― 桜 節 ―




 憲実が美桜を連れてきたのは、彼の最後の出征のしばらく前のことだった。
 両の手が塞がっているから開けて欲しいと外から声がかかり、慌てて土間に降りて玄関の戸を開けると、ぬっと風呂敷包みが突き出された。
 真弓がそれを受け取ると、どうにも憮然とした面持ちの憲実が入ってきて、後ろ手に戸を閉めた。からからと軽く動きすぎたやら、戸はぴしゃりと大きな音を立てる。
 ……白い制服の胸にもたれかかって眠っていた幼子が、途端に目を覚ましてむずかり出し、慌てて二人は部屋に上がった。

 ――一体どうしたのかと問えば、訳あって知人の子を引き取ることになった、と言う。
 その朝憲実は、早々と起き出してその知人の家へ出かけていったのだった。戦死した彼が残した細君に、挨拶をしてくると言って。
 確かに小さな子供がいるとは聞いていたが、これは何事か。
 瞠目した真弓に、無論予想はしていたのだろう、憲実は溜息をついた。
「彼の細君は元々腺病質でな。その上夫の死で、精も根も尽き果てたらしい」
「それで育てられないというんですか?」
 故人と憲実とは、互いの家へ遊びに行き来する程の仲だった。とはいえ単なる友人に過ぎない、それも子供どころか妻もない彼に、右も左もわからぬ娘を委ねるとは、いかなる事情があってか。
 真弓が怪訝な顔をすると、憲実は首を振った。
「……昨日、自害を図ったそうだ。俺があちらに着いたときには、葬儀が行われていた」
「自害ですって……」
 真弓は眉を跳ね上げた。
 かの細君は良家のお嬢さんだったとは聞いていた。夫に傅くことだけを教えられてきたのだろうにせよ、それはあんまり弱く、短絡的ではないのか。
「さぞ心細かろうとは思ってましたが……頼る人は在るでしょうに。ご両親やら親戚やら、おられなかったんですか?」
「両親はどちらも亡い。親戚はいたにはいたが、このご時世だ。……あれが戦死したと伝わった後は、蜘蛛の子を散らすようにいなくなったそうだ。まして、子を引き取っても良いなどという者は」
「…………」
 子供が使うようなものはもちろん、余分な布団すらないので、とりあえず座布団を二枚ばかり連ねて敷き、綿入れを被せて寝かせてある。
 擦り切れたその端をきゅうと握って、真弓は何も知らないでいるあどけない寝顔を見下ろした。

 母の自害の折には、庭先で遊んでいたのだという。その後緊急に呼び寄せられた親戚達が、葬儀の準備も為したのだが、さてこの子をどうするかとなると、途端に皆逃げ腰になったとか。
 やいのやいのと押し付け合いのうるさい中で、じっと黙っていた憲実が、では自分が引き取るときっぱり言い出す様が、目に浮かぶようだ。――そうしたものを見捨てておけぬ性分だからこそ、真弓もここにいるのであって。
 そして、いずれまた出征する身ながら、真弓を信頼しているからこそ出来た決断でもあろう。
「お前には、苦労をかけるが――」
「いえ――先輩のお決めになったことなら。しばらくは仕事もありませんし、それに……僕自身、早くに親を亡くして、あずさの家に厄介になっていたんですから。他人事とは思えませんし」
「そうか」
 憲実は苦笑して、真弓の髪を撫でた。
 単なる居候というには情愛が在り過ぎたが、かといって家族というわけでもなかった。そんな半端な関係でもこうして信頼を受け、――求められることが嬉しかった。
 憲実のいるうちに済ませなければならない手続きはどのくらいあるのか、それを調べるところから始めなければなるまい。
 この子のための道具もある程度は揃えてやらねばなるまいし。――元の家になら全て揃っているのだろうが、それも引き取りに行けとは何故か言えなかった。
「……そういえば、名前は何というんですか」
「美桜だ。美しい桜と書いてみおと読む」
 春、桜が満開の頃に生まれたから美桜だと、実父たる故人は笑ってそう語ったそうな。
 その父の顔も、覚えてはいられるまい。自分が写真の枠の中のものしか両親の顔を思い出せないように。ほとんどは火浦家での苛烈な思い出に打ち消されたような感がある――残っているのは、もう木下という姓だけだった。
 ……いや、それはあえて火浦の両親が残してくれたのかもしれなかったが。三人目の子供ではなく、あくまでも木下夫妻の一子たる真弓であるようにと。
 だが、引き取る以上は自分の娘として育てると憲実は決めているようで、真弓はあえて何も言わずにいた。そもそも、一つの家に血の繋がりも何もない三人が寄り集まって暮らしているというのも、隣近所には奇妙なことであろうし。
 ――まして名が消えても、父と呼べる人がいて、慈しまれて育つに越したことはあるまい。
 実質的にそれをするのは主に自分ということになるが、真弓は荷を負わされたというよりも、何か安堵したような気分になっていることにも気づいた。
(一人で待たなくてもいいんだ……)
 小さな家だったが、一人では持て余すことがままあった。言い知れぬ不安が灯りを点けない部屋にわだかまっているようで、そこに一人で居ることが無性に恐ろしくなることも。
 今度征くという南方の見知らぬ海から憲実が戻るまで、またそれに耐えねばならぬのかと、気を重くしていたところだった。
「この子と、ここで必ず待っていますから」
「……頼む」
 まるで夫婦のような会話だと真弓はふと可笑しくなったが、他に言うべきこともなかった。――想って待っていても良いのだと、とうに許されているのだから。

