■データ 01

    http://blog.ko-blog.jp/nhktaiga2011kinen/kiji/18516.html
    【17】崇源院の前半生  テーマ:お市と三姉妹の生涯

 崇源院は三姉妹の末娘であり、天正元年(1573)に小谷城で生まれた。まさに、落城の年である。名は江、小督(おごう)、江与(えよ)、諱(いみな)は達子・徳子と言ったという。
 徳川幕府の正式な家譜である『徳川幕府家譜』によれば、徳川家忠の御台所となった江は、最初尾張国大野城(愛知県常滑市所在)の城主・佐治一成のもとに嫁した。歴史学者・小和田哲男氏によれば、それは天正12年(1584)の初めであったとする。佐治一成の母は信長の妹・犬であるから、一成と江をはじめとする三姉妹は、従姉妹同士ということになる。
 ところが、同じ年の9月頃、小牧・長久手合戦から三河へ帰る徳川家康が、大野川を渡りかねていたところを、一成が船を出して手助けしたこと聞いた秀吉は、江を茶々の病気を理由に呼び戻し、佐治家へ返さなかったという。秀吉は「佐治は予の相婿には不足なり」と激怒したというが、これが事実ならば、淀殿はすでに秀吉の側室となっていたことになる。すなわち、一般的に言われるより早く、淀殿は秀吉の側室となっていたと福田千鶴氏は推定する。
 『徳川幕府家譜』によれば、江は岐阜城主となっていた羽柴小吉秀勝の妻となる。文禄元年(1592)2月のことという。秀勝は三好吉房と秀吉の姉・ともの間に生まれた子で、兄が関白秀次、弟に羽柴秀長の養子となった秀保がいる。江が秀勝のもとに入ったのは、文禄元年2月であったが、夫の秀勝は同年9月9日に、朝鮮出兵の途中に24歳で病死してしまう。
 江と秀勝の間には、一女(完子)が生まれているが、茶々によって養育され、その養女となって公卿九条幸家に嫁いだ。『徳川幕府家譜』はこの後、江は公卿の九条道房に嫁したとするが、この完子の嫁ぎ先と混同した誤りである。(滋賀夕刊2009/10/15)

■データ 02

    http://blogs.dion.ne.jp/miraiki/archives/7510161.html
    2008年08月18日
    崇源院さまの話

 崇源院 お江の方(1573〜1626)。
 2代将軍・徳川秀忠公のご正室にして、3代将軍・徳川家光公のご生母とされます。
 父は近江・小谷城主、浅井長政公、母は織田信長公の妹、お市の方でして、幼年期に父の浅井長政公は織田信長公によって討たれ、お江の方は母、姉ともに尾張へ引き取られます。
(浅井家のルーツは、物部守屋にさかのぼるといいます)

 母であるお市の方は、信長公の没後に柴田勝家公と再婚し、越前に移りますが、羽柴秀吉公によって柴田勝家公、お市の方は亡くなり、お市の方の3人の息女は秀吉公に引き取られます・・・・・・。
 長女の茶々さまは、秀吉公の側室となり、次女のおはつさまは京極家に嫁ぎます。
 末娘のお江さまは、佐治予九郎と結婚後に離婚されられ、秀吉公のおいにあたる羽柴秀勝公と再婚するも秀勝公が病没。
 さらに秀吉公の命により、関東にあった徳川家康公の子である秀忠公と再婚します。
 関東、江戸城に入ったお江の方ですが、秀忠公との仲はよく7人もの子に恵まれたといわれています。
 しかし、長姉の茶々さまの子である秀頼公と徳川家が戦闘状態となり、大坂城が徳川によって落城し、茶々さまら多くの肉親を失う悲運も経験しています。

 徳川家の家督相続をめぐって長男である家光公と次男である忠長公が争い、これを家康公が「裁定」したのは有名な話ですね。
 これは、三河人気質を受け継いだ家光公と尾張人気質を受け継いでいる忠長公をめぐって徳川家の内部で「三河派閥」と織田・豊臣家につながる「尾張派閥」の権力闘争ですね・・・・。
(三河生まれが多い徳川譜代の家臣団が三河人気質の家光公を支持するのは、ある意味当然ですが・・・・)

