チュルゴー (Anne Robert Jacques Turgot) (1727―81)
フランスの政治家。 重農主義者。 家は貴族。 父はパリ市長を務めた。 パリ大学神学部に入学し、22歳で修道院長につく。 が、ボルテールの文学に触発されて、信仰生活に懐疑を覚え、転じて官界に身を投じる。 25歳から約8年間パリ高等法院訴願官の職につく。 この間、医者で重農主義者のケネーと交際し、ディドロの『百科全書』にも寄稿する。 1761年、リモージュのアンタンダン(地方監察官)に抜擢(ばってき)される。
さまざまの改革や農業工事をおこし、13年間でリモージュを一変させた偉業に、国王ルイ16世が着目し、74年8月財政総監に彼を迎えた。 この日からフランス王制に国家改造の革新が持ち込まれた。
すなわち「破産なく、増税なく、募債なく」を標語に、生産第一主義を唱え、持論の自由主義経済策を推進した結果である。
剛毅(ごうき)ながら深謀を欠く彼は、矢つぎばやに、宮廷冗費の削減をはじめ、穀物統制の撤廃、麦の取引の自由化、賦役、ギルド制の廃止、臨時地租の徴集などを高等法院に登記せしめ(1776年3月)、波瀾(はらん)を巻き起こした。
とくに地方制度の改革案で、市会や村会の身分制を廃止する法案を提起したため、領主貴族や法服貴族から反撃を受け、また麦の取引の自由化に反対する徴税請負人や財政ブルジョアの抵抗を浴び、さらに穀物統制の撤廃に伴う消費物価の上昇を恐れる大衆からも見限られ、76年5月に辞任。 同時に、先の諸案もうやむやに葬られた。 主著に『富の形成と分配についての省察』がある。
カロンヌ (Charles Alexandre de Calonne,1734年1月20日 - 1802年10月30日)
北フランスのドゥエに生まれ、同地の徴税官、高等法院検事になる。 メッス、リースの地方総監を経て、そこで優れた行政手腕を発揮した。
1783年にネッケルの後任として財務総監に就任したが、財政を根本的に変革させなければ、国家は破産してしまうという状態まで追い詰められ、特権身分の免税を廃止して課税の平等を実現しようとした。 これらは特権階級の利益を著しく侵すものなので反対され実現しなかった。 そのため1787年名士会(国王の任命による王族・大貴族・司教からなる身分制諮問議会)を召集してその支持を得ようとしたが、強硬な反対を受けて失脚。 ロメニー・ド・ブリエンヌに財務総監を譲り、イギリスに亡命した。
フランス革命期にはイギリスで亡命貴族を援助して、反革命運動を組織した。 1802年、ナポレオン・ボナパルトに赦免され帰国したが、すぐにパリで死亡した。
名士会
名士会(めいしかい, 仏:Assemblee des notables)とは、フランスで国王の諮問により重要議題を議論する場として、中世から近世にかけて存在した会議のことである。
国王はこの会議を招集するにあたり、王族、貴族、司教、裁判官および場合によっては地方政府の官僚をリストアップし、召集された名士に対して、諮問する議題を与える。 会議では、議題に関して論じられるが、召集される人物としてリストアップされること自体が名誉であったことから、基本的には議題に対する反対意見を表明する場ではなく、付帯意見を表明する程度であった。
国王はこの会議での諮問を経ることで、国政に対して重要な影響のある起案を、国民の代表者による議論を経たとして、法としての登記と国内への発布への裏付けとすることができ、主に新税の設立の承認のために用いられた。
最後の開催となった、ルイ16世によって召集された1787年および1788年の名士会は、当時の財務総監カロンヌの要請により、破たんに近い状態にあった国家財政を立て直すための印紙税と地租の承認を得るため、およそ150年ぶりに召集された。 しかし、この会議では、大土地所有者である貴族や僧侶などの特権階級への課税につながる新税についての議論であったため、名士会の大半はこれに反対し、カロンヌの政敵からの個人攻撃などもあり、新たな起債の承認や、穀物取引の自由化などを承認しただけで終了した。 さらに、新税についてはより幅広く国民各層を招集する三部会を開くべきだとの意見が表明されるに至り、名士会招集の利点が失われたため、フランス革命の進展もあり、これ以降は途絶することとなった。
フランス革命 全国三部会の召集
ジャック・ネッケル1780年代、フランスでは45億ルーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。 赤字が膨らんだ主な原因は、ルイ14世時代以来の対外戦争の出費、アメリカ独立戦争への援助、宮廷の浪費である。 当時の国家財政の歳入は5億ルーブルであり、歳入の9倍の赤字を抱えていた事になる。
そこで当時の国王ルイ16世はテュルゴーを財務長官に任命し、財政改革を行おうとした。 第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、テュルゴーは聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとした。 しかし貴族達は猛反発し、テュルゴーは十分な改革を行えないまま財務長官を辞任する。
ルイ16世は次にネッケルを財務長官に任命した。 ネッケルも免税特権の廃止によって財政の改善を図ったが、特権身分の反対にあい挫折した。
パリ高等法院(Parlement de Paris)は、全国三部会のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた。 国王は1788年7月に全国三部会(Etats generaux, 各身分の代表から構成される身分制議会)の開催を約束した。 翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日、ヴェルサイユで開会式が行われた。 国王は三部会を主導しての問題解決を目論んでいた。 しかし重税に苦しむ第三身分の鬱積はすでに頂点に達しており、複雑化・多様化した国内事情ゆえ、従来の身分制では問題を解決できなかった。
三部会が始まるとすぐに議決方法で議論が紛糾した。 特権階級である第一、第二身分はほぼ同じ意見を持っており、各身分に1票とする方法を主張した(第一・二身分1+1:第三身分1)。 これに対し第三身分は議員1人に1票を主張した。 第三身分の議員の人数が最も多いからである(一説に、第一・二身分308+290:第三身分594。 このままでは第三身分のほうが若干少ないが、第一・二身分の中にはラファイエットのように第三身分に味方する者もいた)。 議決方法をめぐる討議は40日間も堂々巡りを続けた。