 ……そうして、美桜は土田美桜になった。


*  *  *


 本当を言うと、戦況の厳しさを聞くにつけて覚悟はしていたのだ。自分自身も戦地へ駆り出されることを。その時はどうしよう、美桜は一時的にでも火浦の家に預かってもらおうか、そんなことまで考えていた。
 しかし、あちこちを転々とし、最終的には成り行きで憲実の元に転がり込んだようなものであったから、結局真弓への赤紙はどこぞで迷子になったやら、受け取ることはなかった。
 戦中は美桜を抱えて防空壕に駆け込むこともしばしばだったが、幸い家が焼けることだけは免れた。

 ――当の憲実は帰ってこなかったが。

 知らせの手紙は九州の憲実の母から来た。文面を追うにつれて体中から力が抜け、抉られるような喪失感――ひどく覚えのある感覚の――に頽れたが、膝に縋って不思議そうに見上げている美桜を見たら、泣くにも泣けなかった。
 泣いてどうする、こうなってしまうのではないかとずっと考えていたのではなかったか。
 だが、小さな手に頬を拭われて、その指の隙間からぱたりと音を立てて涙が卓に落ちたとき、どうにも堪えられなくなって嗚咽を溢れさせた。
 ――分かち合うには幼すぎたが、ただ、真弓が酷く悲しんでいることは美桜にもよくとわかったらしく。後年、それが忘れえぬものとしてはっきり記憶に残っているのだと、美桜はそう言って真弓を驚かせた。


 ……そして淡々と終戦を迎え、国が落ち着き始めた頃。
 美桜はようやく六つばかりで、まだ目は離せなかったが、何とか仕事も始めなければならなかった。
 その晩も書机に向かってあれこれ書き物をしていると、背後で何やらよろしくない音がする。
「……美桜、紙においたするのはよしなさい」
「おいたじゃないもん」
 原稿用紙として使えるよう升目を書いておいた紙を、小さな手がちょろちょろと引いて取っては玩具にする。本人はどうやら真弓の真似をしているつもりのようで、時折は自発的に字の練習をしており、叱るに叱れないこともあるのだが。
 裏に美桜が落書きした紙を気づかずにそのまま仕事に使ってしまって、恥ずかしい思いをしたこともある。一応は確かめておこうと振り返ると、畳の上に紙を広げて、何やら一所懸命升目に字を埋めていた。
「何を書いているの」
「土田のお祖母ちゃんにお手紙を書くのよ」
 真弓が憲実の実家や火浦の家と時折やり取りしているので、一丁前にそういう知識はある。
 憲実の母のことを美桜はそう呼ぶのだが、自分が(もはや名前しか知らないにせよ)憲実の義理の娘であることを、もうおぼろげに理解しているらしかった。もっと小さな頃は、ごく単純に真弓の子だと思っていたようだが。
 別に肯定も否定もせず、ただ一緒に暮らしている、ただ間に慈しみがある、それに重きを置いて育てていたので、美桜自身はまだ幼いこともあるにせよ、血の繋がり云々にさしたるわだかまりは感じていないようであった。
 ……もっとも、憲実と真弓が如何なる事情で共に暮らしていたかに疑問を抱かれた日には、さぞや説明に骨を折るだろうと思われるのだが。

