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色紙、短冊の記録 その一 : …………… 【贈呈などの記録のため】



01 短冊 ものいへば くちびる寒し 秋の風(一枚)  水鏡
         … 2010.4.15千代同級会15人へ一枚ずつ …

02 短冊 学而時習之 不亦説乎(二枚)  水鏡

03 短冊 有朋自遠方来 不亦楽乎(二枚)  水鏡

04 短冊 人不知而不慍 不亦君子乎  水鏡(二枚)

05 短冊 巧言令色 鮮矣仁(一枚)  水鏡

06 短冊 五箇条の御誓文  (二枚)
        一 広く会議を興し 万機公論に決すべし
        一 上下心を一にして さかんに経綸を行うべし
        一 官武一途庶民にいたるまで おのおのその志を遂げ
           人心をして倦まざらしめんことを要す
        一 旧来の陋習を破り 天地の公道に基づくべし
        一 智識を世界に求 大いに皇基を振起すべし
                        水鏡

07 短冊 以春風接人 以秋霜自粛(二枚)
               恵那市岩村田 岩村田藩士佐藤一斉

08 短冊 「小諸なる古城のほとり」

       小諸なる 古城のほとり
       雲白く 遊子(ゆうし)悲しむ
       緑なす はこべは萌えず
       若草も 藉くによしなし
                        水鏡

09 短冊 親鸞聖人

       明日ありと 思う心のあだ桜
           夜半に嵐の 吹かぬものかは
                      水鏡

10 色紙 埴生の宿

       埴生の宿も わが宿
       玉のよそい うらやまじ
       のどかなりや 春のそら
       花はあるじ 鳥は友
       おお わが宿よ
       楽しとも たのもしや

       ヒュームのいう幻影の果敢なさ、人間本来無一物、
       何とすばらしい表現だろうか。
                       庚寅睦月  好上

11 色紙  月見草

       夕霧こめし 草山に
       ほのかに咲きぬ 黄なる花
       都の友と こぞの夏
       たおり暮らしし 思い出の
       花よ 花よ 
       その名もゆかし 月見草

       風清く たもと軽し
       友よ友よ 来たれ丘に
       静けくも 月見草
       花 咲きぬ
                   文部省唱歌 庚寅睦月  好上

12 色紙  君死にたまふ ことなかれ

       ああおとうとよ 君を泣く
       君死にたまふ ことなかれ
       末に生まれし 君なれば
       親の情けは まさりしも

       親は刃を にぎらせて
       人を殺せと をしへしや
       人を殺して 死ねよとて
       二十四までを そだてしや

       女流詩人与謝野晶子が詠った、非常に知られた反戦歌
                       庚寅睦月  好上

13 色紙  天地人

       天の時地の利に叶い人の和とも整いたる大将というは
       和漢両朝上古にだも聞こえず
       いわんや末代なおあるべくとも覚えず
       もっともこの三事整うにおいては弓矢も起こるべからず
       敵対するものもなし
              「天地人」より  庚寅睦月  好上

14 色紙  「若菜集」初恋

       まだあげ初めし前髪の
       林檎のもとに見えしとき
       前にさしたる花櫛の
       花ある君と思ひけり
             藤村「若菜集」初恋  庚寅睦月  好上

15 色紙  「若菜集」初恋

       やさしく白き手をのべて
       林檎をわれにあたえしは
       薄紅の秋の実に
       人こひそめしはじめなり
             藤村「若菜集」初恋  庚寅睦月  好上

16 色紙  千曲川旅情の歌

       小諸なる 古城のほとり
       雲白く 遊子(ゆうし)悲しむ
       緑なす はこべは萌えず
       若草も 藉くによしなし
       しろがねの衾(ふすま)の 岡邊
       陽に溶けて 淡雪流る
             藤村「千曲川旅情の歌」
                        庚寅睦月  好上

17 色紙  千曲川旅情の歌

       暮れゆけば 浅間もみえず
       歌かなし 佐久の草笛
       千曲川 いざよう波の
       岸近き 宿に上りつ
       濁り酒 濁れる飲みて
       草枕 しばし慰む
             近代以前の旧家のもつ家の重みやしがらみが
             維新変革を支えきれずに音をたてて崩れていくのを
             藤村は実感したことだろうと思う
                        庚寅睦月  好上

18 色紙  若菜集「高楼」

       遠き別れに 耐えかねて
       この高殿に 登るかな
       悲しむ勿れ 我が姉よ
       旅の衣を ととのえよ
             若菜集「高楼」より
                        庚寅睦月  好上

19 色紙  若菜集「高楼」

       別れといえば 昔より
       この人の世の 常なるを
       流るゝ水を 眺むれば
       夢はずかしき 涙かな
             若菜集「高楼」より
                        庚寅睦月  好上

20 色紙  若菜集「高楼」

       君がさやけき 目のいろも
       君くれないの くちびるも
       君がみどりの 黒髪も
       またいつか見ん この別れ
             若菜集「高楼」より
                        庚寅睦月  好上

21 色紙  映画「喜びも悲しみも幾年月」

       俺ら岬の 燈台守は
       妻と二人で 沖行く船の
       無事を祈って 灯をかざす
            灯をかざす
             長い間ご苦労様でした 感謝いたします
             有難うございました
                        庚寅睦月  好上

22 色紙  映画「喜びも悲しみも幾年月」

       星を数えて 波の音聞いて
       共に過ごした 幾歳月の
       よろこび悲しみ 目に浮かぶ
            目に浮かぶ
             苦楽一如という 四国巡礼も
             歩む一歩々々が目に浮かびます
                        庚寅睦月  好上

23 色紙  東照宮遺訓

       人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
       急ぐべからず 不自由を、常と思えば不足なし
       心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
       堪忍は、無事のいしずえ怒りは、敵と思え
       勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
       害、其の身に到る 己を責めて、人を責めるな
       及ばざるは、過ぎたるに優れり
                        庚寅卯月  水鏡

24 色紙  水鏡述懐

       滅びの相を知りて物事に執着せず、
       在るがまま生を送るこそいみじきことと存じ候。
       老いてなお寂しさを知らざるは心やすまることなし。
       花の散るごとく木の葉の落つるごとく、
       幕を引くこと美しく存じ候。
                        庚寅水無月  水鏡

