■空理空論
白狼軍。ハイランドにとって、それは絶対の存在であり、白狼軍と勝ち戦とはほとんど同義で使われる。特に、現皇太子ルカ。彼が白狼軍を率いるようになってからの、その強さは凶悪な色を帯びていた。かの軍が通った後には破壊と死のみが残されるだの、白狼軍の兵士は斬られても立ち上がるだの、ハイランドの第一軍の噂は、まるでくだらないホラーストーリーだ。だが、ハイランド国民にしてみれば、ルカの強さは誇りであり、憧れである。
神聖ハルモニア王国より、獣の紋章を授かったハイランドは、元来尚武の国であった。策によって敵を攻略することよりも、剣を交えて敵を倒すことに価値を置くお国柄なのである。なればこそ、ルカの鬼神にも似た強さは、ハイランドにとっては最尊なのだ。この、”強さ”を尊ぶこと、ハイランド人ならば多かれ少なかれその信奉者であり、無敗の皇子はハイランドの誇りとなる。そしてまた,皇子の神話に栄光の一ページが加えられたその夜。
勝利の宴もそのたけなわを過ぎ、戦勝の喜びに浮かれた人々もそろそろ眠りにつこうかという時間。浮ついた空気に似合わない、硬い表情で廊下をゆく青年がいる。すれ違う人々の大半が多少なりとも酒気を帯びている中、彼の様子はある意味異様だった。親の仇でもうちにいきそうな顔をしたその青年,クラウスは足早に皇宮の奥へと向かう。
やがてたどり着いた目的の部屋の前で,ほんの一瞬躊躇したクラウスは,次の瞬間、ノックもしないで,ドアの隙間から体だけを滑り込ませた。
「遅くなりまして、申し訳ありません。」
机におかれた何かに目を通していたらしい男が振り返る。鎧と剣を取った以外は、戦場から戻ったきりの格好のルカがいた。先ほどの宴の名残など微塵も残っていないようだ。クラウスを認めると、ルカは「ああ。」と頷いたものの、それきりまた机に向き直ってしまった。
自分は夜の相手として呼ばれたのではなかったのだろうか。ルカの態度に虚をつかれたクラウスだが、だからといってこのまま帰るわけにも行かず、彼の傍に近づく。ルカの書見姿なんて滅多に見られない光景だ。それに、根っからの武人であるルカを惹きつける書物にも興味がある。
クラウスはルカの手元をのぞき込んだ。
「あ…。」
「何をしてると思っていたんだ?」
またしても予想を裏切られたクラウスに、ルカの冷笑が降りかかった。皇子の手元にあるもの、それは一枚の地図だった。
北に神聖ハルモニア帝国、南にトラン共和国、西に都市同盟とグラスランド、東には辺境諸国。ハイランドで広く流通している、ハイランドを中心とした周辺地図だ。厚めの羊皮紙に書かれたそれは、ルカと一緒に長く戦場を渡ってきたものらしく、端々が擦り切れ始めていた。
武将が地図を眺める理由には、血生臭さが付きまとう。それがルカなら、尚更だ。
「次はどこを攻められるおつもりなのですか?」
都市同盟との和議もようよう成ろうとしているこのときに。しかも、ルカは国境付近での戦闘から戻ったばかりではないか。クラウスとて軍人であるから、平和主義者を気取るつもりは更々ないが、刃を交えずして勝利を得ることこそ、兵法の上策という。戦のための戦など、本末転倒も甚だしい、とクラウスは思っていた。誰も傷つかずに勝利が得られるなら、その為に最大限努力するべきだ、とも思う。だが、実のところ、この考え方そのものが、自分をルカから遠いものにしているのことに未だ彼自身理解していない。
そんなクラウスの胸中にルカが気づかぬ訳もないだろうが、彼は黙って地図のある一点をクラウスに指し示した。
ハイランドの西に国境を接する、広い大地。ルカが指し示したのは、
「・・・・都市同盟。」
何を考えているのか、全くわからなかった。都市同盟との休戦協定はほぼ決定しているのだ。アガレス皇帝と、都市同盟の新しい指導者達の尽力によって、ようよう実をむすびつつある休戦協定をルカ皇子が快く思っていないのは知っていた。しかし。
「冗談に決まっているだろう。」
ばさっ。
払いのけるようにして、ルカは地図の表を閉じてしまった。
「こんな状態で、俺が都市同盟に戦争をしかけてみろ。世の中は一斉にハイランドを非難するだろう。そればかりか、信じてもいない大儀だの正義だのを振りかざして、漁夫の利をねらわんとする馬鹿な国が出てきても仕方がない。俺は敵をおそれんが、馬鹿をつけあがらせるのもごめんだ。」
「・・・・・・・・・。」
「なんだ。何かいいたそうだな?」
たとえ、百の戦場を経験したとしても、ルカ皇子は生き残るだろう。だが、他の兵士は?兄弟を、夫を、父親を奪われた民達は?