 つい先日、憲実の母が末娘の緑を連れてやってきたのだった。
 学生時代に初めて会った時には、緑もまだ小さかったが、さすがにもういい大人になっていて、母の目配せ一つで意を汲むと、美桜を外へと連れ出していった。もうすぐあの子も嫁に出るのだと、老母は目を細めて笑った。
「この家のことは木下さんにお任せし放しで、本当に申し訳ないのですけれど……」
「いえ……置いてもらって、こちらの方がありがたく思ってます。あの頃は、本当に路頭に迷うところでしたし」
 昔から気丈な女性であったが、ただ、皺が深くなった、と思った。
 ……息子の戦死を知らせてきた時も、この家の管理は今後も真弓に頼みたい、と書き添えていたのだった。他人の手に売り渡すよりも、すでに見知った――憲実との縁も深い真弓に貸しておくほうが、心も安まったのだろう。
 本人よりも居候の方が長く住んでいるという奇妙な状態になっていたが、もしかしたら帰ってくるかもしれない、その時に人手に渡っていてはいけない、という思いもどこかにあったのかもしれない。
 ……そしてまた。
「本当に美桜ちゃんは一人でお育てになるの?」
 土田家の人々が折に触れて気にかけていたのはそれであった。
 何ともなれば今日連れて帰っても良いのだと、はじめに言われ――真弓はあっさりと笑顔で断ったのだったが。
「大変でしょう? ……元々憲実が引き受けた子なのだから、こちらが引き取るべきだと思うのだけど……うちはもう皆手が離れたことだし、今からもう一人育てるのも悪くはないってお父さんも言っているのよ」
「お気持ちは嬉しいのですが……本当を言うと、美桜を手放すのは僕の方が心細いのかもしれません。あの子が居るから頑張らなければという部分もありますし」
 そう言うと、憲実の母は苦笑した。
「そう――あなたのことも心配ねえ。いっそ緑を、木下さんに嫁がせるのもいいかなんて言っていたのだけど、あの子はあの子で別の人を見つけてしまったし」
「そんな……僕なんかのところに来ては、大抵の女の人は怒って出て行ってしまいますよ。仕事に追われてばかりで、生活も不規則に過ぎますし。美桜は始めからそういうものだと思っているから、適当に合わせてくれますが」
 すると彼女はますます難しい顔をした。ああしまった、と思ったがもう後の祭りで、憲実を厳しく躾けたその表情に、真弓は背中を丸めて小さくなった。
「だからですよ。きちんとご飯を食べているのか、十分寝ているのか、それが心配でならないんです」
 つまり息子がかつてしていたのと同じような心配をしているわけだ。しかも、それに大丈夫とはとても言い切れず。真弓は恐縮して頭を下げた。

 母娘は田舎から芋だの南瓜だのを抱えてきていて、久しぶりに何品もある食事を振る舞ってもらえた。
 普段食べている真弓の手料理はどうもいまいちなのらしく、それを一口食べた美桜の顔がぱっと輝いたものだった。
「……ちゃんとお礼を書いておきなさい」
「それも書くけど」
 鉛筆の先を舐め舐め、美桜は文面を考えている。
「緑叔母ちゃんが、皆心配してるって言ってたから、大丈夫ですって書くの」
「心配?」
「真弓兄ちゃんは会うたびに痩せてるって。だから美桜がしっかりご飯を食べさせますってお約束したらよいのよ」
 口が達者になって、生意気なことも言うようになっていたが、それでは随分甲斐性無しの父のようだ。
 真弓は憮然として、「好きに書きなさい」と言って仕事に戻った。
 お行儀だけはきちんとさせているつもりだが、自分に付き合って夜が遅くなっていくのはやはり考え物かもしれない。早々と飽きてお茶を煎れに行った(それは美桜の仕事ということになっていた)足音を聞きながら、真弓は溜息をつく。
 壁掛けの時計が十一も鳴った。


*  *  *


 戦争のどさくさに紛れて文筆業に就いたという先輩と、仕事の都合でばったり出くわしたのがその年の暮れのことだった。彼の許で安穏と勉学に励んでいたその恋人とも、程なく引き会わされ――思いがけぬ形での再会を喜ばれたものだった。
 ――憲実のこと、美桜のことには、落胆するやら驚くやらと、忙しく反応を返されたが。