25 短冊  水鏡述懐

       木の葉みて ちりゆく心の むずかしく
                        庚寅水無月  水鏡

26 短冊  白楽天の漢詩「長恨歌」

       在天願作比翼鳥・・・・天にあっては願わくは比翼の鳥となり
       在地願為連理枝・・・・地にあっては願わくは連理の枝となりましょう
          白楽天の漢詩「長恨歌」   庚寅水無月  水鏡

27 短冊  虎渓山 保寿禅院

       信はこころを開き
       疑はこころを閉じる
                    虎渓山 保寿禅院   水鏡

28 短冊  恵那市岩村平尾鉐遺跡の石碑

       手枕は 花のふぶきに うづもれて
         うたたねさむし春の夜の月
                御題「春月」 下田歌子    水鏡

29 色紙  宮沢賢治「早春」

       黒雲峡(カヒ)を乱れ飛び
       技師ら亜炭の火に寄りぬ
       げにひとびと崇(アガ)むるは
       青き Gossan 銅の脈
       わが索(モト)むるはまことのことば
       雨の中なる真言(シンゴン)なり
                宮沢賢治「早春」

30 色紙  宮沢賢治「春」

       陽が照って鳥が啼き
       あちこちの楢の林も
       けむるとき
       ぎちぎちと鳴る汚い掌(テノヒラ)を
       おれはこれからもつことになる
                宮沢賢治「春」

31 色紙  渋民村斉藤宅での思い出の話

       石をもて 追はるるごとく ふるさとを
         出(イ)でしかなしみ 消ゆる時なし

32 色紙  斉藤宅前の石碑

       かにかくに 渋民村は 恋しかり
         おもひでの山 おもひでの川
                斉藤さん宅前の石碑

33 色紙  鶴飼橋公園の石碑

       やはらかに 柳あをめる 北上の
         岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
                鶴飼橋公園の石碑

34 色紙  岩手山は故郷の山

       故郷の 山にむかひて いふこと無し
         ふるさとの山は ありがたきかな

35 色紙  黄金律

       自らになされんと欲することを、他人になせ

         Do to others as you would be done by
           黄金律 (The Golden Rule )
           聖書マタイ伝の山上の垂訓のひとつ、
           「自らになされんと欲することを、他人になせ」
         (Do to others as you would be done by)は、
         人類のもっとも崇高な掟で「黄金律」と呼ばれます。

       人の悦びを、自分の悦びとせよ (おもてなしの心) 水鏡

36 色紙  灯台守1

       こおれる月かげ 空にさえて
       ま冬のあら波 寄する小島(オジマ)
       思えよ灯台 守る人の
       尊きやさしき 愛の心
              灯台守1 作詞:勝承夫

37 色紙  灯台守2

       はげしき雨風 北の海に
       山なす荒波 たけりくるう
       その夜も灯台 守る人の
       尊きまことよ 海を照らす
              灯台守2 作詞:勝承夫

38 色紙  旅泊1

       磯の火ほそりて 更くる夜半に
       岩うつ波音 ひとり高し
       かかれる友舟 ひとは寝たり
       たれにか語らん 旅の心
              旅泊1 作詞:大和田建樹

39 色紙  旅泊2

       月影かくれて 鴉啼きぬ
       年なす長夜(ナガヨ)も 明けに近し
       起きよや舟人 おちの山に
       横雲なびきて 今日ものどか
              旅泊2 作詞:大和田建樹

40 色紙  助舟(スクイブネ)1

       激しき雨風天地暗く
       山なす荒波たけり狂う
       見よ見よかしこにあわれ小舟
       生死(ショウシ)の境と救い求む
            助舟(スクイブネ)1 作詞:佐佐木信綱

           原曲=イギリス曲燈台守  尋常小学5(明治38) 検定小学5(昭和4)

41 色紙  助舟(スクイブネ)2

       救いを求むる声はすれど
       この風この波誰も行かず
       見よ見よ漕ぎ出(ズ)る救い小舟(オブネ)
       健気な男子ら守れ神よ

           異名同曲  旅泊(明治22) 助舟(昭和04) 燈台守(昭和22)

42 色紙  徒然草

       つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、
       心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書
       きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

43 色紙  徒然草

       あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ
       住みはつる習ひならば、いかに、もののあはれもなからん。
       世はさだめなきこそ、いみじけれ。

44 色紙  徒然草

       命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。
       かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋をしらぬもあるぞかし。
       つくづくと一年(ヒトトセ)をくらすほどだにも、こよなうのどけしや。
       飽かず、惜しと思はば、千年(チトセ)を過すとも、
       一夜の夢の心ちこそせめ。

45 色紙  平家物語

       祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
       娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
       おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。
       たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ヒトエ)に風の前の塵に同じ。

46 色紙  方丈記

       ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
       淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
       久しくとどまりたる例(タメシ)なし。世中にある人と栖(スミカ)と、
       またかくのごとし。

47 色紙  方丈記

       朝(アシタ)に死に、夕(ユウベ)に生るるならひ、
       ただ水の泡にぞ似たりける。

48 色紙  草枕

       智に働けば角(かど)が立つ。情に棹させば流される。
       意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。
       とかくに人の世は住みにくい。 

49 色紙  東照宮遺訓

       人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し、いそぐべからず、
       不自由を常と思へば不足なし、こころに望おこらば、
       困窮したる時を思ひ出すべし、堪忍は無事長久の基、
       いかりは敵とおもへ、勝事ばかり知て、まくる事をしらざれば、
       害其身にいたる、おのれを責て、人をせむるな、
       及ばざるは過ぎたるよりまされり 

50 色紙  富士見公園の伊藤左千夫歌碑

       寂しさのきわみに耐えて天地に
          寄するいのちをつくづくと思ふ
                      左千夫


窓辺から (45:4:15)

  寂しさのきわみに耐えて天地に
         寄するいのちをつくづくと思ふ     左千夫


 学校の教室から、流れゆく小川に迫っている小さいいくつかの山の稜線、それにこの山あいに造られているダムにたたえられてた水面を眺めていると、左千夫がうたった詩が頭に浮かぶ。日本の山水のうつくしさは古来、人の情緒を温かく抱擁していることが偲ばれる。

 左千夫がなにを意味していたかわからないけれど、私は感傷的な意味あいのものてはなく、弱い人間が自然にむかい謙虚な心持ちで一歩さがって自然を賛美し、そしてそうしている自分をしみじみ感ずる、というように思う。人というものは思うように生活できない極めて弱いものであるから、それを自分で悟りその寂しさにじっと耐えて、天地自然の雄大さに自己を托して泰然として生きてゆくことができる自分を、自然がある故にそうできる自分の幸せをたたえていくことができよう。

