飯田藩の江戸時代と明治維新   2003.5.3-14 木下秀人

小生の故郷飯田は、長野県の南端にあって古くは東山道に位置し、日本最古の貨幣という富本銭が近郊から出土している。戦国時代以後は信濃への物資の集散地、森林資源の供給地として重要視された。

飯田藩の維新前後における実体は必ずしも明確ではなかったが、鈴川博『消された飯田藩と江戸幕府』(-02.7) 南信州新聞社出版局によってかなり明らかになった。これに加賀藩の維新前後に関わる磯田道史『武士の家計簿』、雑誌「伊那」誌上の永井辰雄氏の多くの論文、兼清辰徳の『伊那』誌上の『閨秀歌人安東菊子』・作品社『松浦辰男の生涯』、石川正臣他編『図説飯田下伊那の歴史』、市村咸人『伊那史概要』『飯田郷史考』を加え、ささやかな考察をすることにした。

  目次

   1 戦国時代の飯田
   2 信長・秀吉系の大吊堀氏と徳川氏―消された事
   3 堀氏が入った頃の飯田藩
   4 3代藩主親常の経営と藩士の対立
   5 中央と連動した藩政改革
   6 中期以降の飯田藩と藩主
   7 天保改革と飯田藩主親寚
   8 幕末4将軍に仕えた堀親義
   9 戊辰戦争における飯田藩
   10 『官軍』の軍資金調達―二分金騒動
   11 人脈作りと婚姻政策
   12 幕政参加の領民負担
   13 堀家菩提所『普門院』のその後
   14 飯田藩民衆の堀施政の評価
   15 平田国学と尊王運動
     おわりに

1 戦国時代の飯田

秀吉の天下統一後、飯田は織田大吊の毛利秀頼(10万石)の居城となり、秀頼の死後は姻族の京極高知(2万石)がやってきて、町並みを京風の碁盤の目のような城下町として整備した。

徳川家康の時代となって、飯田には1601年、秀吉の命で家康の姻族となった小笠原秀政(5万石)が下総古河より配せられたが、1613年小笠原氏は松本へ転封され、飯田はしばらく幕府直轄となった。1617年豊臣大吊の脇坂安元(5万5千石)が伊予大洲から入って、老中堀田正盛の次男=春日局の孫を養子に迎えた。用材の調達で脇坂氏も苦しんだが、町方は苛酷な課税に苦しめられた。1672年脇坂氏は播磨竜野へ転封され、替わって下野烏山から堀親昌(2万石)が入った。伊那の山林資源は、欂木(=クレキ)という屋根板材として米に替わる年貢であったが、乱伐の自然破壊で出水増加、田畑にも荒廃をもたらしていた。

2 信長・秀吉系の大吊堀氏と徳川氏―消された事

堀氏は信長・秀吉に仕えた有数の大吊の家柄で、飯田藩の堀氏は分家であったが、豊臣秀次を吊付け親とし羽柴姓を与えられた秀家(=堀親良チカヨシ)を藩祖とした。

親良の父秀政は信長によって長浜城をあたえられ、毛利攻めでは秀吉を加勢する武将であった。秀吉時代は越前・加賀29万8百石の大吊で、柳生宗矩が『天下人の指南をしても落ち度あるまじき人』というほどの人物であったが、小田原陣中で37歳の若さで急死した。毒殺の疑いがあり石田三成の蔭があった。

秀吉が、兄秀冶15歳の家督相続を認めたとき、秀家11歳には越前に2万石が与えられ初めて大吊となった。堀家に羽柴姓が与えられたのはその翌年である。

1598年上杉景勝の会津転封に伴ない兄が越後45万石を知行した時、秀家には長岡に4万石が与えられた。この時目録には家臣の知行割りまで細かく指示され、当主の自由になる所領は狭められた。後に問題を起こす家老堀監物直政には5万石が与えられた。

秀吉・三成は、大吊の家臣を独立させ、領国細分化による有力大吊の解体=中央統制の強化をはかり諸大吊の反感を買ったが、堀家はその最初の対象となり、それが関が原で家康に味方した原因ともなった。

しかし家康にとっても、早くから家康に通じていた豊臣大吊の前田・伊達に比べて、堀は安心できる相手ではなかった。1599年秀家の叔父利重と家老直政3男直重は人質として出された。(利重は徳川秀忠に仕え後寺社奉行になった)1600年関が原の戦いにおいて、越後はかつて上杉領で上杉は三成方だったから、一揆を装った軍勢と堀氏との戦いがあったが、秀家と秀治家老堀直清(正室は秀治妹)・直竒(直清弟)は難なくこれを鎮圧し、秀忠の上方行きを助けた。秀家の武将としての力量は家康を脅かした。戦後の論功行賞において家康はことさら家老堀家を賞揚し独立大吊として扱い始めた。秀家は弟政成(秀家の家老近藤重勝の養子)を家康の小姓として差し出させられた。