 お江の方は、家光公の将軍就任後に夫である秀忠公に先立ってご他界されます。58歳だったといいます。
 江戸・我善坊谷(現在の東京・六本木近く)で荼毘にふされ、墓は芝の増上寺に埋葬されたといいます。
 「崇源院」とおくり名され、9メートルもの石の石塔を墓碑にしたといい、秀忠公のお江の方への愛情が感じさせます・・・・・。
(この石塔は、秀忠公の死後に家光公によって解体されています)
 後に廟所の建物が鎌倉・建長寺に移築され、新たな廟所が建立されたといいます。
 しかし、先の戦災で東京にあった「崇源院さま」の廟所は焼失、戦後の徳川家による改葬により崇源院さまの墓は「合祀塔」に改葬されているといいます。

    鎌倉にある旧崇源院霊屋についてはこちら
    http://www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/zojoji-tatemono.html
 追記
 現在、東京・芝 増上寺にある2代将軍・徳川秀忠公の墓である石塔は、夫人である崇源院さまの旧墓塔を転用されたとされています。
 秀忠公の墓である木造宝塔が戦災で焼失されたために崇源院さまのお石塔が使われたとのことです。

この記事へのコメント

今日は。
私は前から不思議に思ってましたが、各歴代の御台所は大抵埋葬される時は土葬が多いのに(現に最近発掘があった寛永寺の徳川墓地の二人の将軍御台所の墓は土葬でした)何故、崇源院さまの場合は火葬だったのでしょうか?
当時としては火葬で埋葬されるのは稀有な事で、余程の理由からってききますが…
又家光公は何故、生母の崇源院さまの9メートルもあった立派な石塔墓を壊してしまったのでしょうか?此も母親憎しから来てるのでしょうか?
大和こころさん何かご存知ありませんか?

こんばんは。
崇源院さまがなぜ火葬になったかまでは詳細不明です。崇源院のお石塔は戦後の増上寺の徳川家墓地改葬で発見されたといいますが、その後はどうなったかはまだしらべていないのですね。
想像では「秀忠公の墓」は木造建築でつくられていて、墓碑の宝塔も木造だったといいますが、戦災で焼失しています。
巷間いわれる愛憎もあるかもしれませんが、おそらく秀忠公の墓より質素になるように再建されたと思っています。

■データ 03

    http://www.m-network.com/sengoku/haka/sugen640h.html
    お江与の方(おえよのかた) 1573〜1626

崇源院。浅井長政とお市の方の間の娘で、淀君の妹。徳川秀忠の正室となり、家光を生んだ。写真は高野山奥の院にある崇源院の墓で、東京都港区の増上寺にも彼女の墓がある。法名は「崇源院昌誉和興仁清」。

☆参考資料☆

この墓を建立したのは、彼女の子で後に実の兄である江戸幕府三代将軍家光から改易され自害した駿河大納言徳川忠長である。

■データ 04

    http://blog.goo.ne.jp/kureodora1104/e/6302378c6c9d3a2ff0b521dfce74dd94
    歴史の中の3姉妹 江(崇源院)

江(崇源院)

