― 腕 詰 ―




 月村教授の少々薄気味悪い部屋には、近頃しばしば来訪する風変わりな客があり、教授も別段歓迎するわけではなかったが拒みもしないようだった。
 客人こと水川先生は、その日自分用の茶菓子をごっそり風呂敷に包んで持参し、教授の淹れた珈琲をうまうまと飲んでいた。当の教授はといえば、何やら大きな硝子の筒を弄び、時折口の端に笑みなど浮かべながら眺めている。
 その筒はしばらく前に、教授がどこぞから取り寄せたもので、何でもそれに標本を詰めるのだということだった。
 教授の部屋にある同じような標本の多くは、よそから買って集めた物だが、『それ』が余程気に入ったものやら、自分の手でもって拵えたかったらしい。
「出来上がったのかい」
 水川先生があまり見たくないとばかりに横目でそう聞くと、教授は満足そうに微笑み、「ええ」と応えた。
「置き場所を考えなければなりませんね。少々大きすぎたようだ」
「それにしても、そんな物どこから手に入れてきたんだい」
「学内ですよ。要君が取ってくれました。……ああ、君もかつては御執心だったはず」
「……お前が僕の興味の対象を覚えていたとは意外だね。しかし、そんな事物には心当たりがないし、第一、要君が取ってくれたってどういうこと?」
 教授は机上にその出来上がったばかりの標本を置き、何やら意味ありげに笑った。
 水川先生はここで少しばかり、自分のささやかな好奇心に「しまったなあ」と反省したが、それが活かされるようなものなら今の先生はないわけで、結局このときも反省だけで終わったのだった。


*  *  *


 いろいろあったあれやそれはともかく、元より弱者を気遣う性質の要は、小遣い長の老人がここしばらくの長雨のせいか、すっかり風邪を引いて寝込んでいるのを心配していたのだった。
 今となってはそんな義務はないのだが、せめて放課後は手伝いましょうと言い出し、仕立てたばかりの学生服で、以前のように走り回っている。そして夜ともなれば、老人に代わって灯りを持ち、校舎の見回りに出かけるのだった。
 最初の数夜は心配した憲実や面白がる光伸が同行したらしいが、「お仕事に差し支えなければ、先生」とお誘いがあり、教授がいそいそ御出陣と相成ったその夜のことだった。
 校舎の隅に、要が気味悪そうに視線を向ける一角がある。小使いとして働いていた折から、その一帯に近寄るのをあまり好いてはいなかったようで、月村教授は首を傾げた。
「……あそこに、壁の裂け目があるじゃないですか」
 視線に問われ、要は困ったようにそちらへ灯りを向けた。
 校舎の壁を成す、年季のいった厚い木板が、その継ぎ目の辺りでひどく裂けている。黒々とした大きな口が開いているようで、何やら不気味な呼気の如く、隙間風が吹き込んでいるのだった。
「あそこから物の怪が手を出すというんですよ。何度も修繕して塞いだんですが、その度に剥がされてしまうので、僕も気味が悪くて……誰かの悪戯だとは思うんですが」
「……物の怪? 今でもそんな噂があるのですか」
「今でも?」
「私が在学中の頃にも、そのようなことを聞いたように思います。……レイフが面白がっていましたからね」
「ああ、水川先生はお好きかもしれませんね」
 要はさらりとそう言い、後日この発言に当の水川先生は非常にしょっぱい顔をするのだが、特に何とも言わなかった。結局のところ事実であったので。
 それはともかく、月村教授はふと歩み出て、件の亀裂に近寄った。そのままそこへ手を伸べて言った。
「当時も実際に何か出たという話は聞きませんでしたが、君が怖がるのならいけませんね。……」
 おそらく月村教授としては、そこで「ほら何ともないでしょう」と言いたかったところなのだろうが、生憎そういうものに好かれる性質なのやら、月村教授の差し出した腕は、まんまとわけのわからぬ異形の手にむんずと掴まれていたのだった。恐ろしくもそれは壁の穴から伸び、人ならぬ位置に節くれだった肘がある。
 要はひっと悲鳴を上げたのも束の間、果敢に愛する養父を助けようと試みたが、異形の手はどうにもびくともしない。そうこうするうちに、長く伸びた禍々しい爪が教授の皮膚を破ったらしく、袖に血が滲んできた。
「先生!」、それを見た要は、きいいっと眦を吊り上げ、灯りを教授の手に持たせた。
「すぐ戻ります。ここで待っていてください」
 教授は別に暗闇を恐れる人ではなかったので、むしろ灯りは要にこそ持って行ってほしかったが、その辺は彼の気持ちの問題なのだろう。
 してまた、こんな時教授はいい子にして待っているのが常なので、走り去る要の背中を静かに見送ったのだが、ほんの五分ばかりで確かに彼はすぐ戻ってきた。

 その手には、丈夫で手入れの行き届いた手斧(かつて彼が仕事でよく使い込んだものと思われる)が握られていたのだった。


*  *  *


「……なるほどね」
 と、水川先生は何とも言い難い顔をした。
 達するべき目的のためならば、躊躇いというものをほとんどなくしてしまった要だから、それを大きく振りかぶって迷い一つなく振り下ろしたことだろう。もし彼が戻ったその時、何かの拍子でこの困った御仁がいなくなっていたなら、すかさず壁を叩き割って後を追うくらいのことはしたに違いない。
 ともあれ、月村教授は要が取った『それ』を大事に持ち帰ってきたというわけで、せっかくだからちゃんと保存しようと考えたらしかった。当の要は何と言っていることやら。
「しかし幹彦、そんなものに気安くちょっかいをかけるものじゃない。あちら側に連れ込まれてしまうよ。それにね」
 さて、水川先生の今の立場を慮れば、その台詞は先生こそ重々肝に銘じるべきだったはずだが、月村教授はそこには触れず、「おや、まだ何か」と問うた。
「昔から触らぬ神に祟りなしって言うじゃないか。そういった輩は、往々にして取り返しにも来るもんさ。そんなものがあったんじゃ要君だって」
「ああ……、取り返しに、ですか」
 月村教授はその時になって初めて水川先生に目を向け、小さく笑った。
 結局二人はそれっきり、要が授業を終えてやってくるまで黙っていたのだが、水川先生は「幹彦はあれでごまかしてるつもりなのかなあ」と、何故か縁に敷布を被せてある窓辺に思った。
 要がそこに謎の格闘跡を発見するのが早いか、教授が何だかわからないものの全身標本を手に入れるのが早いか、どちらにしても要はこっぴどく彼を叱るに違いないのだが。