 この詩には誇張も感じられないし、他にはたらきかけようという気持ちも感じられない。私がこのように受けとめたせいか、気持ちのよい詩である。

 浪合の山や川は私にそのような気持ちをすなおに投げかけてくれる。窓辺の感じをわすれるのが惜しく、しるす。


51 短冊  加賀の千代

       ひとかかえ あれど柳は やなぎかな  千代女

52 色紙  とりな歌

       とりなくこゑす ゆめさませ みよあけわたる ひんかしを
       そらいろはれて おきつへに ほふねむれゐぬ もやのうち

       鳥鳴く声す 夢覚ませ 見よ明けわたる 東を
       空色晴れて 沖つ辺に 帆船群れゐぬ 靄の中

       明治時代、万朝報という新聞社で、「旧来のいろは歌に代わる
       "新しいいろは"を」ということで、仮名48文字1回ずつをつかった
       歌を募集し、選ばれたのがこの歌だったそうです。

53 色紙  山田洋次監督

       人との結びつきで心にとめておくことは ・・・ 
        一言で言えば想像力です。 
       想像することは、つまり思いやることです。 例えばイラク戦争の空爆で
       死んでいく子どもや女性たちがどんなにつらい思いをしているのかを想
       像することは、思いやることです。 今の時代、注意深く相手を観察する
       能力ひいては相手を想像する能力が、とても欠けていると思います。
                       山田洋次監督

54 色紙  元西独首相シュミット氏

       日本に限ったことではないが、テレビメディアの浅薄さが政治を覆って
       いると思う。 社会の芯になる共通の哲学が失われている。 クリスマス
       には「にわかキリスト教徒」があふれ、浮かれた御祭り騒ぎを演じる。テ
       レビ番組のヒーローのような政治家が歴史をつくる日本の状況と相通じ
       るものを感じます。
                       2006.12.5 朝日新聞
       元西独首相シュミット氏が‘知日派のあなたにいまの日本は
       どう映るか’の質問に答えた言葉

55 色紙  十七条憲法

       一曰,以和為貴,無忤為宗.
       人皆有黨,亦少達者.是以或不順君父,乍違于鄰里.然上和下睦,諧於
       論事,則事理自通,何事不成

       一に曰く、和を以って貴しと為し忤う事無きを宗と為せ、
       人皆党有りてまた達者なる者少なし、是を以って或いは君父に順わず
       乍た隣理に違う、然れど上和下睦事を論ずるに諧わば、事と理自ずから
       通ずまた何事か成らざらん

       いちにいわく、わをもってとうとしとなし、さからうことなきをむねとなせ、
       ひとみなとうありてまたたっしゃなるものすくなし、これをもってあるい
       はくんぷにしたがわずまたりんりにたがう、しかれどじょうわげぼくことを
       ろんずるにかなわば、じとりおのずからつうずまたなにごとかならざらん

       第1条、和を大事にし、反抗することのないよう心がけよ。
       人は誰しもが仲間をもっているが、道理を悟っている者は少ない。
       それゆえ、君主や父に従わなかったり、身近な人と仲違いしたりする。
       しかし上に立つ者がなごやかで下の者が仲良く意見を述べあえば、
       自然にものの道理がわかり、すべての事がうまくいくだろう。

56 短冊  小林一茶の句

       やせかへる 負けるな一茶 これにあり
       やれ打つな 蝿が手をする 足をする
       すずめの子 そこのけそこのけ お馬がとおる
       われときて あそべや親の ない雀
       大牡丹 びんぼう村と 侮るな

57 色紙 綸言汗の如し

       渙汗其大號。言號令如汗、汗出而不反者也。

       「渙(かん)することきは其(そ)の大号(たいごう)を汗(あせ)にす」と。
       言(い)うこころは号令(ごうれい)は汗(あせ)の如(ごと)くにして、汗
       (あせ)は出(い)でて反(かえ)らざる者(もの)なり。

58 色紙 快川禅師

       安禅は必ずしも山水を須いず (安禅不必須山水)
       心頭を滅却すれは火も自ら涼し (滅却心頭火自涼)

       天正10年(1582年)4月3日の凄惨な事件
       快川和尚が最後に唱えたこの詩は、禅書として『無門関』とともに有名な
       『碧巌録』第四十三則の「洞山無寒暑」の評唱にも見る杜荀鶴(中国六
           世紀の詩人)の詩の結尾の二句であります。

59 色紙 小林雅夫氏の細君はる子さん

       雪柳の花びらあまた浮く池に乾きし味噌の桶を浸しぬ


       彼の家は本造りの旧家で、家は東向きで耕地は南側一面に広がっていました。
       家の左奥にはどっしりした楠らしい大木があり、道から敷地に入ってすぐ左に
       昔からの池がありました。 池の左側に歌碑が建てられていました。 
       亡くなった奥さんの歌の中から選んだと話してくれました。

       小林はる子著『雪柳』 (2001.1.1発行) は234頁にわたる歌集であり、大地にし
       っかり根をはる「ことだま」という特色を持った、めったに出会えない素晴ら
       しい作品集です。

       ‘あとがき’の中で彼女は次のように言っています。

       「その一つ一つに思い出と生活があり、切るに切れない思い出の歌が多い」
       「家の前にある池の周りに雪柳が何本も植わっていて春になると真っ白い花を
       咲かせます。 やがて花片が池一面に落ち、この池で蚕具を洗い、農具を洗
       い鎌を研ぎ、稲をしばる藁をしめしと、生活の中に溶け合っていました。
       冬に向って綿虫が舞う頃になると雪柳に一つ二つと返り花が咲き、夏の間の
       農作業も一段落ついて冬を迎えます」

       彼女の歌は、名護熊から打ち上げられた彗星の如き光を放っています。

60 色紙 新渡戸先生の揮毫 「Nature is …」

       この扁額はもともと龍峡ホテルにあったもので、吉川建設KKから寄贈されたもの
       といいます。

       Nature is not new;but rarely is she more beautifully clad
       than here and now. Nitobe.


