― 蝶 篭 ―




 閉じた瞼の向こうが急に明るくなった。
 覆い被さっていた人物が退いたのだ。襟首を掴まれ、その背後から無理やりに引き起こされて。
 ――耳障りな唸り声と、どんと木の幹を叩く音。

 ちらつく木漏れ日の濃淡に(終わったのか)、身体をひどく圧迫していた重さから解放されたことをやっと知覚した。
 今まで散々にしてくれた男の気配が、降り積もった落ち葉や小枝を踏み折り、慌ただしく駆け去っていく。昨日は下卑た笑い声でいろんなこと(何もかも敵いそうにない、劣等感を刺激する――)を馬鹿にしながらだったくせに。
 残った人が、今度は自分の腕をぐいと掴んだ。
 どこにも力のこもらない、ぐにゃりとした動きにぎょっとしたようだった。
 苛立たしげな吐息が聞こえる。
 鈍く曇った心の内で(そうかまだ終わりではなかったのか)またうとうとと意識を閉じていくような、そんな感覚に陥る……確かに目を開いて、(やさしい人だと思ってた)その人を見ているのだけれど。
 馬鹿馬鹿しい幼年期の思い出を除けば、もっと馬鹿馬鹿しいことにその人が初めての人だった(そんないいもんじゃなかった)。

「木下」
 低い声が試すように(何かの名前を)呼んだ。
 木下、ともう一度。だがいらえを返すほど、それは頭に浸透してこなかった。
 苛立たしげな吐息が聞こえる。
 苛立たしげな吐息が聞こえる。
 身じろぎして覆うもののない体をかばった(ああ、ああ、怒らないで、ごめんなさい、ごめんなさい、――……)。

「……――亜弓ねえさま」

 縮こまりながら、今度は何をされるのだろうと怯えている小さな子供が、果ての見えない暗闇の中で泣いている(その子を見下ろして、それから辺りを見回した。ぞっとするような深淵に落とされたその底――)。

「木下」

 今度は訝るような響きが強くなって、答えよと揺さぶられた(何故触れる)。
 大して気持ち良くなんてなってなかった、でもきっとお仕置きからは免れない。いつもそうと決まっている。

「ごめんなさい」

 ただ悲しい気持ちで、蹲った小さな子供(僕?)を見下ろしている。
 誰も(僕達を)助け出してはくれないから、じいっと我慢して時間の過ぎるのを待つしかなかった時代(大して前のことですらない)の――

(苛立たしげな吐息が聞こえる)
(苛立たしげな吐息が聞こえる)

 細い竹で出来た定規でぴしりと叩かれて、わんわん泣きながら床に転がったのも最初のうちだけだった。
 美しい眉をしかめ、延々と断罪に熱中した女が吐き落とすそれに、ずぅっと涙をこぼして許しを請うた(許されたことなどなかったけど)。
 ――不安と恐怖の深い霧が立ち込めて、自分をどこへも行かせない。
 ここへ入学してからしばらくあの女のことなど忘れていたのに、やっぱり逃げ切れやしないのだ――背後にひたひたと迫り来ていたのだ(ああ、ああ、怒らないで、ごめんなさい、ごめんなさい、――……)。

 「鬼」に見つからないように暗がりで息を潜めた幼い日々の記憶が繰り返されて、胸の奥に押し込めた悲鳴がうずいた。

(苛立たしげな吐息が聞こえる)

 四肢を縮こめられるだけ縮こめて、来るであろう痛みや屈辱に耐えんとした。が。
 躰がごわついた服で包まれ、ふわりと浮き上がった。
 ここ数日ばかり、何度も乱暴された下肢が痛んだ。ぎくりと強張ったそこに、少しだけ配慮するような気配があったけれど、余計な声を上げないように冷たい唇を噛み締めた。


*  *  *


 誰も助けてはくれないから(そういうのは自分には来ないと、今は思い知らされもしたけれど)、進学の為に火浦の家を出られた時心底ほっとした。
 あずさに引き摺られて理乙に入る羽目になっても、何とか一年早く離れることが出来たのだからと自分を慰めた。

 ……でもどこへ行っても結局こういうことになるのなら、やっぱり自分にこそ何か大きな原因があるのだろう、と伏せた眼差しを更に閉ざした(亜弓が言ったとおり、人の嫌悪を呼び起こす汚らわしさとやらが生まれつき――)
 自分の上に乗っているのが誰でももうどうでもいいような気がした。
 何を信じていいのかわからなくなったし(あんたはいい人だと思ってたのに!)、どんな風に引き裂かれても他人事のように思えた。

(もう怒ってない?)
(怒ってませんよ)

 要はそう言ってくれたけれど、でもそれに縋っていいのかどうかわからないうちに、再び倉田に捕まってしまった。
 月村教授に何をされたのか知らないけれど。ありとあらゆる怨嗟を叩きつけられた。かつて亜弓が侮蔑を込めてそうしたように。
 ……ただ、躰をひどく抉られても、目を閉じていれば過ぎていく嵐なら、それは亜弓にされたことよりずっと優しい行為だった(あの女は魂を抉った)。
 それがこの先も絶えずとも、瞼の裏に焼きついた蝶の幻影を追っているだけで全てが終わるのだったら、何ということもない気がした。


