湖北の観音(2004)
§ 観音の里めぐり(その一)
11 13(土)朝6時発、木之本ICまで約2時間。帰り午後3時半木之本IC発。
“百聞は一見にしかず”細かい予定が立てれなかったが、行ってみて大変参考になった。それでその記録を(その一)とし、観音の里めぐりは続けるつもりでいる。
●黒田観音寺は説明書き「 http://www.ex.biwa.ne.jp/~kino-kan/NewFiles/siteseen/kannon.html 」(懺悔と幸せを求める心を観音様に託して)には「賎ヶ岳の山麓に一際大きな赤い屋根の観音堂がある」とあったけれども、行ってみると清閑とした質素なお堂であった。
観音寺 二基のお墓
お堂の左手前に二基の宝篋印塔があり、黒田如水の先祖の墓とも伝えられているというので、黒田官兵衛について調べてみた。
(イ) http://www2u.biglobe.ne.jp/~m-510/hitorigoto.htm(水の五則・黒田官兵衛)
(ロ) http://www2n.biglobe.ne.jp/~bakauma/uma51.html(黒田如水の略歴)
(イ)の写真に載っている手前の二基が宝篋印塔である。官兵衛は48歳で剃髪し『如水円水』と号して隠居したという。『水の五則』は彼の作ではないかもしれないが、よい教えである。
(ロ)には官兵衛の略歴が出ている。その子長政(黒田長政)は筑前、福岡52万石を領した人である。
●賎ヶ岳(琵琶湖八景・賎ヶ岳古戦場)
へは初めて登った。以前琵琶湖から国道8号線で賎ヶ岳トンネルを通ったとき、気をつけてみていたのだがそれらしい形跡がなかった。MapFunnet の地図にも出ていない。行ってみると木立の中を切り開いただけのリフトだから判らなかったのだ。
紹介されていた『賎ヶ岳リフト』ではじめて確信できた。チャンと動いていた。
リフトの乗り場には『賎ヶ岳戦跡誌』がおいてあり、そこに尋常小学国語読本巻十一文部省『第七課賎嶽の七本槍』が載っていた。珍しいので手に入れ、できるだけそのままを次に載せてみた。旧かな旧漢字だから、今思うと難しい。
第七課 賎嶽の七本槍 春は来りぬ。越路コシヂの雪も解初めたれば、柴田勝家、先ず佐久間盛政モリマサ 解 初 をして一萬五千の兵を率ゐ、近江アフミの柳瀬ヤナガセに討つて出でしむ。待ちまう 率 けたる秀吉は、琵琶湖のほとりに十三箇所のとりでを構へ、諸将を配置して防備 をさをさ怠なし。やがて勝家また自ら五萬の兵を督し来りて盛政の軍に合す。 督 時は天正十一年四月二十日のあかつき、十三箇所のうちなる大岩山のとりでより、 幾頭かの馬をひきて余呉湖ヨゴノウミのほとりに下り来れる七八人の兵卒あり。水際 際 に寄りて馬の足を冷さんとする折しも、思ひもよらぬ敵の一隊、湖に沿ひたる一筋 冷 沿 筋 路を急ぎに急ぎて進み来る。あわてて逃げんとすれども時既におそく、大方はや 斬 にはに斬倒されたり。 危く逃延びたる一二の兵卒、はせもどって急を告ぐれば、とりでの守將中川清秀、 士卒を指揮して防ぎ戦うふ。されども不意を討たれし俄の軍に、清秀等の奮戦其 軍 のかひなく、清秀は討死してとりでは落ち、戦は午前のうちに終わりぬ。 寄手の大将佐久間盛政は、今日の戦に勝ちほこり、明日は進んで賎嶽のとりでを おとし、一挙に敵をみじんにせんと、自らは尾野路山オノロサンに野営し、大岩山鉢 峯ハチガミネなどの要所々々にそれぞれ將卒を配置したり。 夜ふけに及んで、鉢峯を守れる兵卒の一人、ふと東南の方を望み見るに、美濃 路の方面に當りてたいまつの光おびただしく、何とも知らぬ物音ざわざわとして夜 の静けさを破る。こわたゞ事ならじと、尾野路山の本営に急報すれば、盛政直に 直 物見の兵を出してうかゞはしむるに、こは如何に、降ってわいたる敵の大軍、木之 之 本の邊に満ち満ちたりと報じ来る。