       「自然は新しくない。 しかし、自然が今ここほどに美しい粧いをしているのは、
       滅多にはない」

       当地の景勝地・天竜峡に寄せられた賛辞で、「彩雲閣天龍峡ホテル」に掲げ
       られていたものである。(訳文は人によって自由に変えてもよい…下平)

       clad   clothe の過去・過去分詞形
             clothe (しばしば受身)…を(…で)すっかりおおう;
                 …を(…に)隠す((in, with ...)
       rarely  まれに, たまに;たまにしか…しない
       [語法]
       文修飾語として用いた rarely は seldom, hardly と同じく, 強調のため文頭に
       きたときには, 主語と動詞[助動詞]との語順倒置が起こる
       【例】  Rarely have I enjoyed an evening quite so much.
            こんなに楽しい夜を過ごしたことは今まで数えるほどしかありません

61 色紙 新渡戸先生の揮毫

          Boys, be ambitious !


       新渡戸稲造 筆 Inazo Nitobeと署名。

       そこに書かれた説明によると、昭和4年7月1日に新渡戸稲造先生(このときは、
       東京女子経済専門学校 --東京文化短期大学の前身-- の校長でした。)が
       この学校を訪問して講演した際に揮毫され、それを卒業生が母校に学ぶ生徒
       が朝夕このクラーク先生の名言を肝銘するようにと、昭和34年にこの石碑を建
       てたそうです。

62 色紙 新渡戸先生の揮毫

         学如登山


       新渡戸稲造 筆  文字は右書きになっています。

       あとで校長の斎藤先生にお目にかかったところ、この揮毫は校長室にあり、さら
       に「学如登山 稲造」(学ぶことは山に登るが如し)が玄関にあり、入学式などで
       この2枚の揮毫の話を生徒にしていると伺いました。

63 色紙 平家物語

       祇園精舎の鐘の声
       諸行無常の響きあり
       沙羅双樹の花の色
       盛者必衰の理をあらはす

       おごれる人も久しからず
       ただ春の夜の夢のごとし
       たけき者も遂にはほろびぬ
       ひとへに風の前の塵に同じ


       遠くの異朝をとぶらえば、普の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、これらは
       皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れ
       んことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、
       亡じにし者どもなり。

       近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、こ
       れらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六
       波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も
       詞も及ばれね。

       ………………………………………………………………………………………………

       諸行無常   いろはにほへどちりぬるを
       是生滅法   わがよたれぞつねならむ
       生滅滅已   うゐのおくやまけふこえて
       寂滅為楽   あさきゆめみじゑひもせず


       近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、こ
       涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と
       呼ぶ。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を
       羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。

       「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈
       は流転門。

       「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是
       れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦
       に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。
       生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存
       在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのであ
       る。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。

       なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こ
       そが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。

       釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残
       されている。

       なお平家物語の冒頭にも引用されている。

64 色紙 十七条憲法(「日本書紀」一曰、)

       以和爲貴、無忤爲宗。
人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。
       然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

       和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党
       (たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(
       したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(や
       わら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うとき
       は、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

       一般には‘和(ワ)を以て貴しと為し、忤(サカラ)ふること無きを宗とせよ’という。

       和【字通】禾(か)+口。禾は軍門の象。口は(さい)、盟誓など、載書といわ
       れる文書を収める器。軍門の前で盟約し、講和を行う意。和平を原義とする字で
       ある。

65 色紙 身體髮膚、受之父母 (「孝経」開宗明義章第一)

       身體髮膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也
立身行道、揚名於後世、以顯
       父母、孝之終也。

       身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。身を立て道を
       行い、名を後世に揚げ、以って父母を顕わすは、孝の終わりなり。

66 色紙 惜別の歌 (島崎藤村「若菜集」⇒藤江英輔 作曲(姉-友ニカエテ)

       1 遠き別れにたえかねて
         この高楼に登るかな
         悲しむなかれ我が友よ
         旅の衣をととのえよ

       2 別れといえば昔より
         この人の世の常なるを
         流るる水を眺むれば
         夢はずかしき涙かな


       3 君がさやけき目のいろも
         君くれないのくちびるも
         君がみどりの黒髪も
         またいつか見んこの別れ

       4 君の行くべきやまかわは
         落つる涙に見えわかず
         袖のしぐれの冬の日に
         君に贈らん花もがな

         http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_4858.html


【蛇足】 二木紘三

この歌の解題を書くに際して、資料不足に悩まされました。中央大学の学生歌ということは知っていたので、同大に聞けばわかると簡単に考えていましたが、同大広報部から情報は得られず、やむを得ず、歌の研究書やネット上の断片的な情報をつなぎ合わせて、解説らしきものを作り上げました。
 しかし、これには推測で書いた部分や不確かな箇所がいくつかあり、何とか確認できないものかと考えていました。

 そんな折、W・Kさんという方がある資料を送ってくださいました。彼はそれを中央大学出身の友人からもらったとのことでした。
 それを見て、私はビックリしました。伝説の人・藤江英輔氏が自ら書いた『惜別の歌』の誕生物語だったからです。それは21世紀社という出版社が出していた『センチュリーフォーラム21』という小冊子の平成15年(2003)4月臨時増刊号に掲載されたものでした。

 藤江氏の文章に基づいて解説を書こうとしているうちに、これは私がへたな解説を書くより、原文をそのまま掲載したほうが、読む人の感動が大きいのではないかと思うようになりました。藤江氏の文章は、敗戦前後の時代を舞台とした青春小説のような趣があったからです。

 転載の許可を得るために21世紀社に連絡しようとしましたが、その会社はもう存在しませんでした。やはり自分で解説を書くほかないかと思っていたところ、ひょんなことから藤江氏に連絡を取ることができたのです。
 これこれの事情で文章を使わせていただきたいと説明申し上げたところ、すぐにご快諾いただきました。

 掲載にあたって、表記の統一などいくぶん文章を整理し、また前記資料に添付されていた藤江氏と作家・北村薫氏との対談(文藝春秋社『本の話』)を参考に若干内容を補足しました。しかし、ほとんどは原文そのままです。

 なお、上記対談では、藤村の詩を東京高等女子師範の女生徒から渡されたのは友人ではなく、藤江氏自身だったと語っていらっしゃいますが、ここでは原文のままにしました。
 それはともかく、困難な時代に名曲を生んだ若者の青春記をお楽しみください。(二木紘三)


【惜別の歌】                         藤江英輔

                                   

 太平洋戦争が末期的症状を示してきた昭和20年冬――。
 この年の2月22日、東京は珍しい大雪であった。前夜半から降り出した牡丹雪は、明け方になってもその勢いに衰えを見せず、鉛色に垂れ込めた空から大ぶりの雪片が次から次に舞い落ちてきた。
 午後7時から翌朝5時までの夜勤を終えて、一歩、工場の外に出たぼくらは思わず喚声をあげた。目を洗われるような白一色の世界であった。気象庁が発表したこの日の積雪は38センチということだったが、吹き溜まりには腰まで没するほど、深い雪の堆積があった。

