【旅の記録へ】

旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


諏訪湖訪問(2005)

§ 動機

2月前立腺肥大検査のために、飯田市立病院へ行った。その折に初診受付に今井邦子という女の子がいた。「今井さん、くにこという漢字がおなじ字で有名な人がいますが、ご存知ですか」と尋ねたが知らないようすだったので「調べてご覧なさい」と告げた。

それにしても今井邦子という名まえは父母か祖父母の誰か名付け親がいたはずだし、学校の先生や友達からも何も聞いていないというのはどうしてかと思った。

今井邦子は島木赤彦とともに諏訪出身の名の知れた歌人である。今井さんに話しかけたが、自分でも、水月園で歌碑を見たほか、あまり細かいことは何も知らなかった。

そんなことがあって3月2日、その日は寒いといわれていたので諏訪湖周辺へいってこようと考えて出かけた。

データ

@マップファンネット、諏訪湖東側の地図で場所を確認

A http://www.town.shimosuwa.nagano.jp/harumiya.htm<観光ガイド春宮周辺>

このサイトには次のような項目で解説がある。 諏訪大社下社春宮 : 万治の石仏 : 慈雲寺 : 水月公園 : 下馬橋 : 竜の口 : 古文書・民芸館 (青字→リンクあり)

B http://www.town.shimosuwa.nagano.jp/akimiya.htm<観光ガイド秋宮周辺>

このサイトには次のような項目で解説がある。 諏訪大社下社秋宮 : 諏訪湖オルゴール博物館 奏鳴館 : 諏訪湖時の科学館儀象堂 : 鎌倉街道ロマンの道 : 遊泉ハウス児湯[こゆ]: 綿の湯モニュメント : おんばしらグランドパーク : 秋宮スケートリンク : 来迎寺 : 青塚古墳 (青字→リンクあり)

C http://at-ease.m78.com/kanko/sougou1.htm<諏訪観光総合案内>

このサイトには諏訪市、下諏訪町、岡谷市、茅野市の四地域にわけて、温泉 : 美術館、博物館、記念館 : 神社、仏閣 : 建造物、城郭、城址、記念碑 : イベント、街並み・風景 : ショッピング、食事、名産品の六項目の分野にわたって情報を取り上げています。(青字リンク多数あり)

D http://at-ease.m78.com/chomeijin/chomeijinlist.htm<諏訪地域の著名人>

このサイトには35名の人たちを取り上げています。20余のリンクが張られております。名前のわかる人たちを上げてみると次のような人々がある。今井邦子 岩波茂雄 上條恒彦 河合曽良 木村岳風 島木赤彦 土屋文明 新田次郎 原田泰治 平林たい子 美川憲一(いろは順)

§ 下諏訪神社春宮周辺

万治の石仏



春宮へは10時半ころ着いたのだろうか。お宮から和田峠へいく道の右側に参拝者用の駐車場があってそこへ車をとめた。お宮の西側に砥川が流れており、医王渓橋を渡るとすぐ川沿いの道をすこし行くと気持ちのいい文字で「万治の石仏・岡本太郎」の石碑が建っていた。

歩いてすぐ「万治の石仏」目に入った。昔のままになっている。近くに立札があり、次のように説明している。



   万治の石仏と伝説
     南無阿弥陀仏万治三年(1660)十一月一日
          願主名誉浄光心誉廣春

 伝説によると、諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時、
 この石を材料にしようと、ノミを入れたところ、傷口から血が流れ
 出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも
 残っている)。その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)によい石材が
 あると告げられ、果たしてそこに良材を見つける事ができ
 鳥居は完成したというのである。石工達はこの石に阿弥陀如来をまつ .
 って記念とした。尚この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町
 字石仏となっている。
                       下諏訪町



http://www.town.shimosuwa.nagano.jp/harumiya2.htm<万治の石仏>を開くと映像を見ることができる。なるほど立派なもので頭部を造ってのせてあるが、このような格好をした大きい石に頭部を造ってのせると、存外見られる石仏の感じがするものではあるまいか。

由緒書にあるようなことも、慣れていた熟練の石屋がノミを打ち込んだときに大怪我をしたという故事があったのかもしれない。いずれにしても、自然物に心を感じ崇敬する民族意識は素晴らしいものである。