 2度の不幸な結婚生活の後、家康の嫡男で後の徳川2代将軍徳川秀忠の正室となり、3代将軍家光や和子・後水尾天皇の中宮、明正天皇の生母たちを産む。
 多くの子を出産してきたため、自らの子孫を後代に残せなかった姉2人とは対照的に、彼女の血筋は現在まで続いている。 なお、諱については諸説があって未だにはっきりしていない。
 天正元年浅井長政の三女として近江国小谷現滋賀県湖北町に生まれる。 母は織田信秀の娘・お市の方。 9月1日父・長政が妻・お市の兄・織田信長と対立し、小谷城が落城され、長政、が自刃すると母・お市、姉・茶々、初とともに城を逃れ信長に保護される。
 この時、兄・万福丸は信長の命により殺されている。
 天正10年6月2日本能寺の変で伯父・信長が家臣明智光秀に殺され、6月27日後継者を決める清洲会議により母・お市は信長の家臣柴田勝家と再婚し越前国北ノ庄城へ移る。
 天正11年賤ヶ岳の戦いで北ノ庄城が落城、勝家とお市の自害後は豊臣秀吉の元へ保護される。
 天正12年秀吉の命により母の姉(織田信長妹お犬の方)の子佐治一成へ嫁ぐ。 だが一成が小牧・長久手の戦いで信長の跡継ぎのことで秀吉と不和になった母の甥織田信雄 織田信長次男を擁立した徳川家康に味方したため秀吉の怒りに触れた一成は秀吉から所領を没収されるとともに離縁させられた。
 文禄元年1592年、再び秀吉の命により秀吉の甥・秀勝(小吉秀勝。関白秀次弟)の元へ嫁ぎ、同年完子(九条忠栄室)を産むが、文禄の役で秀勝は死去。
 文禄4年9月17日家康の三男・秀忠に嫁す。 再々婚である。 なお、前夫・秀勝との子である完子は長姉・茶々(淀殿)の猶子として引き取られる。
 慶長2年千姫、母方の祖を出産。 秀頼の母は秀吉の側室となった長姉・茶々である。 また、再嫁した本多忠刻の母は義父・家康の長男で秀忠の長兄松平信康と信長の長女・徳姫の娘である。
 慶長4年珠姫(前田利常室。前田光高の母で前田綱紀の祖母)出産。
 慶長6年勝姫(松平忠直室)出産。 松平忠直は義父家康の次男秀忠次兄の結城秀康(松平秀康)の長男。
 慶長7年初姫(京極忠高室)出産。京極家は次姉・お初(常高院)の嫁ぎ先。だが、忠高は常高院の実子ではなく側室の子。
 慶長9年(1604年)8月12日、家光出産。
 慶長11年(1606年)、忠長出産。
 慶長12年10月4日和子出産(後水尾天皇中宮の東福門院、明正天皇母)を出産。
 9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。 法名は「崇源院昌誉和興仁清」。 この時、秀忠・家光・忠長は上洛中であった。 寛永3年11月28日、従一位を追贈される。
 徳川将軍御台所(正室)で将軍生母となったのは後にも先にも彼女だけである。 親族の死、政略や実家の跡継ぎ争いに巻き込まれた前半生とは違い、将軍御台所・将軍生母として安定した後半生を過ごした。
 死後、お江与は二男・家光が増上寺に埋葬した。
 なお、お江与は身分が高かったのにもかかわらず、火葬。 戦後、鈴木尚が中心となって行なわれた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。
 それによると、火葬にされており、生前の崇源院はかなり小柄で華奢な美女であったようである。
 淀殿(茶々)・常高院(初)・崇源院(江)のいわゆる「浅井三姉妹」は、「戦国一数奇な運命を辿った姉妹」として知られる。 いずれも母・お市の方の美貌を受け継いだ美女で、幼い頃からたいへん仲の良い姉妹だったと伝えられる。
 だが実のところ、これほど身分が高く歴史的にも重要な人物でありながら、崇源院の容貌・性格などを含めた人物像を伝える確たる史料は少ない。 小説・ドラマなどでは、前述のイメージや、夫・秀忠との関係から類推して、美貌で誇り高いがヒステリックで嫉妬深い性格の人物として描かれる事が多い。
 が、作家永井路子は彼女を母や姉達ほど美人でもなく機転が利く訳でもないが、どんな運命に巻き込まれても平然と受け流し、その度に魅力を増していく女性という、全く別の解釈をしている。
 夫・秀忠はお江与と結婚して以降、浮気はあったが正式な側室は1人ももたなかった。
 彼女が秀忠より年上で、嫉妬深い性格であったため、律義な性格であった秀忠は頭が上がらなかったとされるが、それだけ魅力のある女性ではあったようだ。
 また、春日局との対立から、「自ら養育した」三男忠長を溺愛し二男・家光を疎み廃嫡を企てる悪女のイメージも強い。
 かつては実子でもお気に入りの子だけをあからさまに贔屓するのは普通の事で、実際に三男の方を可愛がっていた可能性はあるが、近代以前高貴な女性は決して我が子に自ら授乳し育児をする事は無い(それは乳母の役目。事実、忠長にも乳母が付いている)という常識からして、それは有り得ない。
 「嫡子(長子)相続制」を定めた家康の政治的意図や、春日局が彼女の死後に大奥で絶対的権力を握った背景も考慮すべきであろう。
 二男・家光よりも三男・忠長を可愛がったのは、忠長が母・崇源院の伯父・織田信長によく似ていたためであるという。 忠長の妻は織田信長の次男織田信雄の孫娘であり、母・崇源院がいかに織田家との血筋を重んじていたのかが伺える。