 そのころの東京の街は、東京を焦土と化した3月10日の大空襲の前ではあったが、年初から頻度を高めたB29による本土空襲に加えて、延焼を防ぐための家屋取り壊しなどで、むしばまれた地図のように無惨な姿を見せていた。
 その街が一夜にして皚皚(がいがい)たる粧いで蘇生したのである。喚声は当然であった。

 だが、この喚声には、もう1つ、別の思いもこめられていた。いつ降り止むとも見えず、薄明の空から舞いおりてくる雪の花びらを見つめていると、そのときぼくらが置かれていた位置――その日がいつかはわからないが、そう遠くないうちに確実にやってくる死の瞬間まで、この雪の乱舞と同じように踊り続けなければならないのか――そういう場所に置かれた人間の無常感にどこかで結びついた喚声でもあったのだ。

 ぼくらが雪を見つめていた場所は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所の第三工場。昭和19年3月7日に閣議決定した学徒勤労動員実施要項によって、その年の暮れからぼくらはこの陸軍の兵器工場で働いていた。
 そこは音無川に沿った丘陵地帯で、南西にめぐらした土手に上れば、わずかな俯角ではあったが、市街を一望することができた。その街が雪に埋もれてまだ眠っている。

「ああ、故郷を思い出すな」
 背後でつぶやく声に、ぼくは振り返った。信濃の山奥から出てきた同じクラスの中本次郎の茫洋とした顔がそこにあった。
 この男は信州人らしい理論派で、訥弁(とつべん)ではあったが、筋道の通った思考を好んだ。ぼくらの議論の席では、むしろ聞き役だったが、議論が錯綜すると、いつもその整理役を引き受けることになった。
 前夜も夜食後の休憩時間に、「おれたちは学問から離れて、ここで兵器生産に励んでいる必然性はどこにあるのか」という議論がむし返されていた。
 ぼくらは昭和19年の春、中央大学予科(旧制)に入学した。独法、英法、経済の3クラス編成で、同期生は120人あまりであった。


 戦局は日々に緊迫したものになり、この年の6月19・20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は空母の大半を失い、西太平洋の制空権は完全にアメリカ軍に握られた。さらに7月7日には、サイパン島の日本軍が全滅する悲報が相次いだ。
 もちろん大本営の発表は、「わが軍の戦果」に重点を置き、真相は糊塗されていたが、7月18日、東条内閣が総辞職するや、もう敗色を国民の目から覆うことはできなくなった。

 ぼくらは日本の暗い運命の予感におびえ、そのおびえをひたすら学問に打ちこむことでまぎらそうとしていた。しかし、その教室を閉ざされ、この板橋造兵廠に動員されてきたのであった。もうおのれを支えるものは、油で汚れた作業服のポケットにひそめた岩波文庫くらいしかなかった。

 そういう状況でのぼくらの議論は、つねに悪循環することをまぬがれなかった。聖戦遂行こそおれたちに課せられた最高の使命だという主張が、そのころの最大公約数的意見だった。しかし、戦争否定とまではいかなくても、戦争の早期終結を望む意見は、弱い、小さな声であったが、けっしてすべて圧殺されていたわけではなかった。そこはやはり学徒であった。

 中本は、そのどちらでもなかった。議論の席では、いつも眼を空中の一点に置いたまま、むっとした表情を崩さなかったが、議論が結局「非国民!!」という問答無用の段階になり、仲間同士が胸ぐらを取り合う段階に突入すると、おもむろに口を開くのだった。
「やめろ! 殴り合うのは勝手だが、おれたちはそういう手段でしか、この場の決着をつけられないのか。それじゃ、あまりにもみじめじゃないか」

 この言葉にみなが納得して鎮まったわけではない。もしこの騒ぎが学徒休憩室の外に洩れたら、たちまち監督官である職業軍人が飛んできて、その制裁は理非も問わぬ連帯責任として、全員に及んだからである。例えば、寒風の広場に3時間も不動の姿勢で立たされるのだ。

 ぼくらはこの無教養な下士官あがりの中年の少尉に猛烈な反感をもっていた。この工場には、ぼくら以外に他の大学・専門学校・旧制中学などから1000人を超える学生・生徒が動員されており、そのなかには多数の女子学生・生徒もまざっていた。
 ところがこの少尉は男女学生の対話を厳禁した。「風紀厳正」がこの少尉の常套句だった。それでいながら、軍人だけに配給される特配の酒に顔を赤くして、女子工員に卑猥な言葉で話しかけているのを、ぼくらは何度も見ていた。

 この大雪の朝、中本はめずらしく彼のほうから話しかけてきた。
 ぼくは、戦争は遂行せねばならぬと思っていた。国家主義、あるいは国粋主義的思想があったわけではない。どうすればこの戦争を終結させられるか、その方法がわからなかったからである。ただわかっているのは、もうすぐおれは死ぬのだという単純、絶対の力に支配されていることだけだった。
 だが、中本は違っていた。自分の運命に客観的価値を発見するため、渾身の力をふりしぼっていたのであった。そういった相違はあったが、なぜか気が合った。

「おい、お前はよく文学書を読んでいるが、この詩を知っているか」
 中本が差し出した紙片には、優しい文字で次の詩が書かれていた。

   とほきわかれに たへかねて
   このたかどのに のぼるかな
   かなしむなかれ わがあねよ
   たびのころもを ととのへよ

   わかれといえば むかしより
   このひとのよの つねなるを
   ながるるみづを ながむれば
   ゆめはづかしき なみだかな


 ぼくはその詩を知っていた。島崎藤村の『若菜集』に収められている、たしか『高楼』という題の詩だった。
 中本はその詩を、隣の旋盤で働いている東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の女子学生から手渡されたという。
 彼女がどういう気持ちでそれを中本に渡したのか、受け取った彼がどう感じたのかはわからない。しかし、2人の間に何らかの心の交流があったことは十分想像できた。
 お前は顔に似合わずロマンチックな奴だなと、ぼくは中本に笑いかけたが、中本は例によって一点を見つめる表情でなにも言わなかった。


                                   

