夕焼け小焼けで日が暮れる。
ばいばい、さようなら、先生また明日。
手を振って振り返して、家路を急ぐ生徒たちの長い影。
帰りを待ってくれている人のもとへと戻っていくのだ。
終りの太陽の赤色に背中を押されて、我が家へと。
背中を見送れば、夕焼けが目にしみる。
イルカは、ふと思った。久々にあの景色を見てみたい。
珍しく残業もなく定時であがれたイルカが、火影岩に向かったのには特に理由はない。
ただ、久しぶりに夕日が見てみたかった。火影岩から望む里の景色は、―特に日没のそれは―イルカのお気に入りだったのだ。
―急がないと、間に合わないか?
屋根伝いにわたりながら、目的地までの距離を測る。今日を逃せば、次の機会はいつになるかわからない。意固地になるようなことでもない…だけど、少しペースを上げる。火影岩まであと少しだ。
イルカの選択は正しかったらしい。イルカが火影岩に到着したのは、日没の寸前だった。
すっかり熟し切った太陽が、じわじわと地平線に溶けて落ちる。この世のお別れに、世界を紅く染めあげながら。
昼の色から夜の色へ、徐々にやわらかく切り替わっていくこの景色が、イルカをひきつけてやまない理由を、イルカ自身、実はわかっていた。
霞む暮色、朱、茜、紫苑、薄墨。さざ波のごとく、色を変え、打ち寄せる景色。ああ、綺麗だと思うと同時に、寂しくて懐かしく感じる。会えるはずのない、でも会いたくてたまらない人たちが名前を呼んでいるような気がする。
遠い昔に、三代目がイルカに話してくれたことがあるのだ。昼と夜の間のひと時、彼岸の境界線が限りなく薄くなるのだと。だから夕焼けの向こう側、亡き人たちはきっとお前を見てくれている、声をかけていてくれている、と。
泣くにも泣けず、己の心のやりどころも見つけられない孤児を憐れんだ、三代目の優しさだとはわかっていた。が、十をこえたばかりの少年だった自分は、その話を信じたかった。日没の向こうで、父と母が自分を見ている、一時の慰めでも、嘘だとわかっていても、その時の自分にはどれだけ必要だったか、今となってはよくわかる。
夕焼けが好きなのは、きっとそのころの名残。だけど、それが好きだから見に行くなどと同僚に告げれば、女々しい奴とからかわれてしまいそうな気がしていいだせなかった。
「一人で夕焼け見てるっつーのも、俺、寂しい人みたいで嫌なんだけどなあ。」
日没の彼方にいると信じたい、両親の優しい声を探すこの瞬間。これを誰かと共有することは至難だ。わかっているので誰も誘えないのだ。そう、たぶん一番自分のそばにいるナルトだとしても無理だろう。
ふいに目頭に熱を感じ、イルカは目を瞑った。ああ、独りっきりだと、そんなことを思う。己の名を呼んでくれる優しい人たちを失い続けて、もう何年たったのか。忍びの癖に、下忍を従えることも望めば可能な中忍の癖に、どうしてこうも女々しい自分に腹も立つ。こんなことでは三代目の思いに、ナルトの信頼に応えることもできない。
でも、だからといって、涙は止められるものでもない。
「畜生…なんだってんだ、これは。」
自分のための涙は、もう二度と流さないとあの時誓ったはずだった。三代目の腕の中で泣いたあの時が、自分のために泣いた最後の日のはず。
だが、置いていかれるのは辛い。どうしたらいいのか分からなくなる。ナルトが大事で、里が大事で。ナルトを信じているが、それでもどこからか不安はやってくる。三代目がいれば気にもとめていなかったことが、思いもかけない重量でイルカにのしかかっているように感じる。ナルトのためならば、きっと自分は命を失っても後悔はしない。だが、その先が全く見えなかった。ナルトはそこまで弱くはあるまい、だがまだ子供だ。だからたとえ自分一人になっても、ナルトを守りきらねばならない。失ってしまった家族の代用品だろうと言われてもかまわない、イルカにとってナルトはもう二度と失いたくない人間だ。
止まらない涙をぬぐってしゃがみこんだ。涙は簡単には止まってくれそうにない上に、鼻までぐずぐず言いだす。他人にはこんな姿は見せられぬ。夕陽の向こうの、父や母、そして三代目も、きっと今の自分を笑っている。
「あーあ、俺、みっともねぇや、ほんとに。」
沈む、沈んでいく。夕陽がイルカの目の前で、ゆっくりと山の果てに消えた。陽が落ちたから、きっとすぐに暗くなってしまう。明日も仕事だ。いつまでもこんな場所にいるわけにもいかない。泣いていたって何も変わらない、わかっている。知っている。
境目の時間が終れば、世界はもうすぐ夜の世界になってしまう。もうこれ以上、この場所にいても仕方ない。しゃがみこんだ姿勢から勢いよく立ち上がると、長時間の座り込みのせいか、足元が揺らいだ。
「お…っと。」
眼下の町並みが、ぐらりと揺れた。ああ、やばいとちらりと思う。気を抜くにもほどがある。立ちくらみだ。一応、忍の端くれ。ここから落ちても、死にはしまいが明日の授業に差支えがでるかもしれない、と。火影岩で黄昏ていて落っこちたなんてみっともなくて人にはいえないな、まるで他人事のような、そんな考えがふとよぎった。
「イルカ先生!!」
「!?」
誰かが自分の名を呼ぶのと、背後から腰にまわされた手が、イルカの体を後ろへと引き戻すのとはほとんど同時だった。
勢いあまってたたらを踏むイルカの体を、誰かの胸が受け止める。背中に誰かの暖かい体を感じて、助けてもらったのだと気づいた。
「す、すいません、有難うございます…。」
体を預けたまま、誰とも知らぬ相手に礼を言う。中忍でもここから落ちれば、「痛い」ではすまない。しかし、こんなにタイミング良く助けてくれたのは一体誰だ?