上記URLの転載
 昔、近所の人たちは浮島の阿弥陀様と言いお参りしていたが、一般にはあまり知られていなかった。これを世に出すきっかけを作った人は今は亡き岡本太郎画伯。下諏訪の歴史的な情緒を愛し、しばしば訪れた画伯が、昭和49年の諏訪大社御柱祭に来た時、これを見て、「世界中歩いているがこんな面白いものは見たことがない」と絶賛、新聞や雑誌に書かれ、知名人が次々と訪れるようになり、随筆や小説にも登場一躍有名になった。おむすびのような自然石のテッペンにチョコンと首がはめこんであり、首と胴が極端にちぐはぐで、またその表情がユーモラスである。胸に袈裟となぞめいた絵が彫られている。太陽・月・雲などと見られる模様と逆さ卍(まんじ)。手を組みその右に南無阿弥陀仏と大きく彫られ、万治3年(1660)の年号と、ややわかりにくいが、「願主明誉浄光・心誉廣春」とある。願主のこの二人は僧籍にも見当たらず記録もない。この石仏には不思議なことがいっぱいある。諏訪大社春宮の大鳥居建立に関連しての伝説では、明暦3年(1657)諏訪氏三代藩主忠晴が、春宮に石の大鳥居を寄進しようとした時のこと、それを請けた大工がここにあった大きな岩を刻んで鳥居にと、ノミを入れた途端その岩から血が流れ出した。恐れをなした石工が仕事をやめたところ、その石工の夢枕に諏訪明神が立たれ、神のお告げで良材を見つけることができ鳥居は完成した。そのようなことから初めに鳥居にしようとした岩に阿弥陀如来を彫り祭ったというのがこの石仏で、背にそのノミの跡という傷が残っている。五代藩主忠林(ただとき)が、各村に命じて描かせた諏訪藩主手元絵図(東山田の図)には、この場所に「えぼし岩」とある。万治3年から70余年も後のことなのに石仏が描かれていないことも謎とされている。



砥川には中洲があり小さな浮島神社の祠がある。ここを通って下社春宮へ出る。

下諏訪神社春宮



境内へ入ると正面に神楽殿があり、それは落ち着いた立派な建物である。迂回していくと去年の御柱祭りで立てられた新しい柱がある。説明の立札には


 御柱(おんばしら)
御柱は寅年と申年の七年目毎に御宝殿の造営と共に建替えられる御神木で社殿の四隅に建立されています。この春宮一之御柱は長さ十七米余の樅の樹で霧峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、数千人の氏子の奉仕により曳行されました。
御柱祭は天下の奇祭として有名であり次回は平成二十二庚寅年に行なわれます。(諏訪大社)



とある。正面は幣拝殿で左右は片拝殿と呼ばれ国の重要文化財である。立札には次のような説明がある。



左右片拝殿(国重要文化財)
片拝殿と呼ばれるこの建物は幣拝殿と同じく安永九年(1780年)地元の大工柴宮(伊藤)長左衛門により造営されました。
秋宮に比べて幅が短く屋根は片切りになっています。

この説明板とは別に神楽殿の左方に教育委員会の春宮の案内板が立てられている。


諏訪大社下社春宮
 幣拝殿・左右片拝殿
 重要文化財 昭和五十八年十二月二十六日 指定

諏訪大社は建御名方富命(タテミナカタトミノミコト)と八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)を祀り、上社は建御名方富命(彦神)を、下社は八坂刀売命(女神)を主祭神としている。
下社の祭神は、二月から七月まで春宮に鎮座し、八月一日の御船祭で秋宮に遷座し、翌二月一日に春宮に帰座される。
下社の中心となる建築は、正面中央にあり拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある、東西宝殿からなる。東西の宝殿は茅葺・切妻造・平入の簡素で古風な形式をもち、申寅の七年毎に新築する式年造替制度がとられている。
右のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、また、その幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は、長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている。
現在の春宮の幣拝殿は安永八年(1779)に完成したと考えられる。大工棟梁は、高島藩に仕えた大工棟梁伊藤儀左衛門の弟子である柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重(1747-1800)であった。幣拝殿は、間口の柱間が一間、奥行きが二間で、背後の壁面に扉口を設ける。二階は四方がふきはなちで、屋根は切妻造・平入の銅板葺(元は檜皮葺)で、正面は軒唐破風をつける。左右の片拝殿は、梁行の柱間が一間・桁行が五間で、屋根は片流れの銅板葺である。幣拝殿の建築様式の特徴は各所につけらた建築彫刻の数の多さと、その躍動感にあふれた表現である。正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子・唐破風内部の飛竜・一階内部の小壁の牡丹・唐獅子・扉脇の竹・鶏で名作が多く建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。 諏訪大社
                                 下諏訪町教育委員会