 その日、膝まで没する雪を、朴歯(ほおば)の下駄で踏みしめ、踏みしめ、わが家へ帰った。そのころ、革靴は貴重品で、ゲートルを巻けば下駄での通勤が許されていた。
 板橋から2キロほど離れた巣鴨に、祖母の隠居所があった。朴歯に雪が食い込み、何度か雪中に腕をついた。

 かなしむなかれ、わがあねよ――その文句を繰り返しているうちに、いつしか姉が友になっていた。哀しむなかれ、我が友よ、旅の衣をととのえよ……。

 このとき、ぼくが思い浮かべた旅の衣″は戎衣(じゅうい)であった。軍服。「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(いすい)寒し、壮士一たび去って復(ま)た還(かえ)らず」という漢詩の一句が脳裏をよぎった。
「旅の衣は鈴かけの、露けき袖やしほるらん」
 これは、弁慶が傷心の義経を守って、陸奥に落ちていく情景を唄った長唄『勧進帳』の最初の一句である。それがオーバーラップした。義経も弁慶も、富樫の情で、死をまぬがれるひとときを得た。だが……。

 そんなことを考えているうちに、あるメロディが自然に浮かび上がってきた。ぼくの胸の中で死と隣り合わせになっていた若い、未熟な、無秩序な願望から、突然湧き出した不思議なメロディであった。
 家に帰りつくと、『若菜集』を書架から引き出して来て、あらためて目をこらした。

   きみがさやけき めのいろも
   きみくれなゐの くちびるも
   きみがみどりの くろかみも
   またいつかみん このわかれ

   きみのゆくべき やまかはは
   おつるなみだに みえわかず
   そでのしぐれの ふゆのひに
   きみにおくらん はなもがな


 旋盤を動かすモーターの音が工場内を圧しているとき、その音がかき消える瞬間があった。ぼくらの仲間に召集令状が届いたときである。
 粛然として、ぼくらは動員学徒の控え室に集まった。口を開けばいつも口論になる憎いあいつでも、そのときだけは目をうるまして相手の手を握った。

 君に贈らん花もがな。文字通りなんにもなかった。許せ、友よ。言葉にならぬその思いしかなかった。そして、その回数が頻繁になった
 ぼくがこの『高楼』に曲をつけたのは、言葉に出せぬ無言の別れを無言のままに済ませることに、どうにも我慢できない焦燥を感じていたからだった。


 このつたない曲は、むろん表立って発表した訳ではない。口から口へと伝わっていっただけである。
 中本は音痴のくせに真っ先に覚えた。調子のはずれた変な歌唱ではあったが、一点に眼をこらす例の表情で、おもしろくもおかしくもないという顔でいつも歌っていた。そして、この歌はいつか陸軍造兵廠第三工場から出陣する学徒兵を送る別れの歌になった。

 その中本に召集令状が来たのは3月の末、桜がようやくほころびかけたころであった。その日は昼間の勤務であった。工場裏の土手に呼び出されて、ぼくはそれを知った。
「お前にはいい歌をもらった。だが、おれはお前にやるものがなにもない。これはつまらんものだが、おれの心にとめた先人の言葉を書いておいたものだ。もうこれからはおれにとって無用のものだ。もしよければ受け取ってくれないか」  表紙がボロボロになった1冊の大学ノートであった。
「いいのか。お前のご両親に残しておくべきじゃないのか?」
「いや、いいんだ。おやじやおふくろには別に書いてあるものがある。これはお前がもっていてくれ」

 工場から中本の姿が消えて数日たった日、ぼくは昼休みに土手にのぼった。中本のノートを開いた。そこには老子やショーペンハウエル、パスカル、ボードレールなど、さまざまな先哲の苦悶の言葉が書き連ねてあった。赤い線が引いてある箇所がとくに印象的だった。


「末法たりといえども、今生に道心発さずは、いずれの生にか得道せん」(道元「正法眼蔵随聞記」)

「我より前なる者は、千古万古にして、我より後なる者は、千世万世なり。たとえ我等を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の間のみ今幸いに生まれて人たり。庶幾(こいねがわくば)人たるを成して終らん。本願ここにあり」(佐藤一斎「言志録」)

「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのでなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである」(三木清「人生論ノート」)

 そういった箴言(しんげん)が、そのノートにはあふれていた。痛ましいほどの自己格闘がそこに点滅していた。

 8月の初め、ぼくにも召集令状がきた。その1銭5厘の赤い葉書には、「9月1日午前9時、静岡県三方ヶ原陸軍航空隊に入隊を命ず」と記されているだけだった。それまでは準備期間として学徒動員が解かれ、自宅待機が許されていた。

 そして8月15日がきた。その日、ぼくは焼け残った祖母の隠居所にいた。
 酷暑という言葉にふさわしい日であった。正午、終戦を宣する天皇の玉音放送を呆然として聞いた。四球真空管のぼろラジオから流れてくる抑揚のない天皇の声はひどく聞き取りにくかったが、
「……耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」
 という一言だけが、なぜかぼくの肺腑をつらぬいた。このとき、涙があふれた。国運を賭けて今日まで耐えてきた歳月の重さが、全身から抜けていくようであった。

 だが、それは生き残った人間の虚しさであった。生き残った者の心情など、この際どうでもよかった。
 そのとき、ぼくが流した涙は、この戦いで死んでしまった幾百万の日本人の魂は、もう行くべき彼岸がないではないか、というその無念さであった。彼らの魂は、この瞬間、もう安堵することなく、無限にこの天空を翔び交うほかないではないか。

 この日から1か月ほど、ぼくは近所の焼跡を覆う瓦礫の山を、なんの目的もなく、ただ1人で掘り崩す作業を、連日、痴呆のように続けるだけだった。もうB29の爆音も聞こえない夏の空は、吸い込まれるような青さに輝いていた。

 大学が開いたのは、その年の10月であった。幸い神田の校舎は焼失をまぬがれていた。割れ落ちたガラス窓には秋風が吹き抜け、ときには黄ばんだプラタナスのわくら葉が教室に舞い込んできたが、ぼくらの精神はもっと病んでいた。

 登校する学生の数は入学時の半分に減っていた。敗戦直前の戦闘に斃れた者、戦地から引き揚げてはきたが、そのまま郷里に根をおろしてしまった者、いちおう上京はしたが、もう学問など一顧もしない生活に飛び込んでいった者、それぞれが自分の運命の道を歩いていった。中本はついに帰ってこなかった。