■データ 05

    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1050891975     崇源院ってなにをした人なんですか?

 大河ドラマ江が来年から始まりますがいったい何をした人なのかよくわかりません。 教えてください。  ストアンサーに選ばれた回答si728664さん  徳川秀忠(徳川幕府第二代征夷大将軍)と結婚する前は豊臣秀吉の甥・羽柴秀勝の正室でした。 秀勝との間にもうけた姫(完子)は昭和天皇以下各親王(秩父宮・高松宮・三笠宮)の先祖のひとりとなりました。  さらに、徳川秀忠との間にもうけた子のうち、末娘が後水尾天皇の中宮となり、明正天皇(女帝)の母になりましたので崇源院(お江)の子孫からは天皇が3名も出た、ということになります。 母は強し…。

■データ 06

    http://chibanikki.blog22.fc2.com/blog-date-200612.html
    芝増上寺の旅

 芝の増上寺に行ってきました。ここは徳川将軍家の菩提寺であると同時に、開山は千葉介氏胤の子・酉譽聖聰という千葉氏ゆかりのお寺でもあります。
 地下鉄大門駅を出て、少し歩くと、最近建立の増上寺大門があります。「大門」といってもそれほど大きくなく、横浜中華街の門のようなカンジですね。かつてはこの門が「増上寺」の入口でした。
      写真・・・大門
 大門をくぐって少し進むと、安養院という増上寺の塔頭があります。門には「七曜に真向月星」の紋が! 屋根にも同じような七曜月星が。。。この塔頭、千葉氏と関係があるのでしょうか。
      写真・・・塔頭安養院
 さて、また歩いていくと、いよいよ三解脱門です。国道沿いにどーんと構える赤い勇壮な門は、一見すると「表門」のようですが、これは寺の中の門です。中門みたいなもの?
 境内に入ると、真正面に本堂と東京タワーが見えます。これだけ広く見える寺ですが、江戸時代と比べると十分の一以下の広さになってしまっています。
      写真・・・かつての増上寺(薄緑の範囲)
 明治政府によって多くの土地が没収されて公園となり、歴代将軍や公子、御台所などの御廟も、太平洋戦争ですべて壊滅。跡地の多くを西武グループが買い取りました。そのため、諸大名が奉納した燈籠やら建物、門などが全国各地へ流出していきました。一部西武グループが集積して本拠の狭山に寄せ集めで作った寺が狭山不動寺。燈籠などは柵の中に集められて、収容所状態です。しかも節操の無いことに、この不動寺の宗派は増上寺の浄土宗ではなく、寛永寺の天台宗ときてますから開いた口がふさがらない。
 しかも、東京プリンスホテルが建っている場所、そこは歴代将軍が眠っていた霊廟のまさにその場所。さらにプリンスホテルパークタワー(それ以前はゴルフ練習場にしてました)が建っている場所、そこは二代将軍・徳川秀忠霊廟跡です。我が家は旗本の子孫ではないので徳川家に恩も義理もありませんが、そういった霊廟跡というか、廟所跡とあからさまに判っているところにホテル? ゴルフ練習場? 西武創始者の道義的、倫理的な資質は推して知るべしです。
      写真・・・本堂
      写真・・・プリンスホテル(将軍家廟所跡)
      写真・・・鎌倉時代の諸菩薩
 とまぁそんなことを考えつつ、もと来た地下鉄大門駅から帰途に着きました。