境内には1000年にもならんとする樫の大木が二本あり東側斜面にも一本見える。一般に神社には老杉とか檜の大木があって、荘重な雰囲気をかもしだすことが多い。参詣人はポツリポツリといったところで、静かなただづまいであった。今度は今井邦子文学記念館へ向かう。

§ 下諏訪神社秋宮周辺

今井邦子文学館

地図上では秋宮から和田峠へ向かう道の最初の右折の道を、そのまままっすぐ進むと急な下り坂になっており、その坂道の途中右側に今井邦子文学館の案内板が出ているそこが目指す今井邦子臨終の家である。



入り口左側に石碑が建てられており、その右側には「中山道茶屋松屋」、左に「今井邦子文学館」と彫ってある。昔の落着いた住まいの家である。

入り口を入ると清潔さが感じられ、気持ちよい古風な家庭の雰囲気に満ちていた。ここの管理人はとても親切に案内をしてくださり、いろいろと資料をくださいました。

今日のメインの探訪地なので、それらの資料を転載しておきたい。


@URL http://at-ease.m78.com/kanko/imaikuniko/imaikuniko.htm<今井邦子文学館>

平成7年4月に邦子の実家である中山道の茶屋「松屋」を復元し開館。邦子はここで少女期と晩年を過ごしました。
この文学館は下諏訪町立諏訪湖博物館の分館となっております。
 開館時間 9:00〜17:00
 休館日 火曜日と祝祭日の翌日
 12月〜2月  この時期に入館を希望するときは諏訪湖博物館(0266-27-1627)に電話してください。
 入館料 大人:220円 
 子供:100円
 住所 長野県諏訪郡下諏訪町湯田町3364
 連絡先 電話 0266-28-9229

●プロフィール
今井邦子は本名山田くにえ。父山田邦彦、母(中田)たけの次女として明治23年5月31日四国徳島市に生まれた。明治25年2歳で下諏訪町の祖父母の家に引き取られる。17歳頃から河合酔茗主幹「女子文壇」に投稿し、文学に情熱を燃やす。明治40年、祖母が亡くなると、妹とともに北海道函館の父の家に引き取られたが父母と馴染めず、明治42年、20歳のとき、河合酔茗を頼って家出し上京、翌年「中央新聞社」の記者となり、44年、同社の記者今井建彦(後、衆議院議員)と結婚、今井邦子と改姓した。大正2年、前田夕暮主宰「詩歌」に入会したが、大正5年(27歳)、生涯を決定付けた「アララギ」に入会、島木赤彦に師事した。大正15年赤彦死去後、アララギの中で微妙な立場に立った邦子を支えてくれたのは平福百穂(ひらふく ひゃくすい)と中村憲吉、であったが、ともに昭和8年、同9年に他界。邦子は「アララギ」を離れ、昭和11年、女流短歌雑誌「明日香」を創刊、昭和の代表的女流歌人として活躍をするとともに後進を育てた。昭和20年、下諏訪に疎開。同年東京千駄ヶ谷の自宅が空襲により蔵書、資料などすべて焼失。21年「明日香」を復刊したが、23年7月15日心臓麻痺にて急逝、享年58歳。

代表作として、歌集「片々」「光を慕ひつつ」「紫草(むらさきぐさ)」「明日香路」「こぼれ梅」。
随筆評論として「茜草」「和琴抄」「秋鳥集」「歌と随想」「女性短歌読本」「樋口一葉」などがある。

●今井邦子の歌碑は下諏訪に2基存在します。
・「眞木ふ可き谷よりいつる山水の常あ多ら之きいのち阿ら志免」
眞木(まき)ふかき谿(たに)よりいづる山水(やまみず)の常あたらしき生命(いのち)あらしめ
大正14年「山水」と題する歌で『紫草』に収められている。場所は下諏訪町花見新道。中山道、甲州街道の合流点から和田峠側、慈照寺手前右側。高さ2mの大きな歌碑であるがわかりにくい場所にある。
・「高山の雲のうこきハつねなけれこヽろにとめてわれハさひ之む」
高山の雲のうごきは常なけれ心にとめて我は寂しむ
場所:下諏訪町高浜の諏訪湖畔。
邦子生誕百年を記念して下諏訪観光協会が建てたもの。