 帰校した学生のなかには、「おれはもう独逸法はやめた。これからは英米法の時代になる」という機敏な見通しで進路を変更する者や、「おれはマルクスをやる。これからのおれを支える杖は唯物論しかない」といって、さっさと転科の手続きをとる変わり身の早い者もいた。
 が、大方の学生は、自分の思考を行動化できる人間に羨望と軽蔑のないまぜになった視線を投げるだけで、校庭の日だまりに身を寄せあい、無為な時間を過ごす以外に方法がなかった

 変身する者も、それができない者も、ささくれだった心の内面は同じだったのだ。両手の中で必死になって暖め続けてきたもの、その暖かさのためにのみ、自分の死を肯定しようとした掌(たなごころ)の中のものが消えたとき、若者たちの裡(うち)にあった何物かが死んだ。
 戦中派といわれる世代に共通した点は、その胸中の死者を葬い切れないままに余生を生き続けている、という不逞な自覚にあるのではなかろうか。

 昭和19年4月に予科に入学してから大学を卒業するまでの6年間、ぼくの心にアカデミズムはついに復活しなかった。いや芽生えなかった。
 仲間のうちには学問への情熱をとり戻し、母校法学部の教授になった田村五郎や、東洋大学経済学部の教授になった坂本市郎などが、親しい友人としてぼくの周囲にいた。司法試験の難関を突破し、今は判事、検事、弁護士の要職にある友人も十指に余るほどいた。
 そして、ぼくのように行方も知らず″組も何人かいて、ひとつのグループを作っていた。いずれも得がたき良友たちである。
 みな『惜別の歌』を同じ心情で歌った仲間だった。その仲間が大学を卒業して、それぞれの道に散っていったのは昭和25年3月のことである。

                                   

 造兵工廠の仲間は散り散りになったが、『惜別の歌』は中央大の後輩たちへと受け継がれ、学生歌として定着した。  中央大学の音楽研究会・グリークラブが、『惜別の歌』のレコーディングを企画し、学生課の人がぼくを訪ねてきたのは、昭和26年の夏ごろであった。学生たちが、いまもなおこの歌を愛唱しているので、ぜひレコードにしたいとのことであった。

 拒む理由はなかったが、1つ問題があった。
 この島崎藤村の詩は、処女詩集『若菜集』(明治30年、1897年)にある『高楼』から採ったもので、原詩は嫁ぎゆく姉とその妹との対詠という形式になっている。だから『惜別の歌』の1節、「悲しむなかれ、わが友よ」は、正確には「悲しむなかれ、わが姉よ」である。姉を勝手に友に置きかえて歌っていたのだ。
 レコードに吹き込むなら、原詩の著作権者の諒承が必要であった。

 幸いだったのは、ぼくの勤務していたのが新潮社だったことである。たまたま、その時期に『島崎藤村全集』19巻が新潮社から刊行中だった。そのおかげで、藤村の遺児で画家の蓊助氏とは、ぼくも面識があった。
 さっそく、蓊助氏宅をお訪ねして、ご承知いただけたのは何かのめぐり合わせ″という感が深かった。

 この歌がさらに一般の歌となるまでには、なお曲折があった。
 戦争中、板橋の造兵廠で『惜別の歌』を歌って学徒出陣兵を送った学生・生徒たちは、それぞれの大学や学校に戻ったあと、友人などにこの歌を歌って聞かせた。東京女子高等師範学校(お茶の水女子大)の学生など、卒業後教師になった者のなかには、赴任先の学校で生徒にこの歌を教えた者も多かったと聞く。
 そのようにして、この歌は全国に拡散していったのであった。

 ぼくは知らなかったが、昭和30年ごろ、各地の盛り場に「歌声喫茶」なるものが続々と出現していた。毎夜、100人を超える若者たちが集まって、われらの歌″の大合唱をするのである。
 その合唱の曲目のなかに『惜別の歌』が組み込まれていた。レコード会社は「歌声喫茶」に着目し、リクエスト回数の多い歌を次々にレコーディングして売り出した。『惜別の歌』もそうして商品化された。

 ただ、レコード会社の敏腕な社員も、この曲を作ったのは、おそらく藤村と同時代の人間で、すでに物故者だろうという早合点から、積極的に作曲者を探そうとはしなかったようである。
 なぜなら、ぼくのところへ日本コロムビアの邦楽責任者が探し探しして訪ねてきたのは、もうとっくに小林旭というスターの吹き込みが終わり、発売予定の1週間前だったからである。

 レコードジャケットを見ると、ぼくが楽譜に書いた『惜別の歌』は『惜別の唄』となっており、歌詞の4番が削られて3番までとなっていた。
「もう発売を待つばかりです」と言われては否も応もなく、断る余地は残されていなかった。こういう形で世に出たのも、やはり何かのめぐり合わせだったかもしれない。
 それはともかく、1少年の感傷から生まれた歌は、このようにして思いがけず長い生命をもつことになったのであった。

                                   

 中央大学の猪間驥一教授がぼくを新潮社に訪ねてこられたのは、昭和41年の初秋であった。

 この人は一風変わった人物だった。
 昭和39年から40年にわたって全国を吹き荒れた学園騒動で、中央大学も一時学校を閉鎖し、授業を放棄せざるを得ない状況にあった。そのとき、この硬骨の教授は、学外にビルの一室を私費で借りうけ、授業を受けたい学生たちに呼びかけ、自分の担当する統計学・財政学の講座を完結させたのであった。
 このことは当時の毎日新聞社会面のトップ記事となって報道されたが、ぼくがお会いしてその話に触れたとき、「教師が講義したことがニュースになるなんて、変な世の中ですね」と苦笑しておられた。

 この猪間教授が、41年冬、中央大学としては画期的な告別講演(Farewell address)を行った。
 欧米の著名な大学では、正教授の講座就任には就任演説、退職時には離任演説というセレモニーがあるのが普通である。高名な経済学者アルフレッド・マーシャルの「冷ややかな頭脳、しかし温かい心情」という名言は、彼がケンブリッジ大学の教授になったときの就任演説で語られた言葉である。

 だが、日本の大学では、全校の学生に呼びかけるような学問的ボルテージは、非常に低い。それを承知のうえで猪間教授は、定年で大学を去る機会に告別講演を実行した。
 ただし、講義の題目は専門講座から離れた。統計学ではいくら全学生に呼びかけても、集まる学生の数は知れている。だから教授は、告別講演という習慣を作るために、あえて演題を「中央大学校歌と『惜別の歌』の由来」に変えたのである。  ぼくを訪ねてくださったのは、その数ヶ月前であった。