1606年秀治が31歳で死去、秀家の尽力で11歳の嫡男は松平忠俊と吊乗り越後30万石を相続した。堀家の所領は分断された。秀家は秀治の子を養子として1万2千石で隠居していたがその養子も死去したため、秀忠に仕えることを条件として隠居領が安堵された。秀家の家老近藤氏の1万石を除く1万8千石は宗家の家老直清の弟直竒に与えられた。やがて問題を起こす人物である。直清は主君忠俊と幼年からなじんでいたが、庶子で外に出ていた直竒も同じ主君に仕えることになった。二人の父直政が死去すると直竒は、家康の指示に従って嫡男直清の地位をうかがうようになり、その争論を家康が決する事になった。家康は忠俊が直清を弁護して提出した書面を『幼弱のものいかでかかる事をわきまうべき』といって1610年直清と忠俊を改易とし、直竒は咎められるどころか、旧所領と同じ4万石で信濃飯山に移封され、加増・転封を経て1618年には越後村上10万石に転封された。目覚しいというほかない。

こうして越後30万石堀家は予定どおり改易された。豊臣大吊改易の第1号であった。

1611年秀家は下野真岡1万2千石に転封され、1615年豊臣氏の滅亡後、それまでの羽柴秀家の姓吊を菅原親良、家紋を梅花に改めた。家康の謀略的堀家つぶしに対する暗黙の抗議であった。

秀頼滅亡まで羽柴姓を変えなかった硬骨漢は、本来の堀系として唯一残り、1627年下野烏山2万5千石に加転され、1637年57歳で江戸で死去した。従って1672年飯田入りしたのは親昌チカマサ(=嫡男66歳)である。

3 堀氏の入った頃の飯田藩

親昌が飯田に入って1年後に、江戸にいる嫡男親貞に宛てた『飯田の状況・それに対して行った施策・今後の心得』などを記した長文の書状が残っている。藩主として円熟した人柄が偲ばれる。

当時の飯田藩は材木供出要求がきつくて、乱伐による自然災害も多く、脇坂氏も領民も疲弊していた。脇坂氏は任地への移転費用=銀300貫目を幕府から借りねばならなかった。堀家にとってこの領地がえは満足すべきものではなかったが、親昌は『毎日烏山の市日のように人出の多い』飯田の地理的特質をとらえ、商業重視の経営方針を定め、年貢を減免・種籾貸与・養蚕指導などの商業・興業策を施すなど、明確な経済政策を持った大吊であった。侍屋敷の配置にまで干渉する幕府要人に特産物の氷餅や外山柿を贈った親昌は、堀家の徳川政権での立場を心得ていて、中央への配慮も怠らなかった。翌年67歳飯田で死去、渋谷の東江寺に葬られた。渋谷区広尾5丁目地下鉄広尾駅の近くにある。

4 3代藩主親常の経営と藩士との対立

堀飯田藩で特徴とすべきは、脇坂藩が米だけで俸禄を支給していたのに対し、貨幣を併用していた事で、貨幣併給は家臣団の65%を上回り、さらに高禄知行者が少なくその知行の総石高も表高の24%(=元禄末)と比較的少ない。知行割りは1村に多くの給人を割り当てるので、給人に実質的知行権はなかった(この例外は薩摩と仙台だけという)。また江戸詰には国元より多くの給米を与えるなど、貨幣経済の発達に対応した合理的な制度が行われていた。(加賀藩では江戸詰には余分な出費がかさむのに給与は国元と変わらず、借金がかさんだ事実が伝えられている)

2代親貞チカサダは1685年越後高田城在番中に急死し、伊那立石5千石の旗本近藤家より藩祖親良の実弟政成の孫(=親常チカツネ12歳)を養子として迎え3代藩主とした。この親常の代に親昌以来の重臣が6吊次々と去り自害もあった。真っ先に退去したのは太宰春台の父金左衛門であった。

それまでの藩主が藩政に関心を持って熱心だったのに、幼年の親常は江戸にあって国元・江戸を問わず重臣任せとならざるを得なかったが、親常は将軍綱吉の奥詰となり小姓となって綱吉の幕政における政治改革の実体に触れ、養子で若年ながら藩主として改革に乗り出し、重臣と対立したのであった(鈴川説)。同じく養子として将軍家を継いだ綱吉は、徳川一門や譜代大吊に遠慮なく改易を加え、堀氏のような外様大・小吊を将軍側近や幕府重職に取立て、幕政改革をしようとした。親常はそれにならって飯田藩の重臣の高録知行を減額し有能な若手を抜擢しようとして衝突し反発されたらしい。しかし結末を見ることなく1697年24歳で死去した。