■データ 07

    http://www.pref.shiga.jp/f/kanko/kanko/2011taigadorama/gouhime-top.html
    江ゆかりの地マップ

大津城跡
浅井三姉妹の次女初が嫁いだ京極高次の居城。 関ヶ原前哨戦において高次とともに籠城したといわれています。 落城後、部材は彦根城などで用いられたそうです。 江戸時代には東海道最初の宿場町として商業の町として栄えました。

坂本城跡
明智光秀の居城。織田信長の命により築城されました。 本能寺の変で主君信長を討ち、その後山崎の合戦で敗れ坂本城も落城。

大溝城跡
織田信長の甥信澄が築いた湖城。 京極高次の居城でもあります。 内湖に面した天守と西近江路が近江の湖城独特の景観をつくっていました。

水口岡山城跡
水口岡山城は、戦国末期に築城された城跡で、水口城に対して「水口古城」とも呼ばれています。 1585年(天正13年)に豊臣秀吉の家臣である中村一氏によって築城され、のちに豊臣政権の中枢、増田長盛、長束正家が入城しています。 関ヶ原の合戦の敗北によって西軍方に属していたため落城しました。  水口城を築城する際ほとんどが運び出されていて、わずかに石垣が残っているだけになっています。

小谷城跡
浅井三姉妹の父浅井長政の居城。彼女たちが幼少の頃を過ごした地です。 天正元年(1573年)織田信長の攻撃により落城。 父浅井長政終焉の地でもあります。 小谷山に築かれた城跡を見ることができるとともに麓では資料館もあり、小谷城や浅井氏について知ることができます。

長浜城
豊臣秀吉の居城。 本能寺の変の後、柴田勝家の甥・勝豊が二代目の城主となったがわずか6ヶ月ほどの短期間で次に三代目の城主として秀吉の家臣である山内一豊が入城しました。

清滝寺
京極家の菩提寺。 京極家に嫁いだ浅井長政の姉マリアは、竜子、高次の母となり再興を果たします。 清滝寺の京極家墓所や中山道柏原宿など見どころがあります。

佐和山城跡
「三成に過ぎたるもの」と言われた石田三成の居城。 関ヶ原合戦の後、彦根城を築いたことにより廃城となりました。 佐和山城のほか、国宝彦根城や鳥居本宿など江戸時代の城と城下町、そして中山道の宿場町をみることができます。

安土城跡
浅井三姉妹の伯父織田信長の居城。浅井三姉妹もここに訪れたことでしょう。 西の湖に面した安土山全山にめぐらされた石垣、滋賀県立安土城考古学博物館において中世の城や信長について学ぶことができるとともに、復元された安土城天主が展示されている信長の館があります。

八幡山城跡
豊臣秀吉の甥秀次の居城で、安土城下町を移して成立しました。 後に京極高次の居城にもなりました。 近江商人発祥の地でもあり、商人屋敷やヴォーリス建築、国の重要文化的景観制度の第一号として選定された八幡の水郷など見所満載です。

■データ 08

    http://kyotohotelsearch.com/blog/2010/11/22/kurodanikuyoto/
    崇源院、春日局、徳川忠長の供養塔・金戒光明寺

京都の歴史京都市左京区の金戒光明寺の墓地には、崇源院、春日局(かすがのつぼね)、徳川忠長の供養塔があります。 いずれも江戸時代初期の人物で、お互いに深い関係があることで知られています。

崇源院の供養塔
金戒光明寺の墓地は、境内の東側にあります。 墓地に入ってすぐの左側の石段を上ったところに建っている大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が崇源院の供養塔です。
      写真・・・崇源院の供養塔
崇源院は、浅井長政と織田信長の妹のお市の方との間に生まれた女性で、お江(おごう)の名でも知られています。 姉には、豊臣秀吉の側室となった淀殿と京極高次に嫁いだお初がいます。 3人を総称して浅井三姉妹とも呼ばれていますね。
お江は、後に徳川秀忠に嫁ぎます。 2人の間には、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、徳川家光、忠長など7人の子供がいました。

