― 帰 路 ―




 ずるずる引き延ばした仕事を渋々片付けながら、真弓は時計を見上げた。――塗料の剥がれた壁には、そろそろ寿命の来ている電燈の影が陽炎のように揺れている。
 まだぎりぎり帰れる時間ではあるけれども、どうしようか。……帰れないことにしてしまおうか。
 しかしそれならそれで、連絡だけは入れておかなければならず、気鬱な溜息が出た。
 子供じみた駄々をこねているのは自分の方だと自覚しているだけに、話を先延ばしにしたいだけなのは承知の上だ。挙句に問題にされていることそのものの状況になっていては、世話はないのだけれども。


*  *  *


 憲実と喧嘩をした。

 ……喧嘩というのだろうか。
 憲実は別に怒っていたわけではなくて、ただ真弓を心配しているだけなのだとはよくわかっていたし、大人気ない態度を取ったことが恥ずかしかった。何と詫びよう、とも思う。
 とはいえ根本的な解決策が一つしかない以上、結局はまた繰り返す羽目になるんじゃなかろうか、と憮然ともする。

「何事も粘り強く、真面目にこなすのはお前の美点だが、……せめてもう少し早く帰れ」

 朝餉の途中、今日も遅くなるので、と何気なく言った。いつもは「ああ」だとか「そうか」だとか、当たり障りのない返事が返されていたのだが、どうやらそろそろ言わなければ、と決心していたらしい。
 憲実は箸を置き、じっとこちらを見ていた。
 様々な仕事を渡り歩き、細々とでも自分一人で身を立てながら、ようやくと望んだ職を得た。戦中も何とか生き延び、食らいつくようにして維持してきたそれが、やっと枷を外されたのだ。
 真弓が日々充実して過ごしていることは、無論喜んでくれていたのだが、「今日も遅くなります」……それだけはやはりいい顔をしなかった。
 かつてはあずさと何もかもを共にし、彼に合わせるだけの生活だったが、十代の終わりから長らく、独りで暮らすことに慣れてしまっていた。帰宅が何時になろうと、あるいは泊り込みになってしまおうと、誰が文句を言うわけでもなかった。
 ……家で待つ人への気遣いなどというものにはずっと無縁で、ほとほと無頓着だったのだった。それは認めざるを得なかったが――ただ、ではどうすれば良いのかと思ったとき、嫌な方向にしか物を考えられなかった。
「……そういう仕事ですから、仕方ありませんよ……」
 ざわざわする胸の内を宥めて、言葉を濁した。
 自分だって彼に心配はかけたくないし、気を遣われているのにこんな風に言い返すのはどうかと思われた。
 だが、戦前から経験を積んでいる編集者としての真弓は、社内でも頼りにされる存在であったし、仕事が面白くてならない時期にさしかかっていたのも確かで。生きる甲斐というものが何となくわかってきたような、これまでとは違う楽しみを覚え始めていた。
 そういう事情は憲実もわかってくれていたはずなのだが、突き詰めて言えば仕事を辞めるか、替えるかしかないのではないか。彼の言うことに従うとなると。
「体を壊してしまっては、元も子もないだろう。根を詰め過ぎず、早め早めに切りをつけるように心がけた方がいい」
「心がけてはいます、いつも」
 いたたまれなくなって自分も箸を置いた。そのまま手早く食器を重ね、片付けかける。
 このまま話を続けていたら不毛な言い争いになってしまいそうで、それを憲実としなければならないというのが嫌でたまらなかった。
「木下」
 子供のような態度を窘める声、そして視線も座れと言っていたが、真弓は見なかった振りをして、慌しく出かける準備を始めてしまった。
 憲実が溜息をつき、それ以上言いかけるのをやめたのがわかってほっとした。だがその反面、何とも言いようのない――理不尽な苛立ちめいた――気持ちに襲われて、逃げるように家を出たのだった。


*  *  *


 結局連絡は入れないまま退社してしまった。
 嫌なことから逃げてばかりで、大嫌いだった弱い自分が戻ってきてしまったような気分になる。
 ……本当を言えば、早めに帰る努力はそれほどしているわけでもなかった。様々なしがらみや用事が免罪符になって、「もう少し、もう少し」と引き伸ばしてしまう。憲実の言うとおり、切りをつけて帰ることを念頭に動けば、毎日もう少しは早く帰宅できるはずだった。――もう少し彼と話ができて、もう少し早く就寝も出来るだろう。
 毎日が充実して、己もこの国も日々明るくなっていくことがありありとわかる。一時立ち止まることさえ惜しく、走り続けてきたけれど――
 理解してもらっているものだと思って、甘えが過ぎたのだろうか。
 彼がそこにいて、支えていてくれるからこそ何の憂いもなく仕事に打ち込めるのではないのか。――そんな簡単なことも忘れてしまっていたか。