「こんなところで一体何してるんです?」
「!!カカシ先生!!」
慌てて体を離し、ナルトの上忍師と向き合う。
この際、自分のことは棚上げだ。なんで、こんなところに?はこっちのセリフだ。こんな時間に火影岩で上忍が何してる?!
カカシは何も言わない。何も言わず、ただイルカの顔を見つめている。
「?」
「…先生、あなた、なんて顔を…。」
?自分の顔は見つめて楽しいようなものでもないはず。平平凡凡、鼻の頭の傷以外、どこにでもいる中忍顔。上忍の視線を集めるはずが…。
「……泣くときは、ハンカチくらい準備してからにして下さいよ、子供じゃあるまいし。」
「!!」
顔から火が出るほど恥ずかしい、というのはこのことか。上忍で、里の誉れとか里一の技師とか、千個の術をコピーした男とか、ビンゴブックの筆頭とか、とにかくすっごい人に助けてもらった上に、みっともない泣き顔まで晒してしまうなんて。ましてや彼は今やナルトの上司だ。こんな情けない教師に教わった下忍…と思われてナルトの評価がこれ以上さがったらどうしよう。
無駄な心配をして、更に醜態をさらすイルカに、カカシはハンカチを差し出す。正直、イルカは今すぐここから消えてしまいたい気分ではあったが、上忍の気遣いを無視するわけにもいかない。ここで逃げたら、それこそナルトの評価が、サクラの査定がどうなることか。しかも、こんなくだらないことで。
「あ、ありがとうございます…。」
ハンカチを受け取った瞬間に、鼻が鳴った。嗚呼、不甲斐ない先生を許してくれ、可愛い生徒たち…。
とはいえ、もはや誤魔化し可能な状態ではない。遠慮なく上忍の気遣いに甘えることにした。目元をぬぐったハンカチで鼻をかむ。自分でやってるとはいえ、盛大な音がした。カカシ先生でよかった。気になる彼女に見られたわけじゃないだけマシだった、と無理やりに思うことにする。
ぐだぐだになってしまったハンカチを握りしめた。落ち着いたら落ち着いたで、こんどはどうしたらいいのやらさっぱりわからない。カカシは相変わらずイルカを見ていた。できれば立ち去りたいが、ここでイルカが先に帰ってしまうのも何やら失礼な気もする。
「こんなところでなにしてるんです?」
と、カカシはまた先ほどと同じ問いを口にした。
「え?あ、いえ…その、夕焼けを…」
そんなこと聞いてどうする?とはいえない階級差。泣き顔を見られただけでも憤死ものだというのに、これ以上は勘弁してほしい。だが、上忍の問いに答えねば、しがない中忍に明日はない。
「夕焼けの向こう側から…会いたい人が自分を見てくれてる、っていう話を昔、三代目から…、そうだったらいいな、とか…。」
頬に血が上るのがわかる。畜生、笑うなら笑え。二十歳もとっくにすぎたいい大人が、子供のころの慰めをずっと抱えていて悪いか。ずっと独りで生きてきて、ちょっとした心の支えが必要だったのだ。じゃないと寂しくて耐えられない。
「ああ。あの話ね。俺も知ってる。」
だが、写輪眼の男は笑わなかった。
「四代目が、嬉しそうに話してくれたんですよ。俺も両親を早くに亡くしているから。」
いや、笑っている。懐かしい、と目を細めて。
「向こう側から両親が見守ってくれてるとか、ね。ま、昔は全然信じてなかったですケド。」
イルカの向こう側、既に沈んでしまった太陽の方へと視線を向けながら。
「今は、少しだけ信じてもいい気分ですね。さっきの夕焼け、すごく綺麗だったから。」
「………。」
「どうしたんです、イルカ先生?俺、何かおかしなことを言いましたか?」
「いえ、何でもありません。」
泣いたせいで、心が弱くなっているのだとイルカは思う。でなければ、カカシが何の気なしに言ったことが、こんなに胸に響くわけがないのだ。泣きたくなってしまうわけがないのだ。
「そう。」
ありがたいことに、それ以上カカシは何も言ってはこなかった。黙ってイルカに手を伸ばす。
「ま、こんなところに野郎二人いても仕方ないですね、帰りませんか?」
「そう…ですね。」
正直なところ、ナルトたちの上忍師に近寄りがたい雰囲気を感じていたのだ。中忍試験前のゴタゴタもイルカのカカシに対する気後れを深めていた。だが、どうもよくわからない。印象がくるくる変わりすぎて、つかみ所がない。所詮、中忍には上忍のことなど理解できないということなのだろうか。相手の意図がつかめずに、イルカは一瞬だけためらった。が、迷うだけ馬鹿らしいことに気づく。木の葉の仲間だ。何をためらう?
「ええ、帰りましょう。俺、おなかへってきました。」
「あ、そうだ。夕ご飯奢ってくれたら、先生が泣いていたこと、ナルト達には内緒にしてあげますよ。」
カカシの片目がへらりと笑う。やっぱりイルカにとってカカシはよくわからない人だ。でもまあ。
「分かりました、一楽でよろしければ。」
いつもどおり、イルカはあまり深く考えないことにした。
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