開田高原(2006)
木曽義仲・開田高原を訪ねて
西暦 | 年号 | 月日 | . |
1154 | 久寿元 | . | ●義仲(駒王丸)生まれる。 |
1155 | 久寿二 | 8/16 | ●義仲の父義賢、武蔵国比企郡大蔵館で甥の源義平に討たれる。 |
. | . | . | ●義仲(駒王丸)木曽に逃れ、中原兼遠に養育される。 |
1156 | 保元元 | 7/11 | ●保元の乱始まる。 |
1159 | 平治元 | 12/9 | ●平治の乱始まる。 |
1160 | 永暦元 | . | ●源義朝殺され、源頼朝伊豆に流される。 |
1166 | 仁安元 | . | ●義仲元服。 |
1177 | 治承元 | 6 | ●京都・鹿ヶ原の陰謀発覚。 |
1179 | 治承三 | 11/15 | ●平清盛クーデターを起こし、後白河法皇を閉じこめ院政を停止する。 |
1180 | 治承四 | 4/9 | ●源頼政、以仁王から平家追討の令旨を得て、諸国の源氏に伝える。 |
. | . | 5/26 | ●以仁王、源頼政、義仲の兄仲家ら敗死。 |
. | . | 6/2 | ●清盛都を福原へ移す。 |
. | . | 8/17 | ●源頼朝伊豆にて挙兵。 |
. | . | 9/7 | ●義仲挙兵。 |
. | . | 10 | ●義仲、上野国に入り12月信濃に戻る。 |
. | . | 12/28 | ●平重衡、東大寺、興福寺を焼く。 |
1181 | 養和元 | 6/13,14 | ●平家方の城氏、越後より信濃へ攻め入る。義仲これを横田河原(長野市)に |
. | . | . | 迎え撃って大勝する。 |
. | . | 9/4 | ●平家軍、義仲の軍と越前水津に戦い、敗退して京都へ退く。 『吾妻鏡』 |
1182 | 寿永元 | . | ●この年凶作。義仲、頼朝、平氏の三勢力対峙する。 |
1183 | 寿永二 | 3 | ●義仲、頼朝と不和となる。義仲、長子義高を人質として送り和解する。 |
. | . | 4/17 | ●義仲追討のため、平経正・通盛軍、北陸道へ進む。 |
. | . | 5/9 | ●義仲兵を進めて、越中盤若野に平軍を破る。 |
. | . | 5/11 | ●越中砺波山の東に陣をとり、夜に入って平維盛の大軍を大いに破る。『平家物 |
. | . | . | 語』 |
. | . | 6/1 | ●さらに平軍を追って加賀篠原に破る。義仲の武将手塚光盛、斎藤実盛を討つ。 |
. | . | 6/10 | ●義仲、越前の国府に入り、覚明に延暦寺へ牒状を書かせ僧徒を誘う。 |
. | . | 7/25 | 延暦寺、義仲の求めに応ずる。 |
. | . | . | ●義仲、京都に迫る。平家、安徳天皇を奉じ京都を逃れる。 |
. | . | 7/28 | ●後白河法皇、一時延暦寺難を逃れる。『玉葉ほか』 |
. | . | 8/10 | ●義仲、行家京都へ入り、後白河法皇に拝謁。平家追討の院宣を受ける。 |
. | . | . | ●義仲は従五位下左馬頭兼越後守に、行家は従五位下備後守に任ぜらる。 |
. | . | 8/15 | 朝日将軍の称号を賜る。 |
. | . | 9/20 | ●義仲、伊予守に任ぜらる。 |
. | . | 10/1 | ●義仲、平氏追討のため播磨へ向かう。 |
. | . | 11/19 | ●義仲軍、備中水島の戦いで平軍に敗れる。 |
. | . | 12/15 | ●義仲、法住寺殿を攻め法皇の近臣らを解官する。 |
1184 | 元暦元 | 1/10 | ●法皇、藤原秀衡に頼朝追討の院宣を下す。『吉記』 |
. | . | 1/20 | ●義仲、後白河法皇より征夷大将軍に任じられる。 |
. | . | . | ●源範頼・義経の軍、勢多・宇治で義仲軍を破り京都へ入る。 |
. | . | . | ●義仲、近江の粟津に戦死する。今井兼平、根井行親らも戦死。 |
. | . | 2/7 | 樋口兼光も京都で斬られる。 |
. | . | 2/19 | ●一ノ谷の合戦。 |
. | . | 3/24 | ●屋島の戦。 |
. | . | 4/21 | ●壇ノ浦の戦。平家亡ぶ。 |
1185 | 文治元 | 5/1 | ●義仲の長子義高、鎌倉を脱出するが4月27日武蔵国入間河原で討たれる。『吾 |
. | . | . | 妻鏡』 |
. | . | . | ●源頼朝、木曽義仲の妹宮菊を鎌倉に召し、美濃国遠山庄内の一村をあてがい、 |
. | . | . | 信濃の御家人小諸太郎らに扶持させる。 |
唐沢の滝 Karasawanotaki Waterfall 木曽福島町 正面に見える滝が「唐沢の滝」で、木曽福島から飛騨国高山に通ずる飛騨街道の名勝の一つになっていました。 旧道はこの滝の右斜面を登り滝の上に出ました。 高さは七十五間(135メートル)、四段の滝でしたが道は度々改修され、滝の落下地点もそのために低くなりました。現在の滝の高さは約100メートルです。 明治には、黒川八景に数えられ、また、寝覚の床、王滝の氷ヶ瀬と共に、木曽三勝といわれました。 |