春日局の供養塔
崇源院の供養塔の左には、春日局の供養塔があります。
      写真・・・春日局の供養塔
春日局という名は、朝廷から賜ったもので、本名はお福といいます。 お福は、明智光秀に仕えた斎藤利三の娘として誕生しました。 明智光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れると斎藤利三は処刑されます。 しかし、お福は女性だったため、捕えられることはありませんでした。 その後は、稲葉正成に嫁ぎ、慶長9年(1604年)には徳川家光の乳母となります。

徳川忠長の供養塔
崇源院の供養塔の右側には、徳川忠長の供養塔が建っています。
      写真・・・徳川忠長の供養塔
忠長は、徳川秀忠と崇源院の間に生まれた子で、徳川家光の弟です。 家光が乳母の春日局に育てられたのに対して、忠長は母の崇源院によって育てられたと言われています。 そのため、崇源院は、兄の家光よりも弟の忠長を可愛がり、次期将軍にしたいと思っていました。 しかし、崇源院の忠長に対する溺愛は、その後、将軍継嗣問題へと発展していくことになります。
 この問題を解決しなければならないと思ったのが春日局です。 春日局は、元和元年(1615年)に徳川家康に会いに行き、事の次第を報告して、3代将軍を家光にするように願い出ました。 そして、家康は鷹狩と称して江戸城に行き、満座の中で次期将軍は家光とすることを宣言し、将軍継嗣問題は解決します。
元和9年に家光が3代将軍になると、その翌年の寛永元年(1624年)に忠長は、甲斐、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)あわせて55万石を領有することになります。 このことから忠長は、駿河大納言と呼ばれるようになりました。
忠長は、55万石を領有する大大名になりましたが、それに満足せず、父の秀忠に100万石に加増か大坂城をくれるように頼みます。 しかし、この願いは秀忠に受け入れられませんでした。
その後、忠長の素行が悪くなります。 幕府は、彼の領地を没収し、安藤重長のもとに預けました。 そして、忠長は、寛永10年に幕命により切腹させられ、この世を去りました。
忠長の一件について、その責任の一端が自分にもあると感じた春日局は、寛永11年に金戒光明寺に忠長の供養塔を建立しました。
ちなみに崇源院の供養塔も春日局が、寛永5年に建立したものです。
なお、金戒光明寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。
金戒光明寺の詳細

■データ 09

    http://kyotohotelsearch.com/kankosakyoku/konkaikomyoji.html
    金戒光明寺の観光情報

由緒
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、承安5年(1175年)に比叡山の黒谷で修業を終えた法然がその師・叡空から与えられた土地に、浄土宗を確立するために草庵を結んだのが始まりとされる。  諸堂が整えられたのは、5世の恵(えがい)の時で、紫雲山光明寺と名付けられた。 そして、8世の運空が後光厳天皇から「金戒」の2文字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるようになった。  また、正長元年(1428年)には、法然が最初に浄土教の真実義を広めた念仏発祥の地として、後小松天皇から「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。  その後、応仁の乱(1467年)で焼失するが、17世の理聖が復興する。  なお、金戒光明寺は黒谷の通称で親しまれている。また、知恩院、知恩寺、清浄華院と並び浄土宗四ヵ本山のひとつである。

山門
高麗門(ページトップの写真)をくぐり東に歩くと建っている山門。山門楼上の勅額には後小松天皇の宸筆で「浄土真宗最初門」と書かれている。現在の山門は、文政11年(1828年)に江戸幕府の命により再建されたものである。
御影堂
山門をくぐった正面に建つ御影堂(みえいどう)。法然自作の御影像が祀られている。昭和9年(1934年)に火災で焼失した後、同19年に再建されている。
阿弥陀堂
御影堂の東側に建つ阿弥陀堂。恵心僧都源信の最後の作とされる阿弥陀如来像が安置されている。この阿弥陀如来像は、仏像彫刻に必要なのみを胎内に納めているとされることから「のみおさめの如来」と言われる。現在の阿弥陀堂は、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が再建したものである。
鎧掛けの松
御影堂と阿弥陀堂の間にある鎧掛けの松。平家物語の中で平敦盛を討ち取った熊谷直実が法然の弟子となり出家した際に、着ていた鎧をこの松にかけたとされる。現在の松は2代目。
三重塔
阿弥陀堂の東の方にある石段を登り終えたところに建つ三重塔。寛永10年(1633年)に徳川秀忠の菩提を弔うためにその家臣の伊丹重好によって建立された。
紫雲石
三重塔から北に歩くと塔頭(たっちゅう)の西雲院がある。西雲院は法然ゆかりの名石で寺宝として伝わる紫雲石を守るために元和2年(1616年)に宗厳(そうごん)によって創建された。