「木下」
 口に器を押し当てられて、冷たい水が流し込まれた。
 咳き込むと支えられていた背中が優しく撫でられた(ここはどこなのか)。
 彼が立膝で自分の躰を抱え込み、正気づかせようと試みていたらしい。
 相変わらず声にも表情にも愛想はなかったが、不思議と安心してしまっていた(馬鹿みたい、あんなことの後で――)ことに気づいた。

 ……蝶の道が通るそこに、林で見たようなアゲハ蝶が舞っている。

「…………土田先輩?」
 何もかも億劫で、そのまま体重は預けっ放しにした。どうせ気まぐれに放り出していくに違いないだろうし(そうたとえば、要がどこからか一言彼を呼べば)。
 気まぐれに?――いや、本来彼はそんな人ではないはずだと、そもそも情に篤い優しい人だったと、そう思い至って涙が出た。
 そんな人さえ自分には冷酷だった、自業自得とはいえ。
 手を戒められて、頭を地面に押さえつけられた。辱めるためだけの(亜弓がそうしたような)行為で自分を打ちのめした人だ、要に言われるまま。
「……気がついたか」
「…………」
 じっとその顔を見つめた。
 どこか憐れむような目で見下ろされていた。ふとそれに苛立ちを覚えて、吐き捨てるように言った。
「……どうして追い払ってくださったんですか」
「…………」
 彼は答えなかった。水で絞った手拭で、ただ黙々と真弓の汚れたままの下肢を拭った。人目につかない場所とはいえ日はまだ高く、いつ何時……たとえば小使いのあの誰やらなどが来ないとも限らないではないかと――そこまで思って、可笑しくなって笑い出した。

 どうしても何もなかった。

「……要が気にしていた」
「…………」
 そう、そうでしょうね、と口の中で呟く。でなければ彼が自分の為に動くはずはないと。
「木下」
「…………」
「亜弓とは誰だ」
「…………」

 詰問の視線は厳しかったが、それもどこか上滑りにしか捉えられなかった。
 段々億劫になって、思考が虚ろになるに任せた。
 ……彼が、憲実が、そんなことを聞き出してどうするつもりなのか、――どうせ期待は裏切られるに違いないのだと、心のどこかで諦めていた。

「……その名がお前を苦しめている元凶か」
「…………」

 淡々と言うので、言われるまま頷いた。それがどうしたというのかと(あんたに何の関係があるのかと)。

「……でもどんな目に合ってたって誰も気づきやしないから、何もなかったのと同じ」

 小さくそう言うと彼は眉をひそめた。





「あんたも明日は来ないよ。あんたも同じだもの」





 誰と?(たとえば、今でも何も知らないでいるあずさと?)

 期待なんてしていたつもりはなかった。彼にも。
 ただ、あずさの陰に隠れて誰も目を留めない自分を、多少なりと気に掛けてくれていたことが、自分の中であんなにも(衝撃を受けるほど)彼の存在を大きくさせていたのだと、自嘲がこみあげた(そんな人はいない、そんな人はいない、見出してくれる人など、ましてや助けてくれる人など)。
 こんなことなら、こんなことなら、いっそずっと放っておかれる方がましだった。馬鹿げた気持ちを持たずに済む分――


「必要なら来る」


 ゆっくりと宥めつけるように耳元に囁かれた。


「あの人がそうしろと言うんでしょう」
「ああ――」

 くつくつと泣きながら笑ったら、溢れ出して止まらずにいた涙を舐められた。
 意外な仕草にびくりと躰を震わせると、きちんと膝の上に抱えなおされ、赤ん坊のような体勢にされてしまった。

「――お前は要のものだ。意に沿わぬ者なら遠ざける。……誰であれ」


 誰であれ(誰であれ?)。


 憲実の言葉に、真弓はきょとんとして彼の顔を見上げた。
 急に大きな掌の熱さだとか硬い膝の感触だとかが、実感になって躰に入ってきた。ひどく気恥ずかしくなって(この人にはもう全部暴かれているのに)もがこうとしたが、その腕は真弓を抱え込んだままびくともしなかった。

「……――日向さんの」

 おそるおそる、かっちり釦の留められた詰襟に手を這わせ、肩に腕を回した。――はねのけられはしなかった。

「日向さんのものになったら、先輩が守ってくれるの」
「ああ」
「『誰』からも?」
「……ああ」

 ずっとずっと胸の内に詰まり続けた、切ない呼気を憲実の肩に落とした。
(それでもいい)
 まだ信じようとしない、疑り深い部分が叫びを上げようとしていたが、何かに呑まれる如くそれは溶けて消えた。

「……――倉田さんが懲りずに来ても、先輩がまた追い払ってくれるんだ」
「そうだ」


(亜弓の声も、幻も――?)
(そうだ――)


 ――何にもなかった頃の、あの無愛想だけれど優しい声だと思った。照れたような、困ったような顔をしていた。
 じゃあいい子になる、と全身で甘えた。それがどうやら許されているらしいので。
 くしゅくしゅと首筋に額をこすりつけて、じいっと抱きしめてもらった。

 憲実は要のものだったけれど、自分はきっと憲実のものということにしてもらえるのだろう。要の計らいに期待していいなら、それはきっとそう。
 何故だかきゅうと胸が苦しくなったが、辛いのか嬉しいのかもうわからないままでもよかった。この長い腕が蝶篭でも、その中ではたはたと舞い落ちるまで可愛がってもらえたらそれでいい。

 光を浴び、蝶は林の中へ消えていった。