 要に嘘の締め切りを吹き込んでおいて、原稿を本当よりも早めに仕上げさせたのが当の光伸にばれてしまったので、一席設ける羽目になった。
 ちょうどいい季節なので、それでは夜桜でも見に行こうと誘った。美桜の誕生日が近いので、それもついでに祝ってしまおうと。
 家のすぐ近くに桜の並木道があり、朝から晩まで見物の人は絶えない。立派なお重を抱えてきた要も、感心至極でそれに目を奪われ、危うく往来で引っ繰り返るところだったのだとか。そういうところは若い頃から何も変わらないんだと、光伸が(半ばは愛しげに)嘆息した。
 小さな仏壇に手を合わせてから、要は美桜にせがまれて、簡単な一品の作り方を教えにかかっている。
 その後姿に、光伸がにやにやと笑った。
「もうすぐに七つか。男手一つという割には、随分おしゃまに育ったものだな」
「むしろそのせいじゃないかって言われるんですけどねえ。職場や土田先輩のご実家のほうでも、からかいの種ですよ」
 かかってくる電話には、土田と名乗れと教えてある。
 だが、どうもそのときの美桜の口振りが、時折真弓の奥方を気取っているようで可笑しいと、皆に言われるのだ。
「どうだ、いっそのことお前が美桜の入り婿になるというのは。そうすればお前も名実共に土田真弓で、奴の義理の息子ということになるぞ」
「馬鹿なこと言わないでください。美桜が結婚するような年になったら、僕はもう五十路も目前ですよ」
「だがそんな年になっても、待っているつもりなんだろう、お前」
 ……この人は冗談口ばかり叩いているくせに、時折こんな風に突いてくるのが嫌だ。
 灰皿を彼の前に押しやって、真弓は肩をすくめた。
「さっき日向さんと、お仏壇を拝まれたじゃありませんか」
「逸らすな、お前の話だ。……いずれは美桜もどこぞに嫁がせるのなら、その後のことくらい考えておけ。……大した時間じゃないぞ」
「……わかってますよ」
 わかってはいるが、納得したくないのかもしれなかった。

 終戦後すぐに、美桜を連れて鹿児島へ行った。そこで墓に参りもしたが、未だにそれは本当なのかと疑っている節がある。
 人に言われたこともあるのだ、何故そこまで手塩にかけて育てているくせに、美桜を養女にしないのかと。木下と名乗らせた方が後々面倒もあるまい、本人もいずれ疑問を持ち始めるだろう、と。
 ……それは憲実の娘ということのままにしておきたいからなのだ。自分の周りから彼の気配が消えていくのが何より恐ろしいのだと、変わりゆく町並みを呆然と眺めている。
 美桜が居る限り、表札から憲実の名を消さない言い訳を、何より自分に出来た。
 ――それさえあと、ほんの十年と少しばかりだろう。彼と出会ってから今に至るまでの年月に匹敵するとて、それも何と早かったことか。

(その後――)

 連れ合いとはぐれることなど珍しくもなく、まして今の世には溢れ返るほどだ。
 生きていくことは出来る、淡々と。
 美桜が嫁げばやがて子も生まれるだろう。生さぬ仲であったことなど無きに等しい過去になって、その賑やかな訪れを待ちながら静かに老いていく、――そんな未来を思い描くのも容易いことになっていた。
 ……傍らで見守っていて欲しい、ただそこに居て欲しい、その人が居ないのだということだけが、狂おしく凍てついている。