■データ 10

    http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/30548/m0u/%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%82%8A
    おくり‐な【贈(り)名/×諡】  崇源院

1 死者にその生前の徳や行いなどに基づいて贈る称号。のちの、諱(いみな)。諡号(しごう)。
2 戒名。
戒名(かいみょう) 法名(ほうみょう) 諡号(しごう) 諱(いみな) 追号(ついごう) 霊位(れいい)  ⇒類語辞書で詳しい使い方を調べる ⇒おくり【贈り】の全ての意味を見る

■データ 11

    http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/10152/m0u/
    贈り名

戒名(かいみょう)/法名(ほうみょう)/諡号(しごう)/諱(いみな)/贈り名(おくりな)/追号(ついごう)/霊位(れいい)
[共通する意味] ★死後に付けられる名。
[英] a posthumous Buddhist name
[使い分け]
【1】「戒名」「法名」は、死者に付ける名。また、出家した人に授けられる名のこともいう。
【2】「諡号」「諱」「贈り名」「追号」は、貴人や高僧、また、生前の功績などをたたえて贈る名をいう。
【3】「霊位」は、僧が、法事などで故人を呼ぶ名、死者の霊に付ける名をいう。また、それを記した位牌(いはい)のこともいう。

■データ 12

    http://www.nhk.or.jp/go/
    大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」

■データ 13

    http://www.nhk.or.jp/go/about/index.html
    大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」|江とは?

■データ 14

    http://www.nhk.or.jp/go/cast/index.html
    大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」|人物相関図

■データ 15

    http://www.nhk.or.jp/go/info/index.html#infohead
    大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」|関連情報#infohead