ルカは戦さをなんと思っているのだろうか。
「私は…。」
「人が死ぬのを見るのが嫌だ、とか?」
見事に見透かされて、せせら笑いで返される。
「ハイランドの権門、ウィンダミア家の跡取息子、誉れ高きキバ将軍の息子ともあろう者が、まさかそんなことは言わんだろう?」
その言葉に、クラウスはどうしようもない悲哀を感じる。愚かさゆえの仕儀なら、まだ救いがあった。
「…長すぎる戦で我が国も都市同盟も疲弊しきっていて、このままいけば共倒れの道しかないのが判っているから、皇帝陛下は和議の道を求められたのではないのですか?」
山峡に位置するハイランドには、戦に不可欠な地の利がなく。自治都市の集合体である都市同盟には、人の和がない。それゆえお互いに決定的な勝利を得ることが出来ずに、じわじわと国力をすり減らしながら、不毛な戦いを続けるしかなかった。
だが、それもそろそろ限界だろう、とクラウスは考える。
例えば、都市同盟。ハイランドの脅威にさらされ、直接の利害関係を持つのは、実のところ、マチルダ騎士団とミューズ市のみ。ハイランドを敵視していたミューズの前市長ダレルにより、都市同盟は何度となくハイランドと剣を交えたが、目に見えた結果を得ることなく市長は亡くなった。その娘が市長の座を引き継いだと言うが、戦で国力をすり減らしたミューズは、都市同盟盟主たる地位を揺るがせているときく。
当然の話だった。南にトラン共和国、西にグラスランドを接する都市同盟なれば、敵はハイランドのみではない。サウスウィンドウと権益を争う、赤月帝国を倒したトラン共和国の勢いは無視できるものでなく、またグラスランドの一勢力たる草原の民の勇猛は、ティントの国境をしばしば脅かしている。同盟都市の立場を省みず、戦へと走った前ミューズ市長の政策は、都市同盟の結束にひびを入れた。後継者たるダレルの娘は、それを理解しているはずだ。
そして。
例えば、ハイランドにおける20〜30代の男性人口の減少。さらには職業軍人と兵役は半々の割合でハイランド軍を構成するが、兵役を労働者が果たす間は、その労働者の担う産業は当然停滞する。勝利を重ねているうちはいいが、戦線が膠着すれば…ましてや、もう十数年来の長きに渡り、ハイランドは戦時下にあった。
爆弾をかかえたまま戦い続け、両国自滅するよりは、と皇帝が選んだ道は正しい、と思う。ミューズとの長い軋轢を知っているからこそ、クラウスはアガレスが和平を選ぶ皇帝であったことを何よりも誇りに思っている。
民あっての国であり、王なのだ。その逆はあり得ない。
「今のままでは、ハイランドは一年も兵站を支えきれないでしょう。」
「おまえは…。」
クラウスの顔を見つめてのルカの声音は、怒っているというより呆れ返っていた。
「今の言葉が俺の寵をかさにきたものだったら、おまえの首は即刻胴体から離れているぞ。」
わかっています、とのクラウスの返事に、皇子はますます微妙な表情になる。
本当のところ、クラウスは命が惜しいなどと考えたことはないのだ。できるなら戦場での死を望んでいるが、諫言の結果、死を賜ったというのなら、父もわかってくれると思う。死ぬ瞬間でも、誇りを失わないだろうという自信はあった。それは、間違ったことはしていないとなによりクラウス自身が信じているから。
「まあ、いい。怯えぬ相手を殺してもつまらん。」
「ありがとうございま…っ!?」
律儀にそばで頭を下げたクラウスを、ルカは片手で引き寄せた。挑戦的な視線と、血の臭いがいっそう強くなる。乱暴な口付けは、触れたと思った瞬間に離れていった。
「……!」
「おまえには、やはりこっちの方が効き目があるようだ。」
すべてを見透かされているような視線に耐えきれず俯くクラウスをおいて、ルカは再度地図を広げた。
「無礼な物言いを自覚しているのなら、献策の一つや二つしてみせろ。」
「都市同盟を相手にした、ですか?」
「なんでもいい。”人殺し”が嫌いなら、それなしで奪える方法を言ってみるがいい。勿論、”休戦協定”に抵触しないやつをな。」
”どうせ、できないだろうが。”
言外にそういっているのは明らかなのだ。クラウスは、自分が乗せられかかってるのが判っていた。しかも、かなり不利な条件で。
でも。
乗せられてみるのもいいかもしれない。一矢報いるチャンス。だとすれば、こんな機会は滅多にない。
挑発的な笑みを浮かべ、地図へと視線を流す。剣を交えずに、国を得る方法。軍議の席では口を出せないが、クラウスとて心中思うところがある。ルカの視線を感じつつ、クラウスはゆっくりと口を開いた。
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