モドル

■Happening

 おや、何か変だ、とササライは思った。
 見慣れた執務室は、昨日あれだけ自分が散らかしたにも関わらず、整然と片づいている。窓から注ぐ陽光も、五月の色をして床に注いでいた。今日もいい天気になりそうだ。仕事日和といえるだろう、とても気持ちがよい。
 ササライにとっての、いつもの朝の光景。しかし、何かが足りないような気がする。
 なんだろう?そうササライが首を傾げたちょうどそのとき。
「も、申し訳ございません!遅刻いたしました!!」
 慌てて部屋に飛び込んできた男が一人。走り詰めだったらしく、すっかり息を切らしているササライの参謀役。ディオスはササライの姿を認めるなり、深々と頭を下げた。
 そうだった。足りないもの。それはいつも部屋で自分を待っているディオスだったのだ。
「珍しいね、お前が遅刻するなんて。」
 ササライの言葉に、更にディオスの頭が下がった。その拍子に彼の帽子が転がり落ちる。足下近くに転がってきた帽子を、ササライがつま先で捕まえたのは意識した行動ではなかった。
「そ…その…いえ…少々個人的事情でありまして…。」
 襟は曲がっているし、袖口も歪んでいるようだ。飾りひもやブーツの乱れっぷりときたら。…細かい部分は数え上げたらキリがない。円の神殿の廊下を、彼はこの格好で走ってきたのだろうか。
 誰かに見られていたら、また何かつまらないことを言い出してくる輩がでてくるかもしれないな、とふと考える。
 いつぞやのササライとディオスの個人行動は、ほかの神官将たちに快く思われていないことを知っていたし。真の紋章を入手する、という使命を果たせなかった手前、大人しく、目立たぬように状況をうかがった方がよいことは確かなのだ。
 とはいうものの、ディオスの崩れた格好をみていると、説教する気も失せてしまった。
 ようように呼吸を整えたディオスが、ようやく顔を上げる。

 そんなに一生懸命走ってこなくてもよかったのに。今日は特別の日じゃあないんだから。ちょっとくらい遅れたって、自分が気にしないことくらいディオスには判ってるだろうに。

(頭は切れる癖に、ヘンなところで真面目だよ、ディオスは。)

 だけど、そんな副官を彼はかなり気に入っているのだ。

 足下の帽子を拾い上げ、ディオスに近づくと、生真面目な彼はまたもや動揺する。
「あ、ササライ様!そんな勿体ない!」
「何が”勿体ない”だ。帽子を拾ったくらいで。」
 ちょっと屈んでくれ、との指示に素直に従うディオスの頭に、帽子をかぶせてやった。
 ディオスは彼よりもほんの5センチほど上背がある。屈んでもらえば、ちょうど目線が交わる位置になった。
 ササライの視線を受けて、ディオスは落ち着かなさげに目を瞬かせる。
「さ、ササライ様?」
「ん?」
 近すぎる距離に戸惑っているのが手に取るように判るから、余計にからかってやりたくなるのだ。
「あの…その…もう少し離れていただけると…。」
「まだ襟も直ってないし。紐も解けているんだけどね、ディオス。」
 襟刳りに手を伸ばすと、気の毒な副官の体が目に見えて固くなった。
笑いの衝動を堪えながら、襟を整えてやる。楽しい時間を少しでも長引かせたくて、殊更に丁寧に手を動かした。
 と、明後日の方向へと視線を彷徨わせていたディオスの顔が、不意に真顔になる。終始笑顔のササライとは対照的だ。
「ササライ様、もしかしてわざとやっていらっしゃるんですね?」
「勿論。」
 でも、と、言葉を続ける。
「お前が絶対にこういうのがイヤだというのなら、もうしない。」
「………………。」
 こんな言い方をすれば、彼の性格上、断りにくくなるのを承知で。なりは青年でも、ササライはハルモニアの神官将。こういった言葉の技も、神殿では必要なのだ。
「…わかりました。」
 どうやっても、結局、ディオスはササライのことを拒めない。お互いにそれを知っている。だから、ディオスの答えも決まってしまっているのだ。
「もう二度と、遅刻はいたしません。」
 あまりにも想像通りの言葉を吐き出すディオスの胸に顔を埋めて、とうとうササライは笑い出した。



(2002/11/17)


※ 参謀をからかうのを楽しむササライと、それを判ってても相手を嫌えない副官と。二人の関係はこんな感じではないかと。
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