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旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


糸姫の里古川と野麦峠(2005)
ああ野麦峠:見習うべきもの
一見の価値がある。百聞は一見にしかず


まず事前(一昨年6月)に調べたのは、次のサイト

  http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/nomugito.htm
 <ああ野麦峠の旅>


  http://www.823kan.com/youkoso.htm
 <「ああ野麦峠」ゆかりの宿八ッ三館>


  http://www.gix.or.jp/~jyoudaim/touge.htm
 <飛騨.峠シリーズ 第一集 野麦峠>


  http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1996/00460/contents/004.htm
 <野麦峠 工女宿 宝来屋>


  http://homepage3.nifty.com/Ogino/gijutu/sanshi.htm
 <岡谷蚕糸博物館>



1 平成17年10月6日 天気晴れ

2 行程

  家……飯田IC……中津川IC……(下呂:高山経由)……吉城郡古河町八ッ三館
  ……美女峠……野麦峠……(木曽路経由)……家

3 記録

01 家から八ッ三館まで

朝6時出発。天気はいいはずだったのに恵那山トンネルを出て御坂PAあたりまで小雨交じり。木曽川を渡ってから中津川へ向かう車が目立って多い。高山までの道は何回か通っていて今回気がついたのだが、すべて山あいの集落になっていることだ。中津川市はもちろん木曽川の両岸である、次の付知川の両岸は一つのまとまりになって福岡町になり、山あいが迫ってくびれてる部分から上流のまとまった集落になると付知町となっていた。塞之神トンネルの尾根が分水嶺になって白川(加子母川)両岸流域が加子母村になっている。

福岡町にしても付知町にしても次の加子母村にしても、故郷の郷愁を生み出す温かい集落のまとまりを感ずる。

このことは舞台峠を境にしている飛騨川流域でも同じである。ただ、下呂町、萩原町、小坂町、久々野町のそれぞれのまとまりとなると、付知川両岸や加子母川両岸のまとまりのようなわけには感じられなかった。

飛騨川の河原の石は場所によって独特の良さを持っている。地質学のことは判らないけれど岩石の特殊な成り立ちの話を聞けば面白いに違いない。

下呂へ出て国道41号線を走ったのだが、高山市、国府町、古川町まで右折も左折もなく間違いなくたどり着くことができた。カーナビは都合よいもので細かい道ではお助け神となる。家から下呂まで2時間、高山まで3時間、古川町へ入ってから「道の駅」へ車を停めトイレ休憩とし、「八ッ三館(土地ではヤツミと呼んでいた)」への道をお聞きした。時間は9:40頃であったと思う。

02 八ッ三館



地図をみて八ッ三館を尋ねると橋があったからこの辺だとわかった。橋を渡った右角に、本光寺という大きな構えの寺があったのでそこへ入って車を停めた。本光寺境内の川沿に「野麦峠」の石碑がある。

    野麦峠

  二月もなかばを過ぎると
  信州のキカヤに向かう娘たちが (キカヤ=製糸工場)
  ぞくぞくと宮川の町へ
  集まってきます
  みんな髪は桃割れに
  風呂敷包みをけさがけにして
  「トッツァマ、カカマ達者でナ」
  それはまるで楽しい遠足にでも
  出掛けるように元気に出発して
  行ったのでございます

石碑の右手前に小さな二人の娘の像が立っている。いつも使うデジカメを修理に出し、別のデジカメを持って行っていろいろと撮影したが、なぜかHPに写真が出なかった。もう一度同じ行程を、デジカメを下げて撮影旅行したいと思う。

荒城川にかかる橋を渡ったかどまの建物が八ッ三館であった。看板で直ぐわかる。道に面した通りに旧玄関があり、今は荒城川の川沿いに面して立派か構えの玄関がある。若いご主人にいろいろ尋ねてみたが、昔の女工としてこの地方から娘たちが集まった宿というのが気にかかるのか積極的な受け答えはなかった。温かい気持ちで当時の娘さんたちのことを偲ぶ気持ちがほしかった。

それにしても、この八ッ三という宿は一流の宿らしい。

03 美女峠

飛騨古川から美女峠に向かう。41号線を高山市まで戻り、安房峠へ向かう158号線の途中から木曽街道361号線へ分かれてまもなく美女峠に達する。

峠を越えるとそこから美女高原になる。美女ヶ池の向こう側に走り乃神社、周辺にはバンガローが点在しているキャンプ場の施設もある。

美女高原ロッジの方に高山を一望するという美女峠はどこなのか尋ねる。御かみさんは足立みち子という方で、お母さんもオカヤへ女工として行ったことをお聞きした。94才だという。