 それだけが変わらず。


「何をまた木下さんを困らせてるんですか」
 片手に盆を持った要が茶の間に入ってきて、もう片方の手で光伸の頭を掻き回した。
「困らせてなんぞおらん」
「嘘おっしゃい」
 盆の上には燗酒。わざわざ美桜のためにだけ甘酒も作ったらしく、桃の節句は祝い逃したから今日はこれだけ、と要は笑う。
「すみません日向さん、お客さんなのに。美桜の相手までしてもらって」
 腰を上げて盆を受け取ると、彼は光伸の隣に座りながら手を振った。
「いいえ、さっきこけかけた時に、お重の中がみっともないことになっちゃってましたから。こっそり直してたんですよ」
 美桜はまだ何やら踏み台の上で頑張っているようだ。あの調子で、自分の好きなものを自分で拵えられるようになったら重畳だ。今更ながら、自分はどうも味の良し悪しに疎いらしいと自覚し始めていた(憲実も出された食事にはうんともすんとも言わない性質だったので)真弓は、ほっと息をついて徳利を手にした。
「とりあえず先生、脱稿おめでとうございます。次も頼みますよ、お早くね。さっさとね。迅速にね」
「うるさい。要、お前もお前だ。あっさり騙されおってからに」
「いいじゃありませんか。いつもだったら、今頃は机に噛り付いてて、僕のことなんか放ったらかしでしょ」
 そう言ってつんとする要に、光伸がううと唸った。
 真弓が笑いながら要のお猪口に注ぎかけると、彼は物柔らかに微笑んで、言った。

「……約束は必ず守る人だったでしょう。戻ると言われたのなら、きっと」
「――……」

 こういうことを要に言われるのも、何やらおかしな気分だった。
 苦笑いして、真弓は頷いた。



 満開の桜は月光の下、仄白く花の雲を風に揺らしている。
 そこかしこで花を愛でていた人々の姿も三々五々消えてゆき、まだ肌寒い中を駅に向かって四人で歩いた。
 空の重箱を提げた光伸は、要の手も引いて暗い道の先を行く。真弓ははしゃぎ疲れて眠った美桜を背負って、後を追う。
 話が途切れて、長い間黙っていた。
 積もる話なら幾らでもあるのに、そのほとんどに憲実が関わってくるものだから、――いつの間にか彼に関して口が重くなっていることを思わずにおれなかった。
 こうして、心の中でも彼を死なせてゆくのかと。
 あるいは――

 焼かれた町にもようやく灯りが戻り始めていて、光伸はふと辺りを見渡したようだった。そして振り返りはせぬまま、ぼそりと言った。
「――木下」
「はい」
 はっとしてよくと前を見据えると、立ち止まった光伸の肩に寄りかかるようにして、要がくしくしと目を擦っているのが見えた。
「……諦めていないのなら、探してやる。……だが、何も見つからなくても恨んではくれるなよ」
 何を、とは言わなかった。

 ……だが、ああ、この人は冗談口ばかり叩いているくせに、時折こんな風に突いてくるのが嫌だ。

「――ありがとうございます」
 俯いて唇を噛んだ。
 見ないで居てくれることもありがたかった。
 二度とは泣くまいと決めていたのだから。
「……もう遅いな。早く帰って、美桜が風邪を引かないうちに、布団に入れてやれ」
「ええ。……今日は、本当に……日向さんにも、後日ちゃんとご挨拶に伺いますから」
「かまわんかまわん、そのかわり、次は本当の締め切りを教えろよ」
 にやりと笑ったのが伺えた。
 そのまま駅へ行こうとするのを、真弓は呼び止めた。
「――金子先輩!」
「ん」
「……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。――こら、要、歩け」
 足取りの怪しい要を半ば抱えるようにして去って行く光伸を見送って、真弓はそっと踵を返した。

(約束は必ず守る人だったでしょう)
(諦めていないのなら――)

 ――もしかして、自分の様子を見に来たんだったのだろうか。
 ふとそれに気づいて、一人瞠目したが、振り返ったところで姿さえもう見えはしない。
 ……まだ思い出を分かち合うとか、そういう癒しは求めていなかった。自ら認めるようで、むしろ厭わしくすらあったのだった。

