■大人のやりかた
ビュッデヒュッケに、今日も優しい夜が訪れる。もうすっかり夜も更けて、城の廊下ですれ違う者殆どいない。静寂を乱しているものといえば、酒場の明かりと喧噪と。こちらはまだまだお開きの時間にはほど遠かった。時折、わき起こる笑い声の方角に、ちらと視線を走らせたが、軍曹は何もいわずに階段を上る。酒が必要なときが、誰にだってある。勿論、軍曹だってそうだった。酒を否定するわけではない。
−酒が駄目なわけじゃない。
酔っぱらいのがなり声に、一瞬足を止めかけた彼だったが、結局嘴を歪めただけだった。
−俺は、子供に酒を飲ませるのに反対なんだ。そうでなけりゃ、俺だって別に…。
ヒューゴにブランデーを飲ませた酔っぱらいどもと、彼が乱闘寸前までやらかしたのはつい先日のことだ。酒場でつぶれていたヒューゴを見つけて、柄にもなく声を荒げてしまったのは、後から思えば失敗だった。あのとき、ジンバに止められなかったら、怪我人は一人や二人ですまなかったに違いない。あのときから、酒場に足を向けるのが躊躇われる。
お気楽極楽な酒場の住人たちを思い浮かべつつ、軍曹はゆっくりと階段を上る。眠る前にヒューゴの様子を見に行くのは、カラヤクランの時から、もう十数年来の習慣だった。
交易品の荷下ろしに思いの外、時間をとられてしまったから、戻るのがこんな時間になってしまった。ヒューゴはもう寝ているだろうか。
灯りの消えた部屋の中をそっと窺うと、間を入れずに
「軍曹?」
向こうからヒューゴの声がかかった。
「ああ。」
「おかえり。」
「ただいま、ヒューゴ。…こんな時間まで起きていたのか?」
声が聞けて嬉しい反面、こんな時間まで起きているなんて…と思いもする。保護者の心境は、いつだって微妙に複雑だ。
「うん、軍曹を待ってたんだ。」
「明日起きられなくても知らないぞ、俺は。」
布団にくるまって、こちらに笑いかけるヒューゴの顔は年相応の子供のものだから、軍曹は何故だか安心するのだ。
生まれたときからずっと彼のことを見守ってきた十四年間。初めて軍曹の名前を呼んでくれたことも、フーバーを見つけてきたときのことも、軍曹にとってはまるで昨日のことのようなのに。背丈が軍曹を追い越して、剣を交えたら5本に3本は取られるようになって、嬉しいのに、それなのに寂しい、理解不能な気持ちが形をとり始めているというのに。それでも、ヒューゴの笑顔だけは変わらない。英雄の志を継いだ今でも。
ベッドに歩み寄って端っこに座った軍曹に、ヒューゴが毛布を投げかけた。人肌にぬくもった毛布が有り難い。5月とはいえ、やはり日が落ちれば寒さが身にこたえる。
「ねえ…なんかさ、軍曹。」
「ん?」
「…最近いつも帰ってくるの遅いね、やっぱり忙しい?」
「…いや、忙しい…わけでもないけどな。」
歯切れの悪い言い方になってしまうのは、どうしようもなかった。一体、ヒューゴにどう説明すればいいのだろう。戦費の捻出のために、交易に人員をさかなければやっていけないなんてことを。
元々貧乏城だったビュデヒュッケに、今回の騒ぎで多くの人員が流れ込んだのだ。シックスクランの民、ゼクセン騎士団たち、そして、今度はハルモニアの神官将の一行。集まってきた人たちを養わないわけにはいかないし、そのためには、まず先立つものが必要だった。
戦時下の土地を縫って、交易に出るにはそれなりの戦闘能力がいる。軍曹にも仕事が回ってきたのはそのためだ。多くの人のためになるいい仕事だとは思うが、こう連日だとさすがの軍曹も少々へこたれ気味だった。だけど、それをヒューゴにいえるわけがない。
黙り込んでしまった軍曹に、ヒューゴはなおも言い募る。
「でも、軍曹、最近いつも疲れた顔してるよ。」
「そうか?そうでもないんだが。」
「……でも、ちょっとは疲れてるんだね?」
「そりゃまあ。」
”ちょっと”は疲れている。当然だ。
振り返れば、養い子はいつになく真剣な顔をしている。
「軍曹。俺、軍曹が疲れた顔してるのをみるのなんかイヤだ。軍曹はいつも、”大丈夫だ、心配するな”っていうけどさ。それって、俺を子供扱いしてるだけだろ?」
まさしくその通りなので、軍曹にしてみれば何もいうことはない。今も、この一瞬も、自分はきっとそういう眼でヒューゴをみている。英雄の彼ではなくて、初めて腕に預かったときの、小さなヒューゴ、そんな風にどこかでそうみている。
「ねえ、軍曹、俺にもできることないの?みんなが大変なの、俺だって知ってる。俺も何か手伝わせてよ。軍曹の手伝い、俺にできないの?手伝いたいんだよ、ねえ。」
「……。」
無理だ。そんな軽々しくできるわけがない。炎の英雄は炎の運び手の盟主として、なにより大切な存在なのだ。もう、ヒューゴはカラヤの少年じゃあない。
「軍曹。」
「もう寝ろ。俺も休む。明日も早いからな。」
「………軍曹…。」
「お休み。」
明日はチシャクラン。明後日はカレリア。忙しい日は、まだまだ終わらない。
いつものようにヒューゴの頭を撫で、軍曹はベッドから降りた。降りた、はずだった。
「…って…ぐわっ!?」
視界がでんぐり返る。床に降りたつもりが、何故に自分はベッドに転がっているのだろうか。現状が把握できない。真っ暗な天井を背景に、ヒューゴが軍曹を覗き込んでいた。その顔は、今まで
見たことがないほど怖いもので。身を起こそうとしてもできないのは、彼が自分にのし掛かっているからだということに軍曹が気がつくのに、十数秒かかった。力は断然軍曹の方が強いはずなのに、いつの間にか両羽の付け根を押さえつけられていて、身動きがとれないのだ。この体勢を逆転することは、ダッククランの民の体型的特徴からすると、とても難しい。それを承知してのヒューゴの行動だとすると…。すると?そうすると、これは一体なんなのだ?