昔の峠はロッジから峠道へ戻って直ぐのところに江戸街道という石碑が建っており、そこから未舗装の山道になっていた。高原野菜を作っていた人にお聞きしてみると、乗用車ではとても無理で四駆小型ならなんとか通れるという。無理をして挑戦し、なんとか頂上までたどり着いたが、大変な道であった。

今では鬱蒼とした杉林や雑木林になっていて、高山平はそこからは見えなかった。この道のりを小さい娘さんたちが歩いてオカヤまで働きに行ったのかと、道々くりかえし想像し哀切の念にかられた。大変なことであった。

ロッジの足立さんに頂いた「江戸街道」という研修資料に出ている地図によると、現在の峠と美女峠の伝説に出てくる峠とは違っているようである。資料にある「江戸街道史跡図」で見ると、「峠の観音」あたりに南無阿弥陀仏の石、接待所跡、餅売場、比丘尼屋敷、などがあり、ここが所謂“峠の茶屋”としての“美女峠”ではなかったのかと思う。

足立さんには次のような手紙を出して、お母さんに問い合わせていただきたいとお願いした。


 次の歌は知り合いの方が唄ってくれた歌で、題名も何番の歌詞なのかもわからない。
 誰か知っている人を見つけて思い出を満たしてあげたい。
 今のところ調べてもまだ判らない。

   信濃乙女は 糸繰るおとめ
   モダン都は 思わず暮らす
   蚕休みに ちょいと出て合おうか
   山の桑畑 月明かり
   信濃よいとこ 糸のくに糸のくに

   信濃みずうみ 朧に暮れて
   末世衆生は 思わず暮らす
   ………?


04 野麦峠

美女峠を越えて下りてくると、飛騨川の上流両岸の集落朝日村となる。ここの集落は福岡町、付知町、加子母村、と同じ感じの集落であり、心の休まる故郷の匂いに包まれる。道の駅“ひだ朝日村”で昼食にし、よもぎ蕎麦を頼んで食べる。仄かに蓬の味がするソバだった。

朝日村には朝日貯水池、高根第二ダム、高根第一ダムなどがあり、車は高根第一ダムの高嶺大橋から361号線と分かれて野麦峠に向かう。途中にある部落から乗鞍岳の美しい姿を望むことができた。乗鞍の四季折々の山容が楽しめる部落である。土地の人々はそんなには感じないかもしれないが、この部落はそうした意味からは恵まれた場所にある。

野麦集落から自動車道は左山道に入るが、野麦旧道は飛騨川源流沿いをさかのぼってお助け小屋へ通じていた。

「野麦峠の館」で話をお聞きしたのだが、三月から仕事が始まったというから冬の雪道をかき分けて歩む姿を想像すると、いたたまれない気持ちが胸をつく。故郷へ帰るのも十一月の終り頃というから、これまた大変な難路に違いはない。糸姫たちは私たちの想像以上の困難に立ち向かわなければならなかった筈である。


  飛騨.峠シリーズ 第1集  野麦峠

乗鞍と御岳の山裾の間を通る野麦峠があります。古くは、江戸街道といわれ 長野経由で関東方面へでる唯一の峠だったそうです。この峠を通って、富山湾の鰤などの海産物が信州(長野)へ入っていったそうです。そうですから、信州では“飛騨鰤”といわれ、今でいうブランド商品だったそうです。

そして、この峠は大竹しのぶ主演で映画化された“あゝ野麦峠”山本茂美著書で有名です。

交通機関のバスは高根村の上ケ洞までしかない。車で久々野町から朝日村方面へ、朝日村で国道361号に合流するので、国道を木曾福島方面へ、高根村上ケ洞から2.3キロ行ったところに野麦峠への入口がある、上ケ洞からは道路幅が狭くカー ブも多いので注意、久々野町から、およそ1時間10分の行程。高山からR361を利用するルートもありますが、美女峠越えの難所(山間道路で道幅が狭くカ ーブが多い)。特に目的がなかったら久々野町方面から入った方がよい。峠の頂上には,峠の茶屋が3建と村営展示館がある。

ここから見る乗鞍岳の雄大な山容には圧倒されます。


☆お助け小屋



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