 それをして諦めていないというならば、相変わらず目端の鋭い人だった。


*  *  *


 時折の雨に散らされもしたが、今年の桜はよくもった、と近所で笑いあう声がそこかしこで聞かれた春だった。
 ちらほらと花弁が落ちかけた頃、風が一層強くなって吹き荒れた。
 立て付けのよろしくない窓が、がたがたとうるさく鳴る音で目が覚める。
 毎年のこととはいえ、そろそろ直したほうが良かろうか。屋根の瓦も寿命が来ているかも知れない。
 身を起こすと、美桜の布団はもう片付けられていて、どうやら昼まで寝てしまったらしかった。
「美桜、今何時」
 呼ばわると、ふすまの陰からひょっこり顔を出した娘が、何やら神妙に指先を口に当てる。
「何?」
「お電話が来るの」
「誰から」
「内緒」
 朝餉の支度はもう美桜一人でも見様見真似でできるようになっていて、卓袱台に用意してあるらしい。のそのそと起き出して、かけてあった布巾を取っていると、美桜が一応給仕をしようと膝でいざり寄ってきた。
「いいよ、大事な電話なんだろう」
 誰からなのか、心当たりもないが。
 そういえば朝方、うるさく鳴っていたような気もする。……するとあれも、美桜宛だったとでもいうのだろうか。
 そんな馬鹿な。と真弓が首を傾げていると、折しもその電話が鳴った。
「はい、土田でございます」
 白湯をすすりながらその小さな背中を眺めていると、嬉しそうに何度も頷いている。
 しばらくして、美桜が電話を繋いだまま振り返った。
「代われって。光伸小父ちゃんよ」
「先輩?」
 出ると、どうも笑っているような気配だ。「やっと起きたのか」、とからかう時の声で言う。

『おい、仕事明けのところ悪いが、出かける支度をしろ。客人がそっちに行くんでな。俺達もこれから出る』
「客人?」
『海の向こうからな。いいから動け、どうせまだ寝巻きでぐずぐずしているんだろう』
「放っておいてください、締め切り前の先輩よりはましですよ。客人って誰なんです」
『それは内緒だ』
「……さては美桜に入れ知恵したのも先輩ですね」
『そんな瑣末なことに言及している場合か。とにかく朝餉がまだならすぐ食え、そして着替えろ。後悔するぞ!』

 言うだけ言って、光伸は電話を切ってしまった。
 憮然とした真弓は、また卓袱台まで戻りながら一体誰であろうか、と考えた。美桜は知っているようだがこちらも口を割る気配はない。
(外国からの客人とな)
 ……もしかして、水川先生だろうか。
 あのはしゃぎっぷりからすると、そうかもしれない。先生への憧れが高じて今の光伸があるわけだからして。
 するとあずさも一緒に帰国してくるのだろうし、それならばまずここへ来るというのもわからない話ではない。彼にはここに居ると伝えてあることだし。
 しかし、美桜はあずさのことはおぼろげにしか知らないはずだ。火浦家の長男で真弓の幼馴染、今は英国に居るとか、その程度の。後は写真を何枚か見せたことがあるくらい。実物に会うのは初めてだから興奮しているのだろうか。
「美桜はねえ」
 勝手に食べさせておいて、美桜は真弓の着替えを箪笥から引っ張り出しにかかっていた。
「美桜はね、お嫁にはいかないって決めてたのよ」
「どうして」
 藪から棒に何を言い出すのだ、と思っていると、一丁前に憮然とした顔で、美桜は首を傾げた。
「だってお父さんが泣くのだもの。美桜が居なくなるとお父さん一人だからいけないと思ってたの」
「…………」
 口につけた湯飲みの中でぶくぶくと音がした。
「でもねえ、光伸小父ちゃんがそれじゃあいけないって言うのよ。お父さんは土田のお父さんを待ってるだけだからさっさとお嫁に行かないと大変なことになるって」
(……こんな小さな子に何を吹き込んでるんだ、あの人は)
 真弓は湯飲みを置いて、小さく溜息をついた。
「いつか美桜に好きな人が出来たら、いいからお嫁にいきなさい。余計なこと考えなくていいから」
「いいのかなあ」
 何をどう言って欲しいのやら、まだ思わせぶりにちろちろこちらを見ている。
「いいのかなあ。光伸小父ちゃんも、もう大丈夫だからいいんだよって言ってたけど」
 どうしてこう女受けだけはいいのやら、と真弓が憎たらしい作家の憎たらしい笑みを思い出していると、美桜が膝の上に乗っかってきた。
「美桜がお嫁にいっちゃっても平気?」
 その上目遣いに苦笑する。
「……いや。寂しいけど、美桜が幸せになるならそれでいいよ。でもどこにも嫁き手がなかったら、ここにいてもいい。どうせ何も持たせてあげられないしね。……僕はずっとここに居るから、美桜の好きにしなさい」
「うん」
 こんな風に、幼い子のように抱かれるのを嫌がる年頃になったと思っていたのに。
「じゃあね、美桜がお嫁にいっても、お父さんは美桜のお父さんで居てね」
 未だ甘えたい盛りにあるにせよ、五年という年月は確かに過ぎたのだった。膝に抱いて物を教えた日々は、遠く去っていた。
 ……そうして、美桜にまで心配されていたのかと思うと、少々気恥ずかしくもあったのだったが。


