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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


王滝村訪問(2004-2005)

§ 土石流災害…王滝村(その一)

2004年11月17日、王滝村のデータは調べてあったのでそれをもとにして突然ながら同村訪問の下見に出かけた。

王滝村中心部まで2時間半、往復で5時間見ておく。実際にもそれでよかった。

中心部手前で『震災慰霊碑』にであう。次ぎのサイトに詳しく出ている。

  http://www.kajima.co.jp/news/digest/sep_2004/kajimakiko/index-j.htm
  <鹿島紀行 第9回 王滝村災害復旧……Back Nomber 2004から>

王滝村の災害は土石流災害で、今から20年前地震によって発生した災害である。次のサイトを見ると、36災害を含めて、日本には土砂災害が非常に多いことに驚かされる。

  http://www.mlit.go.jp/river/sabo/link1010.htm
  <砂防情報室 土砂災害記録>

次のサイトも参考に見ておくとよい。

  http://www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/237.html
  <王滝村(1984年9月)【立山砂防】御岳崩れ>
  http://nojyuku.hp.infoseek.co.jp/nishihe/nishihe.htm
  <サラリーマン野宿旅 西への長い旅 王滝村をさまよう>
  http://www.tateyamasabo.jp/saigai/tyuubu/outaki.htm
  <中部・関東地方の土砂災害 王滝村(S59年9月)>
  http://www.fsinet.or.jp/~minoue/tohge_4s/shirasu/shirasu.htm
  <白巣峠 王滝村に唯一残された車で登れる峠>
  http://www.geocities.jp/seki126jp/page023.html
  <春・夏のアルバム 長野県王滝村>
  http://www3.shizushin.com/jisin/hisaiti0416.html
  <長野県西部地震 落石と土石流に危機一髪>

今日は本格的訪問の下見のつもりで行ってきたので、詳しい報告とはしない。王滝村訪問本番の資料として上記の各サイトはこれからコピーする。

「震災慰霊碑」、観光案内所、「清滝」、「新滝」を訪問し、1時半になったので帰路に着いた。この季節は日没が早く動きがとりにくい。

§ 王滝村訪問(その二)

2005年7月9日、王滝村訪問。去年に続いて王滝村を訪問した。今回は御嶽山の駐車場まで直行し、そのあと森本美世さんにお会いし、御岳里宮を参拝、滝越地区と白巣峠をまわってきた。

曇り空だが家内と二人で出かけた。朝 5:20 に出たので、御嶽山の駐車場へ直行し着いたのは9:00前だった。

梅雨空でガスがまいていたので、御嶽山はガスが切れた合間の2〜3回、その姿をうっすらと見せただけだった。御嶽山は目の前にある。それでも登るには3時間くらいは見ておいたほうがいいだろうと思う。駐車場には登山に出かけた人たちの車が20台位はあっただろうか。若ければ登りたいのだが、それはもう無理かと思う。いまさらながら、若さがうらやましい。

昨年は「清滝」と「新滝」を見てきたので、清滝を登り口で見ただけにした。山の駐車場から下ってくる途中で21年前の災害で家ごと土石流にさらわれた森本さんの家に立ち寄った。そこには‘美世おばあちゃん’がいました。



【森本さんと家内】
王滝村災害に関しては次のサイト
  http://www3.shizushin.com/jisin/hisaiti0423.html
 <地震・被災地から>
を見ていたので、森本さんにお会いしたことを家内はとても喜んだ。そのときの写真とプリントをお送りした。落ちついた優雅な人柄とお見受けした。

<地震・被災地から>を開いてみると驚くべきことが語られている。地震-雷-火事-親父と一口に言い伝えているが、たしかに地震や異常降雨や雷などの自然災害は親父の文句とは比較するレベルではない。



【松越地区崩落地の銘文碑】
王滝村へ行くとき真っ先に出会うのはこの震災慰霊碑のある小公園である。銘文碑には次のように記されている。

  王滝村は霊峰木曽御嶽山の岳麓に在りて、山高く、水清き景勝の地
  として其の名諸方に冠絶せり。しかるに突如長野県西部大地震が起
  こったのは、昭和五十九年九月十四日午前八時四十八分のことで
  ある。

  一瞬にして山は崩れ、谷は埋まり、家は傾き、道壮絶する惨状を呈
  した。殊に別記する二十九名の諸子は、襲来せる泥流によって尊き
  生命失い、誠に人生は朝露の如き感を深くしたものである。ここに
  再び、秋風の声を聞き一年を迎えるに当たり、慰霊碑を建立して一
  つには諸子の霊を慰め、一つにはこの地の鎮めとして永久に霊峰の
  雲端に聳え清流の間断なく人心を潤さんことを願うものである。
     昭和六十年九月十四日
            長野県西部地震殉難者慰霊碑建立実行委員会
                      願主 王滝村長 家高卓郎


いまは緑一面にいろどられほとんど判らない姿になっているが<鹿島紀行第9回 王滝村災害復旧……Back Nomber 2004から>を開いてみると、唖然としてしまう。



【新滝】
拡大すると見やすい。左に見える小屋は行者の人たちが滝に打たれて修行するための着替え用の建物でした。



【濁沢川に建つ‘鎮め観音’】
御嶽山の8合目付近が大崩壊を起こし、大規模な土石流となって濁沢川を流下したというその橋の下手に建てられている観音様。

<王滝村(1984年9月)【立山砂防】御岳崩れ>を開くと、当時の土石流の量は途方もないものであった。

崩壊土量は3、600万u、この崩壊規模は、日本の1900年以降の崩壊のうちでは、1911年の稗田山の崩壊(長野県姫川流域)の1億5、000万uに次いで2番目に大きいものとなっている。

この土石流は15人の命を飲みこんでしまった。訪れた人は誰しもその惨状を察し冥福を祈ります。合掌…。



【自然湖】
濁沢川の崩壊土石流が王滝川を堰きとめたためにできた湖である。山合いの不気味な感じさえする静寂そのものの自然湖であった。

この湖水は15名の人たちをさらった土石流によってできたものだから、ボートを浮かべることは感情として許さないものがあった。災害から満20年たった昨年になってから、王滝村の観光ということもあったのでしょう。テレビでその映像が流れてきた。

私が王滝村を訪れることになったのはテレビ映像が引き金になっていたことも理由の一つである。

●三浦一族

自然湖を後にしてから白巣峠へ行ったのだが、途中の滝越集落で昼食をとった。食堂の庭に立札があり、

  ここは武将・三浦義明のひ孫〔三浦太夫〕こと“三浦介四郎家村”の隠里で
  木曽〔三浦氏〕発祥の地

とあった。

食堂〔水交園〕には『王滝三浦太夫』(三浦征弘著…住所-滝越 TEL 0264-48-2124)全86頁のB6版の本があったので非売品としてあったが手に入れることができた。著者はこの地区に住んでいる人である。

インターネットで調べてみると、なるほどいろいろと出てくる。まだ三浦ダムへ行っていないから今度は三浦ダムと二つの峠、真弓峠と鞍越峠へも行こうと思っている。

三浦一族についてはその折にまとめを記録する予定である。

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