【旅の記録へ】
旅の記録

………月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり………
人は生まれ、そして死んでいく


高麗神社訪問(2006)
渡来民の文化を訪ねて


高麗神社旅行計画

13日韓郷神社境内で「むつみ会」が行なわれたとき、時間うずめに韓郷神社にかかわる話を少しした。その折に、韓郷の名前の由来は渡来民の産土神社としての名残であろうとの見解を明言した。

すでに「韓郷社社誌」が発行されており、そこには渡来人の産土神社については何も触れなかった。誰しもその思いがあるのだろうが、あまり触れてこなかった。

触れてこなかった訳は、渡来民についての知識がなかったことからである。高麗神社を知ることになり、関係するHPを調べているうちにこのことが明らかになったと考える。

渡来民のもたらした文化は計り知れないほどの影響を与えたに相違ない。それに征服、被征服などの不協和音の話は一切伝わっていない。異文化の融合ということについてはヘレニズム以上の歴史事実なのである。私たちはこの重大な歴史過程を基本的に認識しておかなくてはならない。

ここ数日関係するデータの印刷(「韓郷にかかわる高麗神社と渡来人」)にかかった。A版130頁余になったが、まだ50頁位は印刷しなければならない。

若いときに調べた韓郷に類する名前の神社を神社年鑑で調べなくてはならないと思っている。それと、関東方面のデータ収集の人たちとの意見交換を進めなくてはならない。

こうしたことは韓郷神社の社誌とは直接つながるものではないが、だだ、異文化の融合の証をはっきりと認識していきたいからである。

旅行の日取りは決まっていないが、五月十日前後がいいのではないかと思っている。

高麗神社訪問<11日〜12日>

韓郷神社に係って関心のある人三人と高麗神社を訪ねる旅をした。日高市の高麗神社と渡来民の人たちが船で来たといわれる大磯の高麗(高来)神社が目的ででかけた。

時間の都合で多摩川上流にある吉川英治記念館と川合玉堂美術館を見学し、二日目は同じような理由から白州次郎武相荘も見学した。

日程計画


  高麗神社を訪ねて

 1 日時   平成18年5月11〜12日

 2 参加者  原一也  下平とみ子  下平守  下平好上

 3 概要

 ☆ 11日 出発       07:00
      松川IC
      双葉SA           休息
      八王子      10:00   (\4850)
      吉川英治記念館
      玉堂美術館
      〔昼食〕     12:00〜
      圏央道経由<青梅IC→狭山日高IC>
      高麗神社     01:30
      聖天院      04:00
      圏央道経由<狭山日高IC→日の出IC>
      お宿 『山水』  05:30

   12日 出発       08:30
      八王子バイパス経由
      白州次郎《武相荘》10:00
      129号線南下
      高来神社     11:00
      高麗山公園
      〔昼食〕     12:00〜

      〈大磯駅観光案内所〉《鴫立庵》   旧島崎藤村邸    〈大磯海水浴場〉
       大磯の港     〈照ヶ崎〉   エリザベス・サンダース・ホーム 〈新島襄の碑〉
      《東海道松並木》  〈化粧井戸〉  旧吉田邸

      帰路       03:00
      八王子経由
      両平着      08:00   (\4850)


おおよそ、一万円で仕上げようと考えたのだが、15000円余かかってしまった。

経費のまとめは次の通りであった。


    高麗神社を訪ねての旅  会計報告    平成 18/5/11〜12 実施

品目        代金   品目計  一人当代金

通行料、燃料         21178   (5294.5)

  八王子     4850
  あきる野    650
  御殿山     250
  沼津      1550
  富士      650
  西富士     200
  松川      3350
  あきる野給油  5078
  諏訪湖SA給油 4600

見学             8000    (2000)
  吉川英治    2000
  川合玉堂    2000
  白州次郎記念館 4000

宿泊・食事          31436   (7859)
  昼食      5000
  海川料理山水  26436

総合計            60614   (15153.5)


宿代 6000円、交通費 4000円、計 10000円位の概算で見学料や食事代など
拾わなしに考えていたので一万円を大分超過してご免なさい。

宿はトクーから檜原街道の秋山渓谷にある「海川料理山水」を選んだ。

皐月の山の緑と峡谷の清い流れを目にし、夜は鉱泉の湯につかって気持ちよいカジカの声を耳にして、山あいの静かな宿が満喫できた。

    

     <高麗神社拝殿>
        埼玉県日高市新堀833

      写真は左から
        原  一也
        下平  守
        高麗 澄雄
        下平とみ子
        下平 好上

    

    <長屋門から見た旧白州邸武相荘>東京都町田市能ヶ谷町1284

昭和18年農家の家を手に入れて移り住んだ。英国流にいえばカントリージェントルマンであった。

詳しいことは旅行手引きとして用意したプリントを参考にすればよい。テレビ放映のため大勢の人が「武相荘」に押しかけていた。

    

    <大磯の高麗山山麓にある高来(高麗)神社>

この大磯の地には高麗という呼び名が幾つもあるというのに、ここの宮司はうちのお宮は渡来系とは関係がないとニベもなく言うそうである。

なにか凝り固まった考え方にぶち当たったような感じである。偏狭な意識を打ち破って大らかな考え方にたって平和の実現に向かいたいというの大事な折なのに困ったことである。この社の右から裏山へ登るようになっていて、左は男道で急坂のようであり右は女坂で帰りのなだらかな道であるという。

高麗山公園は海沿いの海抜181mの山頂にあって眺望は素晴らしい。高麗山はこの東にあり海抜165mの樹相豊かなこんもりした山である。

吉川英治の記念館には、手入れの行きとどいた立派な庭園がありました。そこには太い椎の大木があり説明板が建ててありました。

      椎

   草思堂庭園のシンボルともいえるこの
   大樹は「椎」の木で樹齢五〜六百年と
   推定されます。
   吉川英治は、この樹下に毛氈を敷き、
   夫人のたてたお茶で、好日をたのしむ
   こともしばしばでした。

と解説していた。カメラに収めた書斎への石段には看板が建てられていた。

      書 斎

    この書斎は、先代野村氏が明治期に
   建てたもので、芳川英治が書斎として
   使用していました。
    創作に没頭した英治は、三度の食事
   もここでとるほどで、百万読者を熱狂
   させた「新・平家物語」もこの書斎か
   ら生まれました。

聖天院には次の看板が建てられている。

      高麗山聖天院の由来

   今からおよそ千三百年前高句麗滅亡によって我が国に帰化していた
   人民のうち駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国の高句
   麗人一七九九人を元正天皇の霊亀二年(西暦七一六年)武蔵国に移し
   高麗郡が置かれたことが続日本紀にみられる。この高麗の地は郡の
   中心をなし明治二十九年まで高麗郡であった。高麗王若光は高麗郡
   の長として荒野を開き産業を興し民生を安定し大いに治績を収めた。
   王は没後神に祀られ(現在の高麗神社)たがその侍念僧勝楽は王の冥
   福を祈るため一寺を建立として果たさず天平勝宝三年示寂したので
   その弟子弘仁は聖雲(王の第三子)とともに師の遺志を継ぎ寺を建て
   師の遺骨を納めてその冥福を祈った。その寺が高麗山聖天院勝楽寺
   である。王が祖国から守護仏として持ってきた聖天歓喜仏を本尊と
   したので聖天院の名をもって広く知られている新義真言宗知山派に
   属しかつては門末五十ヶ寺を擁した名刹で当代までに実に五十世法
   燈は絶えることなく継承されている。



【旅の記録へ】