― 霧 島 ―




 校庭の一角に躑躅(ツツジ)の植え込みがあった。
 もう花は終わりかけ、近頃要がせっせと花がらを取っている。遅く咲いた花――おそらく最後の――に目を留め、戯れに摘み取った。


「……実家にあったのに似てるけど、あれはもっと派手だったような気がするな」
 数日前、そこで要に少しつきあった。
 花がらを取ってやると新芽がよく育ち、翌年もたくさんの花が咲く。要はそうしたことをよく知っていて、真弓の呟きに笑った。
「きっと八重咲きの花だったんでしょう。これは有名な古品種ですから、種類もたくさんありますよ」
「へえ……」
 一つ一つは一重咲きの小さな花だったが、真弓とあずさが入学して間もない頃、この躑躅の植え込みは花の赤さで燃え上がるようにも見えた。去年から要が丹精していて、この分なら来年もますます美しく咲き誇ることだろう。
 長い間しゃがみこんでいた腰を伸ばしながら、要は思い出したように言った。
「そういえば木下さん、ご存知ですか。この躑躅は――」

(この躑躅は――)


 ……他愛もない話だった。
 だが、人の掌の上でも凛としているその花は、そう言われればそうあるに相応しい気もする。――他ならぬ要に教えられたというのも些か滑稽なことだが。

 実家――火浦の家でなく、といって自分の記憶からももう薄れつつある――の庭の花を摘み取って、蜜を吸うのを教えてくれた柔らかく優しかった女は、母だったろうか子守の姉やだったろうか。
 咥えようとして、ふと唇を指先で辿った。


*  *  *


 舌先に火傷をした。
 子供でもあるまいに、熱すぎる茶を無警戒に口に含んでしまったのだ。熱にひりつく痛みに眉をひそめた。
 小さな呻きなど食堂の喧騒の中では無に等しかったが、気づかれたようだ。その対面に座っていたのがあずさなら、すかさず「猫舌の癖に何を慌ててるのさ」と声が飛んだろうが、そうではなかったので、すでに少し温んでいた彼の茶碗がずいと押し出されてきた。
「すみません」
 両手で持っていた自分の茶碗を代わりに差し出して、真弓は俯いた。
 こんなことで世話を焼かれてしまうみっともなさ、――憲実が口をつけたのは茶碗の縁のどの辺りだったろうか、と咄嗟に考えたやましさに、頬が火照った。
「かまわん、……」
 何か言おうとしたようだがそのまま途切れ、ただ目元が笑っていた。
 憲実は真弓を案外子供だと言い、今でもそう思っているようだし、実際折に触れてこういう振る舞いを見られもしている。
 恥ずかしさと、内心の物欲しげな己へのいたたまれなさが常に同居しているようなものだったが、憲実はきっと真弓のそういう葛藤は知らないでいるのだろう――知られたくもないにしろ。

 あずさはここのところ、放課後になるとどこかへすっ飛んでいく。
 夜には帰ってくるが、以前は目に触れるも嫌ったような本を気難しい顔で読んでいる。時折頬を赤らめながら。どうやらその本を貸してくれる人になついて、遊びに行きがてら夕食も共にしているらしいが――一体どうしたことやら。「汚い」もいつの間にやらなりを潜めていた。
 剣道部の稽古に本格的についていくようになって、あずさをかまう時間が大幅に減ったこともあるが、いつからそんな風になったのかわからないことに少々愕然としないではなかった。
 あずさにとっての自分がそうだったように、自分にとってのあずさも、何でも知っているつもりでいたのにそうではなくなっていたのだった。
 今の彼は、ひょっとして熱い茶で火傷をしたのは笑っても、憲実とのことを非難したりはしないのだろうか。
(……馬鹿だ、とは言うだろう……)
 以前より真弓を見るようになり、そしてどこか態度も柔らかい今ならば。
 拗ねたように唇を尖らせて、馬鹿な恋をしている真弓をその通り馬鹿だと言うだろう。優しく。

 ――要とのその後の経緯は、憲実本人から聞いている。
 二人共に、あの異様な事件の軸に絡んでしまったのだ。何もかもに終わりの来た――月村教授の死んだ夜のことを、後からぼつぼつと話してくれたのだった。
 いつの間にか学校から姿を消していた光伸のこと――あのあずさがそのことに騒がなかったために、真弓はちっとも気づいていなかったのだが――、その光伸に頼まれて要を助けたこと。
 それは憲実も結構馬鹿なことをしたのではないかとちらと思ったが、話す本人は何か憑き物の落ちたような顔をしていたのだった。光伸がいない今、要に近づいてその空隙を埋めることも不可能ではないだろうに……そういう不義理など、思いも寄らない人なのは承知しているのだけれど。