■データ 16

歴代天皇125代総覧

  初代  神武 (じんむ) 
 第2代  綏靖 (すいぜい) 
 第3代  安寧 (あんねい)
 第4代  懿徳 (いとく )
 第5代  孝昭 (こうしょう) 
 第6代  孝安 (こうあん) 
 第7代  孝霊 (こうれい) 
 第8代  孝元 (こうげん) 
 第9代  開化 (かいか )
第10代  崇神 (すじん)
第11代  垂仁 (すいにん)
第12代  景行 (けいこう) 
第13代  成務 (せいむ)
第14代  仲哀 (ちゅうあい) 
第15代  応神 (おうじん)
第16代  仁徳 (にんとく)
第17代  履中 (りちゅう) 
第18代  反正 (はんぜい)
第19代  允恭 (いんぎょう)
第20代  安康 (あんこう)
第21代  雄略 (ゆうりゃく) 
第22代  清寧 (せいねい)
第23代  顕宗 (けんぞう) 
第24代  仁賢 (にんけん) 
第25代  武烈 (ぶれつ)
第26代  継体 (けいたい)
第27代  安閑 (あんかん) 
第28代  宣化 (せんか) 
第29代  欽明 (きんめい) 
第30代  敏達 (びだつ)
第31代  用明 (ようめい)
第32代  崇峻 (すしゅん)
第33代  推古 (すいこ)    女帝
第34代  舒明 (じょめい)
第35代  皇極 (こうぎょく)    女帝
第36代  孝徳 (こうとく)
第37代  斉明 (さいめい)    女帝
第38代  天智 (てんじ) 
第39代  弘文 (こうぶん)
第40代  天武 (てんむ) 
第41代  持統 (じとう)     女帝
第42代  文武 (もんむ )
第43代  元明 (げんめい)    女帝
第44代  元正 (げんしょう)    女帝
第45代  聖武 (しょうむ) 
第46代  孝謙 (こうけん)     女帝
第47代  淳仁 (じゅんにん)
第48代  称徳 (しょうとく)    女帝
第49代  光仁 (こうにん) 
第50代  桓武 (かんむ) 第51代  平城 (へいぜい) 
第52代  嵯峨 (さが) 
第53代  淳和 (じゅんな) 
第54代  仁明 (にんみょう)
第55代  文徳 (もんとく )
第56代  清和 (せいわ) 
第57代  陽成 (ようぜい)
第58代  光孝 (こうこう) 
第59代  宇多 (うだ)
第60代  醍醐 (だいご)
第61代  朱雀 (すざく)
第62代  村上 (むらかみ) 
第63代  冷泉 (れいぜい) 
第64代  円融 (えんゆう) 
第65代  花山 (かざん) 
第66代  一条 (いちじょう)
第67代  三条 (さんじょう) 
第68代  後一条 (ごいちじょう)
第69代  後朱雀 (ごすざく) 
第70代  後冷泉 (ごれいぜい)
第71代  後三条 (ごさんじょう)
第72代  白河 (しらかわ) 
第73代  堀河 (ほりかわ) 
第74代  鳥羽 (とば) 
第75代  崇徳 (すとく) 
第76代  近衛 (このえ) 
第77代  後白河 (ごしらかわ)
第78代  二条 (にじょう) 
第79代  六条 (ろくじょう) 
第80代  高倉 (たかくら) 
第81代  安徳 (あんとく)
第82代  後鳥羽 (ごとば) 
第83代  土御門 (つちみかど)
第84代  順徳 (じゅんとく) 
第85代  仲恭 (ちゅうきょう)
第86代  後堀河 (ごほりかわ)
第87代  四条 (しじょう) 
第88代  後嵯峨 (ごさが) 
第89代  後深草 (ごふかくさ)
第90代  亀山 (かめやま)
第91代  後宇多 (ごうだ) 
第92代  伏見 (ふしみ) 
第93代  後伏見 (ごふしみ) 
第94代  後二条 (ごにじょう) 
第95代  花園 (はなぞの) 
第96代  後醍醐 (ごだいご) 
第97代  後村上 (ごむらかみ) 
第98代  長慶 (ちょうけい) 
第99代  後亀山 (ごかめやま) 

第100代  後小松 (ごこまつ) 
第101代  称光 (しょうこう) 
第102代  後花園 (ごはなぞの) 
第103代  後土御門 (ごつちみかど)
第104代  後柏原 (ごかしわばら)
第105代  後奈良 (ごなら)
第106代  正親町 (おおぎまち) 
第107代  後陽成 (ごようぜい) 
第108代  後水尾 (ごみずのお) 
第109代  明正 (めいしょう)     女帝
第110代  後光明 (ごこうみょう) 
第111代  後西 (ごさい) 
第112代  霊元 (れいげん) 
第113代  東山 (ひがしやま) 
第114代  中御門 (なかみかど) 
第115代  桜町 (さくらまち) 
第116代  桃園 (ももぞの) 
第117代  後桜町 (ごさくらまち)     女帝
第118代  後桃園 (ごももぞの)
第119代  光格 (こうかく) 
第120代  仁孝 (にんこう)
第121代  孝明 (こうめい) 
第122代  明治 (めいじ) 
第123代  大正 (たいしょう) 
第124代  昭和 (しょうわ) 
第125代  今上参考文献・『天皇の本〜日本の霊的根源と
  封印の秘史を探る〜』(学研)
・『歴代天皇総覧』(笠原英彦/中公新書)
〜歴代天皇125代総覧〜【北朝天皇】 初代  光厳(こうごん)
第2代  光明(こうみょう)
第3代  崇光(すこう)
第4代  後光厳(ごこうごん))
第5代  後円融(ごえんゆう)
第6代  後小松(ごこまつ) ※第100代