モドル

■いつかの夜

 夜の中に、煙草の煙が吸い込まれていくのを、俺はぼんやりと目で追っていた。子供の時から慣れ親しんだバラティエとも明日でお別れかと思うと、柄にもなく感傷的な気分になる。夜、眠れないなんて一体何年ぶりだ?
 ため息と共に、煙草は海に転がり落ちていった。気を紛らわせるすべを失ってしまうと、頭ん中は止めどなくくだらねえことばかりを考えはじめる。ルフィたちのこと、ギンのこと、パティ、カルネ、バラティエ、単語の羅列がぐるぐると回る。オールブルー、そして、クソジジイ。
 だらりと手摺りに体をもたせかけている俺は、船が揺れればあっという間に海の中に投げ出されてしまうだろう。夜の海はすぐさま俺の命を奪うだろうから、苦しまずにあの世に行けるという寸法だ。
〈俺が死んだら、クソジジイは泣くかな?〉
 しかし、どれだけ一生懸命考えてみても、あのクソジジイが泣いている所なんて想像できない。あいつは俺のためになんて、泣いたりはしない。あいつは俺がいなくなっても、きっとなにも感じないんだ。どうせ、俺のことなんてなんとも思ってないんだ。
〈・・・あ、なんかヤな感じ。〉
 意外と俺って、鬱陶しい性格。だけど、今更クソジジイと別れるのが寂しいなんて、どの面下げて言えるってんだろう。
「おい、チビナス。」
 頭上から突然降ってきた声で、反射的に振り返った。クソジジイが、いた。
「明日は早くに出発するんだろうが、とっととねちまえ。クソガキ。」
 いつも通りにクソジジイは言う。明日、俺がここを出てしまえば、二度とここに戻ってこられるかどうかも分からないのに。
「うるせぇよ、クソジジイ。」
「ふん、寝坊して置いてかれてもしらないからな。」
 そういい残して、クソジジイは俺の目の前から行ってしまおうとした。
 クソジジイが行ってしまう。今を逃したら、たぶんもうどうしようもなくなってしまう。自分が何をしたいのか、俺にはちっとも分かってなかったけど、
「待てよ!ちょっと待ってくれ!」
 今にも視界から消えてしまいそうなクソジジイの背中に、そう叫んだ。クソジジイが立ち止まるのを確認してから、全速力で走る。レストランを突っ切って、厨房の奥の階段を駆け上がって。息を切らして、ジジイの前に転がりでた俺を、ジジイは奇妙なものでも見るような目で見やがった。
「おまえ、何やってんだ?」
「ちょ・・・っと・・待って・・」
 久々の全力疾走で、息が切れてしまった。これから煙草は出来るだけ控えようと、出来もしないくせにそう思う。
「で、一体、何なんだ?」
 無愛想で、喧嘩っ早いわ口は悪いわで、どうしようもないクソジジイだ。いつまでたっても俺のことをちびナス扱いにしやがる。こんなジジイとおさらばできるんだ、俺ってばもっと喜べよ。もう顔を見ないですむんだ、せいせいするさ、ああそうとも。
「・・・」
「俺も暇じゃねェんだ、用事があるんならさっさといいな、ちびナス。」
 くそジジイは、まるでいつもと変わらないのだ。俺はもう明日にはいなくなっちまうから、ジジイもきっとせいせいしてるんだろうな。俺もそうさ。こんなに心が痛むのは、きっと何か別の理由で・・・。
「・・・俺、もう明日にはここにいないぜ。」
「ああ、そうだな。」
「もう、二度とここには戻ってこれないかもしれないし・・・。」
 だから、くそジジイと会えるのもこれが最後かも知れない。
「てめえの下手糞な料理を食わされるのから,ようやく解放されるってわけだ。」
 あっちの船で料理の腕を磨いて来い,と。豪快に笑うジジイはちっとも寂しそうじゃない。でも,俺は寂しい。俺は寂しいよ。バラティエでコックが出来ない。食料を奪いにやってくる海賊どもに蹴りを入れることも出来ない。クソジジイがいない。俺をちびナスと呼んでくれるクソジジイがいないじゃねえか。