味方は今日の戦に将兵共につかれ果てて、物 の用に立つべくもあらず。此のまゝ新手の兵を迎えては、萬に一つの勝算もなし。 新 算 盛政は勝ってかぶとのををしめざりし油断を悔いつゝ、俄にやみの中を退却しはじ めたり。 木之本には秀吉の来れるなり。これより先、秀吉は織田信孝を攻めて大垣にありし が、二十日の正午大岩山の敗報至る。あたかも昼食の膳に向ひ居たる秀吉は、 食 持ちたる箸を投捨てて、「すは勝つたるぞ。」と手を打って喜び、先づ五十人の兵 に旨をふくめて先発せしめ、やがて將卒のそろふをも待たず「者ども続け。」と馬 旨 にむちうつて近江に向ふ。五十人の兵は行く行く百姓をつのり、かがり火をたかせ、 糧食の用意をなさしむ。夜に入れば、見渡す限りのかがり火昼をあざむく中を、一 萬五千の軍勢まっしぐらに進軍して、夜半の頃には既に木之本に到着したり。 二十日の月は上りぬ。退却軍は少しく之にたよりを得たれども、秀吉の軍は、此の 時既に處々のとりでより来れる守兵と合して、追撃すること頗る急なり。 追 明くれば二十一日の朝、盛政は賎嶽より西北に當れる高地に兵を引きまとめたり しが、此の時までも飯浦坂ハンノウラザカにふみ留つて、追来る敵を防ぎ居し弟勝政 に引きあげを命じたり。今まで賎嶽の山上より、またたきもせず戦況を見居たりし 況 秀吉、勝政の引足になりたるを見て、すかさず鐡砲組に合圖して銃火をあびせか けたれば、敵は見る間にばたばたと倒れて、一軍今や崩れんとす。秀吉はるかに 之を望み、旗本の若武者をきっと見て、 武 「てがらは仕勝ちぞかゝれかゝれ。」 と大音聲 音聲 「承る」 と、福島正則マサノリ、加藤清正、同嘉明ヨシアキラ、平野長康ナガヤス、脇坂安治ワキザカ ヤスハル、糟屋武則カスヤタケノリ、片桐且元カツモト等の荒武者ども、勇み勇んで突進す。 桐 突 中にも加藤清正は、山際のがけ路にて敵将山路正國に出であひ、片鎌槍をしごい て突いてかゝる。正國も槍を合はせ、しばらく防ぎ戦いしが、俄に槍を投捨てて大 突 手をひろげ、 「組打」 と叫ぶ。直に組合ひたる二人の勇士、ねぢ合ひ押合ひ爭ふうちに、清正やがて正 押 國をねぢ伏せたり。ねぢ伏せられながら正國、清正がよろひのすそをしっかとつか 伏 む。清正刀を抜かんとするに、かぶとのしころつゝじの枝に引つかゝりて、身のは 抜 たらき自由ならず。正國得たりと力足をふん張りてはねかへさんとせしが、ふみそ こねてあはや谷底へ轉び落ちんとす。清正手早くかぶとのをを切ったりければ、か 轉 ぶとはつゝじの枝に残つて、二人はしつかと組みたるまゝころころと轉び落つるこ と三十間許。 正國の首は終に清正の手に入りぬ。 福島正則以下の六人、またそれぞれに名ある勇士を討取つて、武名を天下にとゞ ろかせり。武器は皆槍なりしかば、世に之を稱して賎嶽の七本槍といふ。 稱 |
滋賀県指定史跡 西野水道 昭和五十九年三月三十日指定 江戸時代後期の文化四年(1807)、天保三年(1832)、同七年(1836)に当地をおそった大洪水と大飢饉により西野は壊滅的打撃を受けた。こうした惨状を救うため、西野充満寺住職恵荘は、西山を掘り貫き水道をつくり、余呉川の水を琵琶湖に流すしかないと考えた。 工事は天保十一年(1840)より着工され多くの努力・経費を費やし、幾多の苦難を乗り越えて弘化二年(1845)に水道は完成した。 水道は「近江の青の洞門」と呼ばれ、長さ二二○メートル、幅約一・二メートル、高さ約二メートルを測り、古生層の岩盤からなる山塊をくり貫いてつくられた排水用の水路で、近世の民衆史上特筆すべき貴重な遺跡である。 水道内の壁にはノミ痕が残り、水路は所々で折れ曲るなど、工事中に何度か方向とレベルを修正したことがうかがえる。 平成五年三月 滋賀県教育委員会 |