 水川先生がお越しになるのに、何かお出しできるようなものはあったっけ、と真弓は茶棚を覗き込んだ。
 ――甘味など、久しく目にも口にも出来なかった。美桜と二人でようよう口に糊する程度の生活で、そんなものがあるわけがない。
 真弓は溜息をついて、指先で頭を掻いた。
(……あの人が手土産無しで来るとは思えないなあ)
 何たって憧れの人だ。後で行く、と言った光伸が、何としてでも何か良い菓子を用意してくるのではなかろうか。
 思い切り良く茶の準備だけにするか。
 来客用に取っておこうと大事にしていた茶の缶を取り出していると、またぞろ電話が鳴った。
 真弓は家では電話に出ない。美桜が出たがるので任せていたら、いつの間にかそれが定着してしまったので、言葉遣いと相手の確認、用件の聞き取りだけを躾け、家の中での美桜の仕事、ということにしてあるのだ。そもそも毎日帰りが遅いのもあって、美桜にそれが出来ないことには、どうにもならないこともあった。
 真弓が在宅なら普通は代わるのだが、その電話に出た美桜は、何やらはしゃいだ声で応対を続けている。
 いつもは相手が見知った人でもかしこまった声で話しているのに、最初に歓声を上げたかと思うと、「そうです、美桜です」と嬉しそうに言っている。
(早く代われって言いなよあずさ)
 湯呑みを取り出し、縁に欠けがあるのを見つけて溜息をつき、別のがあったろうかと振り返ると――ちょうど美桜が電話を切ったところだった。代わりもせずに。
 真弓は少し目を見張り、うきうきと踏み台から飛び降りる美桜に言った。
「今の誰だったの?」
「さっき光伸小父ちゃんが言ってた人。すぐそこまで来てるんだけど、あんまり町が変わっちゃったからよくわからないって。今から迎えに行きますって言ったから」
 美桜が壁に掛けてあった真弓の外套をぱたぱたと取りに行く。
 ……どうやらご対面相成るまで、正体を明かさないでいようと、真弓以外の全員が取り決めているらしい。
 そうは言ったって、大体の想像はつくのだけれどなあ、と真弓は靴を履きかけて――ふと気がついた。

 ……あずさや水川先生が、ここに来たことがあったか?

 確か住所を教えてあるばかりで、実際にやってきたことはなかったはずだった。
(……『あんまり町が変わっちゃったからよくわからないって』……?)
 この間新調してやったばかりの靴を履き、美桜は勢いよく玄関を飛び出していく。
 真弓は戸惑いと言い知れない予感に胸をざわめかせながら、その後を追った。

 ちらほらと瑞々しい葉が花弁の合間に覗き始めた桜並木は、ごうごうと吹き荒れる風で幹ごと揺すぶられていた。
 舞い散る花弁が吹雪のようで、これが終わればやがてすぐ初夏になるだろう。
 初夏――その言葉に、遠い思い出が脳裏を掠め、真弓が目を細めたとき、美桜がまた歓声を上げて、手を振りながら走り出した。

 ――洗い晒した簡素なシャツが、強風にはためいている。
 その左の袖は空っぽで、風に煽られるのを右手で抑えていた。足元の荷物を持つことも出来ずに、難儀しているやら――口元には苦笑が見て取れる。
 美桜がそのそばに走り寄り、ぴょこんとお辞儀をして、何か話を始めた。
 代わりに持つと言ったやら、重い荷物をうんと力を込めて持ち上げ、よろめきながらこちらへ向かって歩き出す。

 声も出ず、ただ立ち尽くしていた真弓は、憲実が目前に来るまでただ瞠目していた。

「……金子から何も聞かされていなかったか。あれのやりそうなことだが、美桜まで一緒になっているとは思わなかった」
「――…………」

 荷物を降ろした美桜が、得意そうに笑う。苦笑した憲実は、骨張ったその手を真弓の頬に被せた。
 掌は幾分か痩せてしまっていたが、変わらず暖かい。懐かしいそれに目を閉じると、溜まっていた涙が落ちた。

「――今、帰った」