 そういうことを流れるままつらつら考えていて、結局ほとんど食べないまま終えてしまった。
 普段は食べ終わるまで待ってくれる憲実が、真弓の箸が止まって大分経った頃に、「そろそろ戻るか」と言い出したのだ。
 真弓の食が細いことを踏まえても、ある程度平らげるまでは席を立たせない人なので、正直驚いた。そのままぶらぶらと歩いて、部屋のほうには向かわないことにも。
 どこへ行くでもなく二人で歩くのは、稽古の終わった後の、少々手持ち無沙汰な時間帯ならばよくあることだった。……けれども今のような時間には、各々のすべきことを各々の部屋で為していたのだ、大概は。
 先輩、と呼びかけようとしたその時、憲実が窓辺につと立ち止まった。
 廊下の明かりだけでなく、外からも頼りない光が入る。他よりもやや明るいその場所で、憲実は少し屈みこんで真弓の顔を覗き込んだ。
 無言のまま、武骨な指が真弓の唇に触れた。

 ――キッスをするのだろうか。

 戸惑うより早く、そんなことを考えていた。
 そんなはずはない、誰が通るとも知れないのに――紅潮した頬が見えないわけでもあるまいに、憲実はかまわずその指を真弓の口の中に入れた。
 歯を押し上げ、舌先に触れる。刺すような痛みに思わず身を震わせたが、それよりも自分が何をされているかを思うと、たちまち熱に浮かされて――学び舎でこの人とどういうことをしたか、躰が思い出すような感覚に囚われた。

「……大したことはないようだな」

 苦笑いしながら、憲実は言った。
 舌の火傷のことを言っているのだと気づいて、また恥じ入った――が、指はそのまま唇の辺りをなぞっている。
「よほど痛むのかと思ったが」
 食事の進まないのを、そう解釈していたらしい。謝ろうとしたが、喋ろうにも指を噛みかねず――

 確認が済んだのならそれは意味のない仕草、であるのに続けるのであれば、――これは愛撫ではないか。
 動悸に耐えかねて、目を伏せた。
 ……キッスなんて金で売れるほど他愛のないもののはずだった、なのにこの指先に触れられるだけで、全身がわなないている。
 もう片方の手が頬を撫でる。視線を上げよと促された時、口元の指を痛む舌先で舐めていた。

 憲実が何を思っていたかはわからないけれど、彼の指を咥えて、子犬のように無心に見上げた自分を、突き放しはしなかった。

 やがて背後から、複数の足音と語り交わす大きな声が響いてきて、やはり苦笑した憲実が指を抜いた。
 行くぞと素っ気無く背を押され、もつれそうな足を懸命に動かした。彼の指がそうしたように、こっそり己の唇に触れてみながら――大胆なことをしでかした、と怖れと甘さとが内側に渦巻いている。

 たとえ唇を交わすのでなかろうと、あれはキッスだった。

 ――そこに触れてみたいと、憲実が思ってくれたのならば。


*  *  *


「この躑躅は、土田さんの故郷から江戸に持ち込まれて広まったものなんだそうですよ。少しうろ覚えなので定かじゃありませんが」

 ……要が自分と憲実とのことをどの程度知っているのかは知らないが、親しいとは認識しているようだった。
 切ないような憎らしいような――いっそこの人が憲実を好いてくれていたら、もっと思い切りもついたろうに、とわけのわからぬ気持ちもわく。
 ――あれほどこっぴどく打ちのめされながら、常にまっすぐしなやかに立つ要に、言いようのない敬意のようなものもないではなかったのだった。
 「稽古、一緒に頑張ってらっしゃるんでしょう」と我が事のように嬉しそうに言う彼に、曖昧に笑って返し、そこで別れた。



 火浦の家の周りにも躑躅はあって、幼い頃そこで花を口にしたら、あずさが男の癖に紅をさしたようだと言ってまた囃し立てたので、以来躑躅にかかずらわることはなくなった。
 蜜の吸い方も忘れてしまって、花の苦さばかりが口に広がる。

 今日も要が花がらを取りにやってくるのが見えた。――その後ろに、空の篭を担いでついてくる憲実がいる。
 何のかんのと気にかけているのは健在で、今でも時折そうして手伝ってやっているようだった。

「木下さん!」

 花を咥えたまま首を傾げた。
 蜜を吸っているんですよ、と言って笑っているらしい要に、憲実は子供のすることを微笑ましく見守るような目で笑んでいる。
 昨夜の指先をふと思い出したとき、躑躅の蜜が同じように舌先に溶けた。

 ――何という酸い恋だ。

 花の陰に苦笑いを隠して、真弓は二人に手を振った。