A頂いた資料(その一)
 中山道茶屋『松屋』(今井邦子文学館)

『松屋』は江戸時代この場所で茶屋をいとなんでいました。現在の建物は平成7年に、当時のおもかげをできるだけ残して再建した建物です。
正面の縦繁格子(タテシゲコウシ)(註1)の出格子、1階と2階の間にひさしを出してのれんかけをもうけるなどは商家の特徴です。また2階の通りに面した部屋や、裏庭に面した部屋の天井は一部に傾斜をつけ、宿場建物の面影を残しました。いろりや吹き抜けなども昔の建物の様子を再現しています。
『松屋』は今井邦子の父、山田邦彦が生まれた家ですが、邦彦8才の時和田嶺合戦(ワダレイガッセン)(註2)があり、邦彦は家族や親戚に連れられて武居の山奥に逃げました。だれもいない家では、夜中に戦いを終えた水戸浪士の一部が泊まっていきました。

今井邦子は山田邦彦の次女として明治23年に徳島県で生まれました。2才の時下諏訪のおじいさんとおばあさんに預けられて成人するまで下諏訪で過ごしました。20才の時、文学を志すために東京に出て新聞記者になりました。同僚の今井健彦(のちの代議士)と結婚してから島木赤彦を知り、短歌の教えを受け、昭和11年に女性の短歌結社『明日香』をつくりました。戦争がはげしくなったため下諏訪に疎開し、この場所を『明日香』社にしていました。昭和23年、58才の時この家の中でたおれ、そのまま亡くなりました。邦子の死後も長い間ここが『明日香』社として使われました。
2階は今井邦子の生涯を紹介した展示室になっています。

(註1)縦繁格子(タテシゲコウシ)
細い木や竹を縦横に一定の間をすかして組み合わせて作り、窓や戸口などにとりつけたもの
(註2)和田嶺合戦(ワダレイガッセン)
元治元年(1864)10月、武田耕雲斉を総大将とする水戸天狗党(約2000人)が、京都にいた慶喜(水戸藩出身でのちの15代徳川将軍)に尊皇攘夷の実行を迫るために現在の茨城県の那珂湊を出発し、11月20日和田峠を越えてきました。幕府から天狗党を打つようにという命令をうけた高島藩は、松本藩とともに出動し、樋橋(トヨハシ)に陣をかまえました。
戦いの当日は高島藩から『戦が始まるから百姓・町人はひなんせよ』というお触れが出され、村人らは岡谷方面や武居の山の中などへ逃げていたそうです。
午後2時ころ干草山から水戸の浪士達が現れて戦いが始まり、大砲や鉄砲の撃ちあいとなりましたが、夕方になり浪士達が奇襲をかけたので高島藩と松本藩は総崩れとなり、負け戦となりました。
戦いのあと、天狗党の総大将武田耕雲斉らは本陣岩波家に泊まり、ほかの浪士達は来迎寺やあいている家に泊まりました。そして、翌日の朝早く、伊那方面に出発しました。
この戦いで高島藩士6人、松本藩士4人、浪士軍10数人の死者がでました。見方の死者は身内に返し、浪士は戦場に埋葬され塚が造られました。その後浪士達は寒さや疲れとたたかいながら京都をめざしましたが、12月ついに金沢藩に降伏し、翌年処刑されました。
明治4年、下諏訪では浪士の戦死塚を立派にすることになり、水戸に問い合わせて戦死者を教えてもらい、戦死者のなまえを刻んだ現在の浪人塚が造られました。




B頂いた資料(その二)
 今井邦子の歌と生   川合千鶴子

  秋の野路夕日を逐ひつ物を思ひついづくまで行く我身なるらし 今井邦子の『迷走』は、あたかもその一生を暗示するごときこの一首より始まっている。邦子は明治二十三年五月三十一日、父・山田邦彦、母・武の二女として、父の任地、徳島市に生まれた。官途につき家を出た両親に代わり、祖父母の老後をみるという親たちの約束のもとに、長野県下諏訪町湯田の生家(中仙道沿い)


【旅の記録へ】