ていると思っていたエルクが、セーラの様子に気づく。
「え?ううん、別になにも…。」
「何もって…。」
エルクが、セーラに近づいてくる。心配そうなエルクをみて、セーラは本当に逃げてしまいたくなった。いや、本当に逃げることにした。
「あ、私、用事を思い出したから、じゃね、エルク。プリシラさん。」
ぺこりと頭を下げると、きびすを返した。走り出したときに後ろから自分の名をよぶエルクの声が聞こえた。その声で、なおさらセーラは一心に駆けた。きっと、エルクはプリシラに何かしらの言い訳を重ねないといけないだろう。いい気味だと、そう思ってしまう自分が惨めだ。
突然に、視界が広がる。木々の間を抜けて、たどり着いた先には、小さな湖があった。これ以上は進めない。
足を止めて、地面に座り込んだ。膝に力が入らない。久々の全力疾走、実に修道院にいたとき以来だ。
立ち上がる気力もなく湖を眺めていると、何故だか怒りがこみ上げてくる。
「だいたいなんなのよ!エルクときたら、根暗魔道士の癖に自分だけ…!」
「自分だけ?」
うひゃ!とおおよそ乙女らしからぬ声をあげて、セーラは飛び上がった。振り返れば、書物を片手にした男性が興味深げに彼女を見つめている。剣呑な雰囲気にきつい眼差し、司祭のローブがそぐわない男。たしか、つい最近エリウッドの軍に加わった人だ。名前は確か…。
「レナート、だ。あんたの名前はセーラ、だろう?」
「よ、よくご存じですね?」
「ここへきてからそんなに時間はたってないが、ちょくちょく耳にする名前だからな。元気なシスターがいるとかなんとか。それに、戦場であんたの姿は目立つ。」
あはは、と愛想笑いを浮かべたセーラだったが、口元は微妙に引きつっている。自分のことがどんな風に人の口の端にのっているか、相手の微妙なニュアンスではっきりと判ったからだ。
セーラの脳裏には、先ほどのエルクの眼差しがみえた。プリシラの微笑みが見えた。自分は自分、そう思っていてもきしきし軋んで痛むのは、セーラ自身の心だ。ウーゼル様のお役にたたなくちゃならなくて、ヘクトル様をお助けしないといけなくて、一生懸命頑張ろうと思っている。その為にも自分自身を奮い立たせなければ、セーラだって本当は怖くて前に進めないのだ。負けるもんか、そう思った。
「いいんですよ、司祭様、そんな歯に衣を着せていただかなくても。自分が回りからどう見られているかなんて、私自身が一番よく知ってますから。」
控えめでたおやかで、優しくて清純、セーラには縁のない形容詞。おおよそシスターの職業から一般的に抱くイメージをことごとく自分が裏切っていることくらい、セーラ自身がよくわかっている。
「だから、シスターらしくないとか、そーいう風に思われてても全然気になりませんから!」
びしぃっと決めて、極めつけにレナート司祭に指まで突きつけて宣言してから気がついた。ろくにしらない相手に、しかも目上の人間に思いっきり喧嘩腰な物言いで。育ての親である老司祭がきいたなら雷が落ちること請負だ。だが、今更取り返しはつかない。
うら若きシスターに、いきなり指まで突きつけられた司祭は、しばし固まっていたようだった。その表情は、きっとすぐに聖職者らしからぬ無礼な行動をとったセーラを責めるものにかわるに違いないと、そう思ったセーラは身構える。
「俺はあんたがシスターらしからぬとか、そんな風に思ったことはないがな。」
だが、灰色の目をした司祭は、表情も変えずにそういった。
「確かにあんたは、教会によくいるような女性とは全然違う。あんたほど口数の多いシスターは珍しい。だが、それがあんたなのだろう?」
おしゃべりで、軽率で、喧嘩っ早くて。
「清らかさや、真面目さが聖職者の条件ではない筈だ。それが条件なら、俺は一番に除外されてる。」
口が悪くて、自分勝手で、女の子らしくない。そんなことばかり言われてきて、負けたくないけど、負けてしまうこともあって。そんな風にいってくれる相手はいなかったのに。
「誰かのために祈る心だけが、杖を持つ資格……。」
セーラの様子に気づき、次の言葉をなくした寡黙な司祭は、相変わらず顔色一つ変えることもない。それでも、声もなく泣き出したセーラを優しく胸に抱き込んだのだった。
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