モドル

 
■過去の形見 テリウスとクリストフ


 クリストフの旗艦は、雲に黒々と影を落として進む。雲は後ろへと流されていくのに、月だけは未練たらしく追いかけてくる。妙に生々しい色をした月は、まるで女のようだ。つれない恋人を諦めきれず、ひたすら執着し続ける。それが更に相手の心を遠ざけるとわかっているだろうに。恋々とそれだけを追い求めているような。テリウスが見ていた月はそんな三日月だった。
―こんなにお月様を間近でみるなんて初めてだなあ。
 庶子とはいえ、一応王位継承権を持っていたテリウスが王宮をでる機会は殆どない。ましてや、ラングランの外に出るなんてことはありうべからざることだった。おかげで見る物全てが初めてで、いささか興奮気味だ。部屋に引っ込むなんて勿体なくてできやしない。
―これが,ただの旅行ならよかったんだけど。
 あれだけドハデに出奔したのである。ラングランの要人等の眼前で、背教者についていくわ、王位継承権を投げ出すわ、自分が立ち去った後がどうなったかなんて、出来れば考えたくもない。だけど、不思議と後悔はないのだ。あの王宮で、カークスの思惑通りの傀儡国王になるのだけは、死んでもイヤだった。好きで王族に生まれたわけでもないし、王族の地位に未練もない。ならば、彼がそれを捨て去ることに抵抗があるはずもない。問題があるとすれば、破壊神の使徒の元へ走ったということで・・・。
―クリストフ・・・。
 冷静沈着で、眉目秀麗で、才気煥発で、おおよそテリウスが知りうる誰よりも優れていた、従兄。その彼が背教者になる理由が、どうしても分からない。ましてや、ラングランの王宮を破壊したのが彼だなんて思いたくもなかった。あの時の事件で、国王を含む多くの廷臣たち、テリウスの母もその時亡くなっている。
 不意に、胸の奥が痛む。
 セニア姉さんもモニカ姉さんも偶然に無事だった。でも、もしかしたら、死んでいたかもしれない。テリウス自身だってそうだ。あの混乱の中で、のたれ死にしていても決して不思議ではない。
 これは、テリウスにとって一番考えたくないことなのだけれど。クリストフは、そうなってもいいと思っていたんじゃないだろうか?
 滴らんばかりに濡れている月から、テリウスは目をそらした。クリストフにとって、自分はたいした存在ではない、という想像が何故かひどく苦痛だった。
 あのとき、クリストフに一緒に来いと誘われて嬉しくも誇らしかった気持ちは、あっという間に霧散する。
−でも、きっとあそこであのまま、ただ誰かの言いなりになっているよりは、マシだよね。
 少なくとも、自分がここにいることは、誰かに言われたからじゃない。クリストフについていこうと決めたのは、誰でもないテリウス自身の意思だ。そして、これからはずっと自由に生きることが出来るのだ。クリストフのように。
楽天的に結論づいたところで、テリウスは考えるのをやめた。考えたって仕方がないし、そろそろ眠気もやってきた。夜景だって、これからはいつだってみられる。クリストフのことだって、これからゆっくり知ればいいのだ。何せ、これからテリウスはずっとクリストフの傍にいようと決めている。
「もう、寝ようかな・・。」
「まだ部屋に帰ってなかったのですか?」
 人の気配に気づかぬほどに考え込んでいたつもりはなかったのに。部屋に戻ろうと、振り向いた目の前にクリストフがいた。
「うわ?クリストフ?!」
 噂をすればなんとやら、ではないけれど、さすがにこのタイミングでクリストフと出会うのは心臓に悪い。狼狽するテリウスに、ククッと人の悪い笑い声を聞かせて、
「どうしたんです、こんな夜更けに。子供はもう寝る時間ですよ?」
「・・・子供じゃない。僕はもう17才になってるんだから。」
 いささか憮然としてテリウスは答えた。むっとして見せたのは、不意をつかれて驚いたのを隠すためもある。
「おやおや、もうそんな年になってましたっけ・・・。」
 クリストフは父親のような感慨を口にした。彼とテリウスの年齢差は七つしかないのに。
「私がラングランを出たときは、あんなに小さかったのに。」
 髪型も前とは違いますね?と、クリストフの指がテリウスの髪を梳く。その拍子にテリウスの前髪が落ちてきた。そうすると、テリウスは幾分か幼く見える。実際、子ども扱いされるのを嫌って、今の髪型にしたようなものだったので、テリウスの機嫌は、更に悪くなった。
「・・・」
「こうやってみると、あまり変わってないですよ。」
 笑い声を聞かされて、やっとテリウスはからかわれていることに気づいた。クリストフのそんな意地の悪さも、笑顔も声も、テリウスが知っていた彼と何も変わらないのに。どうして、彼が背教者なんだろう?ラングランの王都を破壊し、邪神の復活を画策する従兄がどうしたってテリウスには理解できそうにない。
−今のクリストフなら・・・。
 今なら聞けるような気がする。
「ねえ、クリストフ・・・」
「なんです?従弟殿?」
「邪神を復活させて、どうするの?」
「邪神の力で、私が世界に君臨するんですよ。」
 おおよそ現実離れた言葉を平然と吐く。クリストフはこんなところもちっとも変わってはいない。小さな子供じゃあるまいし、そんな絵空事を鵜呑みにするような年は、とっくにすぎてしまった。もうテリウスは何も知らない子供ではないのだ。それに、
−クリストフはまた嘘をついてる。
 それはテリウスの中で、殆ど確信に近い。
「嘘だ。そんなこと、クリストフがやりたいことじゃないんだろう?」
 世界征服?そんな馬鹿みたいなこと、テリウスが知っているクリストフならきっと鼻で笑い飛ばすはずだ。
「本当は違うんだろう?クリストフの行きたいところは、そんなところじゃなくて・・・だって、クリストフはいつか言ってたじゃないか。誰よりも自由でありたいって。自分が自分であるために、そのための力が欲しいって。僕にはあのとき、クリストフの言っている言葉がよくわからなかったけど。でも、それは世界征服とかそういうんじゃないってことくらいはわかるんだ。クリストフの…」
「テリウス。」
 呼びかける声のあまりの冷たさに、テリウスは次の言葉をなくした。目の前でクリストフが笑っている。先ほどと変わらぬ笑顔。それなのに、そのはずなのに。足が竦んで動けない。身動き一つも許さぬ圧迫感。それが殺気というものだと、テリウスはまだ知らなかった。
 まるきり見知らぬ青年が、彼の顔に手を伸ばす。
「あなたは、私のことを今でも”クリストフ”と呼ぶんですね。」
 両頬におかれた手も声音と同じく、体温を感じさせぬほどに冷たかった。テリウスの怯えた顔を見ても、それでもやはり笑顔のままのクリストフが怖い。感情を全く感じさせないクリストフの声が恐ろしい。
「遠い昔に私が捨ててしまったその名前。偽りと蔑み、絶望と憎しみのなかで私に与えられたその名前。私が、もっとも捨ててしまいたい私だったときの名前を、まるであなたはそれこそが私自身だと言わんばかりに呼ぶのですね。」
 クリストフに頬を捕まえられたまま、テリウスはじりじりと後退した。クリストフの言っていることの意味は、彼には半分もわからない。だって、テリウスは”白河愁”という存在を知らない。テリウスの知っているクリストフは一人しかいない。テリウスの好きなクリストフはその人だけだったから。まさか、そのことがクリストフを怒らせているとは露も思わぬ彼なのだ。
 踵が壁にぶつかれば、もう逃げ場がない。背中が壁に押しつけられて、クリストフの顔がテリウスに寄せられた。
「あなたが知っているクリストフは、とっくの昔に、地上で死んだのですよ。」
 額と額が触れ合う。傍目から見れば、恋人同士の行為にも見えるほど、二人は近い。クリストフの囁きは睦言のように甘く、その微笑みは愛情に満ちているようだ。だけど、目は少しも笑っていない。クリストフの瞳のなか、濡れた月がちらちらと邪悪に閃く。
「あなたの従兄は、もうどこにもいません。」
「・・・嘘だ。」
 じゃあ、目の前にいるクリストフは誰だと?その容姿もしぐさも、テリウスが覚えている彼そのもの。そんなことが信じられるわけがない。
「嘘だ、クリストフが死んだなんて、嘘だ。僕はそんなこと信じない。」
「それじゃあ、信じさせてあげましょうか。」
 その言葉と一緒に、クリストフの体が更にテリウスにのしかかる。彼の膝がテリウスの太股を割入り、胸がぴたりと押しつけられた。鼓動が混じりあって、テリウスの中で脈打つ。手の感触からは想像できないほどに、クリストフの体は熱かった。
ーそれとも、これは・・・?
 クリストフの唇が、己のそれに重なる。呼吸が彼に奪われる。
「・・・あなたの好きなクリストフは、こんなことはしないでしょう?」
 いったん離れたクリストフのそれが、また元の場所に戻ってくる。口腔を浸食する舌と、何度となくすりつけられる腰の動き。その行為の先に待つのが何か、テリウスは確かに知っている。それに思い当たった途端に思考が焼きついた。まるで他人のものみたいになった体はクリストフの元で震え戦きながらも、確かに青年を受け入れて、彼の背中にすがりつく。クリストフがかすかに笑ったような気がしたが、もうテリウスの知ったことではなかった。


