■夢の色
クラウスが倒れた、という知らせを聞いた時、シュウは少しも不思議には思わなかったのだ。元々、クラウスは体の丈夫なほうではない。本拠地での文官の不足によって、数少ない事務員たちには重い負担がのしかかっていたのに加え、このところ戦は連続していた。更には、ティントで仲間に加わったシエラという女性が、クラウスのベッドを奪ってしまったと聞く。過労に、睡眠不足。これでは倒れない方がどうかしている。
見舞いに行くほど暇ではない。だが、医療室に用事があった。ホウアンへの用事のついでに、ベッドに横たわるクラウスを覗き込む。血の気の失せた唇が薄く開き、呼吸を繰り返すさまは、いつにもましてクラウスをか弱く見せている。武人の家に生まれながら、体の丈夫な方ではなく、幼い頃は病気がちでキバを心配させてばかりだったと、彼が誰かに話しているのを小耳に挟んだことがあったのを、シュウは思い出していた。しかし、自分の前ではそんなことはおくびにも出さなかったのだ、この青年は。言い付けた仕事を真夜中までかかって片付けているクラウスの姿や、一見理不尽ともとれる命令を、笑顔で受けていた彼の顔が目に浮かぶ。
「女性にベッドを貸して、寝不足…か。」
馬鹿げた理由だ。軍師たる者が、己の限界を読めずして、どうして人を読めようか?
クラウスの汗ばんだ額に手を置くと、湿った温もりが伝わってくる。
軍師にしておくには、と思う。人を読み、時には自分すらも煙にまく立場に置いておくには。この青年はあまりにも一途で純粋過ぎるのかもしれない。そして、純粋であるということは、シュウにとっては脆いということと同じことだ。優しさだけでは生きてはいけない。ましてや、ここは戦場である。生き残る為には、他人のことを考える余裕などないはずだ。
眠るクラウスが微笑んだような気がして、シュウは思わず手を引っ込めた。クラウスの様子を確かめながら、薄く朱に染まった頬に指を添える。
綺麗ごとをいくら並べても、結局は強い者が最後には勝利するのだ。それは、今までの歴史が証明しているではないか。だから、この青年のやり方は間違っているはずだ。私は間違っていない。ならば、この思いはなんだろう?
ため息が零れ落ちた。青年の眠りを覚まさぬよう、密やかに。
けれども、かつては自分もそうありたいと思っていた。誰も傷つけずに、誰も犠牲にせずに、そんな夢を追っていた時もあったのだ。それが不可能だと分かったのは、何時だったろうか?いつしか己の勝利の為に、自分が忌み嫌っているはずだった方法を取るようになった。身を守らねば、自分がやられるということを言い訳にして。ならば、結局は自分もまた薄汚れた人間だ。クラウスを見るたびに、それを思い知らされる。彼にそのつもりはないと分かっていても、まるで己を責めたてられているような気分になる。息苦しくて、つい辛くあたってしまう。それによって生じる罪悪感に、また、追い詰められる。断ちきる事の出来ない悪循環に、シュウ自身がどうにかなってしまいそうだ。
決して、自分はこの青年を嫌いではない。むしろ好きだ。人の痛みの分からぬ人間など、いくら知略に優れていようとも、軍師としては失格だとシュウは思っている。策を考えるのは軍師でも、動かすのは木石ではないのだ。命を軽んじる者に、人を動かす資格はないのだから。
窓外をよぎる雲が、医療室に影をおとした。それで、シュウも我にかえる。
どれくらいここでぼんやりとしていたことか。ホウアンは偶々留守だったからよかったものの、もし彼がいたら余計な勘繰りをされかねない。
そこまで思って、自分の想像に失笑した。余計な勘ぐり…それこそホウアンのような人物には無縁なものだ。そういった下世話な方向に思考をもっていくのは自分くらいなものだろう。
クラウスはまだ眠っている。この様子だと多少のことでは目を覚まさないように思えた。
「クラウス…?」
何時醒めるとも知れぬ眠りの中をさまよう、青年の唇に試みに自分のそれをそっと触れさせる。
目を覚まして、そして、私だけを見てはくれないだろうか。そんな陳腐な思いが泡のように浮かんで消えた。
本当は分かっている。クラウスと自分の道は、いつか必ず違う方向へと分かれる。そして、己の望んだものを手に入れる可能性を持っているのは、自分ではないという事も。
それでもいい、と。己が祭り上げた若き主と、優しい目をした軍師を思う。彼らの行く道の為に、為すべきことを。そうすれば、いつか必ず、かつての夢が叶う。それを手にするのが、例え自分でなかったとしても、いつか。それは神など信じぬこの人の、最後の祈りにも似た願いだった。
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