 しんしんと疲れの染みた体で、ぼんやりと電車の天井を眺め上げていた。
 もう二度と会えないと覚悟した、その人が再び戻ったこと自体が奇跡のような話だったのに、今では居てくれるのが当たり前なのか。
 あの小さな家の暗い座敷で、取り残されてしまったという孤独感に、時折どうしようもなくなって蹲って泣いた、それも忘れてしまったか。
 確かに仕事はずっと以前から楽しくて(そういうことを忘れさせてもくれた)充実していたけれど、それが本当に人生を謳歌する方向に変わったのは、――受けとめてくれる人が居るからではないのか。
 いつの間に、一人で勝手に振舞うような傲慢な生き方になってしまっていたのだろう。
 ブレーキに揺さぶられながら溜息をついて、頭を振った。


 その駅から自宅までは、徒歩二十分ばかりの道行きだったが、重い足取りは回り道や道草を主張する。
 ……これ以上遅くなってどうする。
 憮然としながら、頼りない街灯を一つ一つ辿るように歩いた。
 まばらな家々は、それでも肩を寄せ合うように建っていて、野っ原とそうでないところの差は極端だ。いつぞやには家の灯りのないところで幾夜も続けて物盗りが出たと、注意するよう呼びかけがあった。
 生温い晩夏の風に首筋を撫でられ、ふと顔を上げた。すぐ先に、人の気配がある――つい今思い出したことにぞうっとして、思わず立ち止まった。

「――……」

 街灯の下に背の高い人影があり、じっと立ち尽くしている。
 何をするでもなく、ただそこに――ようやく傍にいる事に慣れた、やっと帰ってきてくれたのだと納得できた人が。

「…………先輩」

 ただ黙然と、何を言うわけでもなかったが、――迎えに出てきてくれていたのだ、とそれだけが胸に染みた。

「……すみません――あの――」
 申し訳なさで声が詰まって、うまく言えなかった。憲実は憲実で、安心と照れくささに目を細めて、苦笑していたけれども。
「いや、……無事に帰ったなら、いい」

 ――帰ってこない人を、心配してただ待つという時間の恐ろしい長さは、己こそ身に染みてわかっていたのではなかったか。
(家の中では居ても立ってもいられずに、外へ迎えに出て、少し先で、もう少し先で、と――)
 胸の潰れるような気持ちで、鼻の奥がつんと痛くなった。
 連絡も入れず、わざと遅くなって、……何という愚かな酷いことをしてしまったのだろう。子供っぽい反感とくだらない報復で――

 今でも鍛錬は欠かさないが、一部をもぎ取られて、血が大量に流れ出てしまった彼の体は、そこから生還したにしても昔ほど頑健というわけではなかった。痩せた肉は簡単には戻らず、何とかして精をつけてもらおうと、滋養を求めてあちこち駆けずり回ったものだった。
 まだ寒いというほどではないにしろ、こんなところで立ち尽くしていては、体調を崩すのではないか――歩み寄ってきた憲実の胸に触れてみると、風に体温を奪われていたのがよくわかる。

「すみません」

 嗚咽を堪えられずに、顔を伏せた。
 伸ばされた腕に促され、その身を寄せ、抱きこまれた。

「……常々、お前の好きにさせてやりたいと思うが、俺は辛抱が足りんようだ」
 苦笑する声が髪を撫でていく。
「お前はもっと過酷な状況で耐え抜いたのだと――そうは思うが。まして……俺がこの道を辿って帰ったあの日、お前がどんな顔をして待っていたかを、忘れた日はないというのに」
「――……」

 何も言葉にならず、ぎゅうと頬を擦りつけた。
 彼が帰ってきた日の細かい経緯は、実は思い出せない。泣き疲れてぼんやり座っていたところに不意に帰ってこられたような、そんな――真弓を取り巻いていたあらゆる事情が、そのあまりもの光で溶けて霞んでしまっていた。

「こればかりは、仕方がないのかもしれん。互いに、一人で生きているのではないのだから――今は」

(今は――孤独を抱えて誰かを待つこともなく、またそれ故に)

 憲実が真弓の額に軽く触れるような口付けをくれて(そういうことをする人だったろうか、と思わず動転させしめ)、軽く背を押して「帰ろう」、と促した。
 その左側に立ち、彼の足りない感覚を補いながら、真弓は小さく息を吐いた。支えるように彼の背に手を添えたところから、段々温もりが戻り始めている。
 安堵が暖かい潮になって体内に満ちるようだ。自分もまた。
 何という現金なことだと苦笑いして、真弓は憲実の背中にぐいと釘代わりの指を押しつけた。

「でも、もうあんな吹きっ晒しのところで待つのはやめてください」
「ああ……」
「下手をしたら、物盗りと間違われますよ」
「ああ」
 憲実が吹き出すように笑った。どうやら本人にもその懸念はあったらしい。
「次は駅まで迎えに行く」
「その前に帰ります、なるべく。大体金子先輩がもっとさっさと書いてくださったら、僕の仕事も半分くらいなくなるようなものなんですよ」
「あいつか。見張りに行かねばならんな」
 半分というのは大袈裟な話だが、きっと今頃くしゃみでもしているに違いない。
 二人でひとしきり笑って、真弓は自分の鳩尾の辺りを擦った。ほんの少し前まで何も食べられないような気がしていたのに。何だか恥ずかしい。
「先輩」
「ん」
「今日の晩御飯、何ですか」