 クリストフの情熱的なキスも、離れるときはあっという間だった。目の前に、いつものクリストフの笑顔があって、それに何となく安心させられて。ぱちぱちと瞬きをした途端に、涙が転がり落ちた。何故、涙が出るのか、テリウスにもよくわからないのだ。わからないのに、涙だけは後から後からこぼれ落ちる。泣きやまない自分にクリストフが困っているのがわかった。クリストフが悪いんじゃない、だけど、涙が止まらない。
「テリウス?」
 困った顔をしたクリストフが、小さく笑ってテリウスにまたキスをした。
「もうしないから、いい加減、泣きやみなさい。」
 泣きやまないと、もう一回しますよ、と両手でテリウスの頬を手挟む。
 ああ、とテリウスは思う。これはいつものクリストフだ、と。だけど、一体どこまでが自分の知っている彼なんだろう。いや、そもそも、彼のことをどれだけ知っていたっていうんだろう。これからは、ずっとクリストフの傍にいようと決めて選んだこの場所。果たして、その選択は正しかった?
 ずっと憧れていた青年の、その冷たい手の中で、テリウスの戸惑いは続く。しかし、彼の行き場は、もうここしかありはしないのだ。

※SRWのテリウス王子は、私の好きキャラの一人なのですが…
かなりマイナーで切ない…。自己満足やね…。寂しいなあ。

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