「……ひゅ、ひゅうご…?」
「どうしたって、軍曹は俺に手伝わせてくれるつもりはないんだろ。」
それはそうだとしても、それとこの状態とは、いったい何の関係が?
「だから…せめて”よっきゅうふまん”を解消して、”いのちのせんたく”をしてもらうんだ。”おとなのなぐさめかた”くらい、俺にだってできるんだから。」
”俺だって、恥ずかしいけど…”と、夜目にも朱色に染まるヒューゴの頬を見つめる軍曹は、ようやく最初の衝撃から立ち直りつつあった。つまり、ヒューゴのいっていることは、あれだ。つまり…その…。
………。
一瞬の間の後、軍曹は猛烈に手足をばたつかせた。洒落にならない事態にようやく気がついたのだ。事もあろうに、自分の養い子に押し倒されて抵抗できないなんて、何かの間違いに決まっている。だが、すぐに暴れても無駄だと気がつく。武術も、体術も、手ほどきしたのは自分だ。そして、ヒューゴは優秀な生徒だった。
「ま、待て!ヒューゴ、ちょっと待て。な、なあ、一度話し合おう?”いきなり”はルール違反だ、ちゃんとムードと手順を…いや、手順を踏んだからいいってもんじゃないが、お前はまだ子供だから、こんなやり方しなくてももっと他に…。」
「軍曹はきっとそういうだろうけど、それは照れているだけだから気にするな、ってナッシュさんはいってた。」
至極真剣なヒューゴの答えに、ガツンと頭を殴られたように思う軍曹だ。今更気がついても遅いが、ヒューゴをそそのかして軍曹を引っかけた奴らの顔が頭の中で流れさる。つまりは酒場での喧嘩の意趣返しなのだ。
畜生、あのハルモニアの極楽鳥野郎、こんなことなら手加減せずにあばらの一二本は折ってやるべきだった。ジンバの制止なんぞ、無視しときゃあよかった。俺のヒューゴの余計なことを吹き込みやがって、今度会ったら、ダックをなめたことを死ぬほど後悔させてやる。
復讐を誓う軍曹は、半ば絶望的にそう思う。
「軍曹…大好き。」
ああ、俺も好きだよ、と答えた。じゃなきゃ、14年間も一緒にいられるわけがない。だからといって、こんな形を望んでいたわけじじゃなかった。性教育もしつけの中に入れておくべきだった、などと今更考えてしまう自分が恨めしい。もうこうなったら、行き着くとこまで行くしかない。緑の瞳がどんどん近づいてくるのを強ばった嘴で迎えながら、もうやけくそとばかりに軍曹は…。
夜は長かった。今夜は、特に。
■□■□
「うまくいったみたいだなあ、おい。」
「当然、俺の教育は完璧だ。」
「ちぇ、自分だけいい思いしてよ。」
「考えたもん勝ちさ。」
今夜も今夜とて、酒場にいつもの面々が集う。ナッシュにエース、常連たち全員の顔がみえる。何もなくても酒は美味い。が、計画の成功を祝って飲む酒はまた格別だった。
ある意味、世間知らずなヒューゴを口車に乗せるのはハルモニア人のナッシュにとっては赤子の手をひねるよりも簡単だった。草原の民は人を疑うことを知らないのかと思うほどに素直なヒューゴに、良心の痛みを感じなくもなかったが。
ああいう風に育てたのが、間違いだとはナッシュは思わない。だが、それを利用することを躊躇いもしない。純粋さは毒にも薬にもなりうること、それをあの男は知っているはずだ。
「…大切にしすぎだな、あれは。」
今夜の酒は辺境諸国のものだ。透き通る金の中に、氷がちりりと歌う。いい酒だ。ナッシュとしても、勝利の美酒に相応しい。あの口うるさい軍人アヒルに一泡吹かせてやったのも気持ちいいが、幼い恋心の手助けをしてやれたことも、酒に一層味を加えてくれた。実際、感謝されてもいいくらいだ。キューピッドなんて柄にもない役を引き受けてやったんだから。
美味しい酒は、いくらでも飲める。飲めばグラスはあっという間に空になるのだ。
「よーし、今夜は俺のおごりだ!小さな炎の英雄殿に乾杯〜〜!」
おおおーーーーーっ。
ナッシュの言葉に一気に盛り上がる酒場。夜は始まったばかり。今が楽しければそれでいい、明日のことは明日に考えればいいじゃないか。
明日、”おとなのやりかた”で”よっきゅうふまん”を解消して貰った軍曹が、リターンマッチを仕掛けてくるのは火を見るよりも明らかだ。怒りに燃えたダックとの喧嘩、今度こそ骨の一本や二本は覚悟しなければなるまい。だけど、それもみんな明日の話。
酒場の夜は、まだまだこれからだ。
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