 この告別講演は12月1日に行われた。招かれたとき、紹介も挨拶もいっさいなしで、ただ一書生として告別講演を聞くだけなら、とのわがままを、先生はそのまま認めてくださった。
 講堂には300人を超える学生が集まっていた。ぼくは後ろのほうの席に身をひそめるような格好で坐った。
『惜別の歌』の由来は、造兵廠時代から歌声喫茶にまで及び、ぼくは赤面のしどおしだった。そして、最後に先生は結びの言葉を、こう述べられた。

「諸君、今日は12月1日である。12月1日といっても、諸君には歳末の1日だというほかは何の興味もない日かもしれない。だが、私のように戦争を経てきた者は、この日に特別な記憶をもっている。そして私と同じようにつらい記憶をもっている多くの日本人のいることを記憶されたい。
 23年前の今月今日、氷雨ふる代々木原頭で、第1回目の学徒出陣ということが行われた。祖国の危機に対し、何万のうら若い学生はペンを捨て、教室を去って、この日、戦場に赴いた。その学生たちの何千かは、再びこの国には帰らなかった。それらのなかには諸君の先輩たる中央大学生も数知れず含まれていたのである。

 私は先年、大学からヨーロッパヘやっていただいたが、そのとき、ウィーン大学を訪ねた。ウィーン大学の玄関には女神の首の像があり、その台座の正面には『栄誉、自由、祖国』、右側には『わが大学の倒れし英雄をたたえて』、左側には『祖国ドイツ学生及びその教師これを建つ』と彫られてあった。
 次にハイデルベルク大学に行くと、そのメンザ(学生食堂)の戸口の上に、『喜びの集いありても、宴の装いに輝く広間にありても、汝らのために死せる者はなお生きてありと思え』と書かれてあった。

 中央大学にはそういう像もなく、碑銘もない。しかし、この『惜別の歌』がある。これを歌って戦いに赴き、倒れた英雄は、わが大学にも少なくなかったのだ。今日のわれわれの繁栄と幸福は、これら英雄の犠牲の上に立つ。
 私は諸君が『惜別の歌』を歌うとき、普通には単なる惜別の情をそれに託するのでもちろんいいのだが、十度に一度、五十ぺんに一ぺんは、この歌がいかなる由来に基づくものかを思い出されんことを望む」

 これは明らかに過褒である。ウィーン大学やハイデルベルク大学に掲げられた高揚たる碑銘になぞらえるなど、身のすくむ心地がする。
 だが、そう感じたことすらが、ぼくの思い上がりであることにすぐに気づいた。

 猪間先生のおっしゃりたかったのは、『惜別の歌』に仮託して、世代の断絶などという言葉を安易におのれの生活のなかに持ち込むな、ということだった。戦後日本の民主主義(デモクラシー)は混沌としかいいようのない価値観の乱れを生んだ。その乱れに乗じて、あらゆる虚飾、打算、変節、背任、詐術が、最大多数の最大幸福という、実体不明のご都合主義に名を借りて、白昼公然と横行している。
「真鍮(しんちゅう)は、鍍金(めっき)した真鍮から軽侮を受ける理由はない」という意味のことを漱石は言っているが、こうした言葉は通用しにくい世の中なのである。猪問教授の告別講演は、この現実を直視したうえで、だからこそ若者はおのれ自身に衿持(きょうじ)をもてと、言外に訴えていたのである。


                                   

 国破れて25年の歳月が経った年の晩秋、ぼくは友人に招かれて、一夜、霞ヶ浦の岸近い1軒の旅亭にのぼった。2階の座敷からは、暮色の中に鈍色(にびいろ)に光る湖面が遠望され、その湖面から寒々とした風が渡ってくる。

 この旅亭は何というのだろうか?

 その店は、かつて連合艦隊司令長官山本五十六が贔屓(ひいき)にしたことで有名である。山本司令長官はしばしば彼の若き属僚を引きつれて、ここで痛飲したと聞く。いまもなお昔のままの面影を残した大広間や廊下、古色のにじんだ床の間や建具に、彼らの息吹が染み込んでいるかのようであった。

 そういう感慨がふと酒席を支配し、会話が途切れたとき、年老いた女将は、「私の宝物をお目にかけましょう」と話の穂を継いだ。「あれを……」と女中に命じて、その席に取り寄せたのは一双の屏風であった。
 墨痕あざやかな寄せ書きが一面に書かれていた。
「これを書いていった人は偉いお方たちじゃありません。ここ(かつての霞ヶ浦航空隊)から飛び立って、2度と帰ってこなかった若い軍人さんたちが書いたものばかりです」

 おそらく20歳前後の若者たちが、特攻出撃に出る寸前のわずかなひとときを過ごした宴の場所だったのであろう。いずれも達筆であった。「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」「祈皇国弥栄(いのる・すめらみくに・いやさか)」などの言葉にまじって、突然、ぼくの眼に飛び込んできた一句があった。

 茶を噛みて 明日は知れぬ身 侘び三昧

 穏やかな筆づかいであった。それに連句がついていた。

 猿は知るまい 岩清水

 これも水のように淡々とした筆致であった。ただ一気に筆が流れていた。これを見たとき、ぼくの背中に戦慄が走った。
 この猿が何であるか、それはいくらでも想像できる。しかし、猿という言葉を使わざるを得なかったところに、想像を超えた無限の痛憤がこもっていた。

 表面の筆致が静かであればあるほど、なにか煮えたぎるような感情が痛々しかった。なんのために自分たちは死ぬのか、国のため、わが愛しき人たちのためと、ひたすら信じようとしながらも、なお抑えきれぬ若い生命への愛惜が、その墨跡に脈打っていた。
 あのころの若者たちは、欝積した暗いエネルギーを、かくもがむしゃらに押し殺しながら、短くかつ長い時間を生きていたのだ。中本の大学ノートがまざまざと思い出された。

「あの人たち、生きていれば、ちょうどお客さんたちと同年輩だろうに……」
 老女将の静かなつぶやきを聞きながら、ぼくはぼくの胸の中の死者たちが、まぎれもなく蘇ってくるのを感じていた。
(終)

藤江英輔氏略歴
昭和元年(1926)生まれ。中央大学法学部卒。昭和25年(1950)新潮社に入社。『週刊新潮』『小説新潮』等の編集に携わり、広告局長を最後に退職。以後、会社を経営。