「俺,行くの辞める。」
 と,思ったときには,口に出していた。クソジジイの笑顔が一瞬に反転する。
「クソジジイの怪我もまだ治ってねえし,バラティエだってやばい。第一,またいつ海賊が襲ってくるかわかりゃしねぇ。そんとき,パティやカルネだけじゃ,役不足じゃねえか。それに,俺にはまだまだ独り立ちできるほどの料理の腕はないし・・・」
 反論されるのを承知で、俺は苦しい言い訳を並べ立てる。駄目だ、と言われるのが怖くて、俺は思いつくままにくだらねえ“理由”を垂れ流した。
「サンジ。」
 クソジジイが俺の名前を呼ぶ。でも,俺はそれを無視した。わかれよ,俺はあんたと離れたくないんだ。
「俺,やっぱり行かない。」
 クソジジイは今度は何も言わなかった。黙って奴が右手を振り上げるのを俺は見、それが俺を張り飛ばすのを待つ。だけど,いくら待っても今まで幾度となく食らわされたジジイの平手打ちは、落ちてこなかったのだ。
「馬鹿野郎。」
 ジジイの腕が,俺の頭を抱え込むようにして抱き寄せている。
「何いってんだ?オールブルーを見つけることは,お前の夢だったんじゃねえのか?あそこを見つけて,世界一のコックになるんだろうが。」
 ・・・今まで聞いた事もないような,ジジイの優しい声。こんな反則あるかよ、今まで散々ないがしろにしといて、さよなら間際に優しいなんて。
 それでも、ジジイの胸の中は暖かくて、俺は不覚にも泣き出してしまいそうになった。
「その夢があるから、あん時、俺に逆らったんだろうが?俺がお前を死なせたくなかったのも、お前が俺と同じ夢を追いかけてると判ったからなんだぞ。」
 そうだよ、俺の夢は、オールブルーを見つけることだ。でも、それはあんたと一緒に叶えたい夢。一人で叶えたってちっとも意味が無い。あんたが傍にいなきゃあ、駄目だ。俺、一人になりたくない。あんたの傍にいたい。
 でも、きっとそれはジジイには絶対に分かってもらえないだろうことが、物わかりの悪い俺にもようやくわかってきていた。あのとき、自分の海賊生命を捨てて、俺を助けてくれたジジイは、俺にとってオールブルーよりも何よりも大切で必要なものだったけど。ジジイにとっての俺は、夢の共有者にすぎなかったのだ。だから、俺を助けた。好きだからじゃ、ない。
「行って来い、サンジ。行って、オールブルーを見つけてこい。そして、ここに戻ってきやがれ。バラティエの副料理長の席は、お前が戻ってくるまで、あけておく。」
 ジジイが優しく俺の髪を撫でてくれるのは、俺のことをきっと自分の息子のように思ってくれているからなんだろう。俺はそれが嬉しい。嬉しいはずなのに、胸が痛くて、悲しくなる。何も言わない俺を、ずっと抱きしめてくれているジジイがやさしければ優しいほど、切なくて切なくて苦しい。あんたが好きだ,と言えれば、もしかしたら楽になれるのかもしれなかった。それがわかってほしくて、ジジイにじっとしがみついても、ジジイがそれ以上俺に触れてくれるはずもなく。せめてこの時間を少しでものばすために、俺はひたすらジジイにしがみつくしかなかった。

 結局、俺はジジイの胸の中で、何も言えなかった。次の朝、いざバラティエを去るというときも、俺は何もできなかった。俺の新しい仲間たちの船から、ぐんぐん遠ざかるバラティエを見ても、俺は何も感じなかった。くそジジイが俺のこと、なんとも思ってないとはっきりわかっても、悲しくなんてなかった。
 だけど、その夜、俺は布団の中で一人泣いた。死んでも思い出さないと誓ったくそジジイの顔ばかりを懐かしく思い描きながら。

モドル