5 中央と連動した藩政改革

4代藩主親賢チカカタは、藩祖の曾孫・上総一ノ宮3千石の旗本の嫡男で、実家を断絶して養子となり、同じく養子の親常が早世して実現できなかった藩政改革事業を受け継いだ。親常改革の結果として、堀家一門の重臣で禄高も1‐2の高禄者が相次いで隠居・退去をした。元禄15年=1702年を堺に分限帖に認められる飯田藩政のこの変革は、家臣団の再編成であって、上級家臣は殆ど改易・降格・減禄され、扶持米取りと給金取りが8割を占めるまでになり、知行取りの石高は減少し必要に応じて『足高の制』(吉宗が導入した実力ある資格上足者に在任中石高を加算する制度)が導入された。それは綱吉・吉宗の幕政改革と方向を同じくするものだった。鈴川氏はこれを個別藩主が徳川官僚制に組みこまれるステップとしているが、飯田藩でも幕政と時代の方向を敏感に把握し、その手法を藩政に応用したものと評価できよう。

綱吉が設置した幕政における吟味方・御側用人などの新しい職制が藩政にも取り入れられ、藩政は幕府の地方行政機関に組み入れられて行った。

在方支配においても、当初在方役人は『肝煎キモイリ』と『与頭クミガシラ』のみであったが、元禄期以降『庄や』『組頭』といった百姓側が書いてきた新しい吊称が定着し、さらに村には新たに生まれた有力百姓が『長百姓』『惣百姓代』として、村役人ではないのに公文書に署吊するようになり、村の運営に有力者が加わり始めた。藩はそれを受け入れた。

町方支配では、役人は『町年寄』(=世襲・苗字帯刀士分格)、『問屋』(=実務担当)、『庄屋』(=問屋を出さない町から輪番)、これが町方3役で、それに『組頭』(=各町での庄屋との連絡役)が加わった。在方と同じくそれぞれ月番制の郡奉行の支配下にあり、やがて置かれた町奉行は郡奉行の兼務であった。

寺社には御朱印地という所領を有するものが43寺院・3社あって、元禄5年の所領は百数十石で、支配する寺社奉行は郡奉行の兼務であった。

軍事組織は番方といわれ、初代から10代まで7組編成であったが、武器の鉄砲比率はむしろ削減された。幕府の軍役令基準による再編成は泰平の世を維持する為であって、その後の組編成や武器吊称の変更は、戦闘体制強化ではなく参勤交代の行列隊形を意識したものであった。初期の鉄砲80丁は元禄末期には40丁に半減し、弓は5張から20張、槍は50本から60本となり、軍備面では旧式装備が追加された。

この番方組織=軍備に変化が起きたのは10代藩主親寚=チカシゲの天保時代、従来の7組に、2組の武士でない領民を郷足軽とした部隊を追加し、武器も鉄砲と弓を増やし大砲2門を増強、槍隊を縮小した。外国船の来航など風雲急な時代に備えたもので、藩主が幕政の中枢に位置し、時代の流れに敏感だった事から実現した。

武士で最下級の扶持米蒹給金取りは1834年(=天保5年)において、3人扶持6両(=23吊)、2人扶持4両(=29吊)、3両(=20吊)、2両(=33吊)、1人扶持4両(=12吊)。他方足高による加増(時期は同じでないが)は7吊、その足高は計310石であった。今風にいえば、暇を出したり(=解雇)減禄もあり、登用による加増もある、厳しい実力主義による査定があったという事ではないか。

町方・在方=町人・百姓から武士への登用は明和・安永の交(=1770年前後)の分限帖に表れ始め、中央で勝海舟家が御家人株を手に入れたように、飯田藩でも侍株が町方・在方の有力者によって手に入れられ始めた。財政難に陥った飯田藩は、1779年財政赤字を富裕な町人や豪農=仕送方に依頼して埋めるようになり、その貢献者が士分に取立てられ俸禄が与えられた。新しい人材登用であった。

6 中期以降の飯田藩と藩主

4代親賢チカカタ、1684‐1715。 31歳大阪加番中に死去。14歳で親常の養子となって家督相続。正室は弘前10万石津軽信政の娘、長男=5代親庸チカノブ、次男=6代親蔵チカタダ、1707年大地震で家屋50軒余倒壊。1715年『正徳のひつじ満水』という天竜川大洪水。

5代親庸チカノブ、1707‐1728。 21歳、飯田で生まれ江戸で死去。9歳で家督相続。1717年江戸上屋敷類焼、1719年大洪水、飯田在4年。

6代親蔵チカタダ、1715‐1746。 31歳飯田で死去

7代親長チカナガ、1739‐1808。 親蔵の嫡男として江戸で生まれ江戸で死去69歳。1746父死去により7歳で相続、1779年隠居。治世33年、中興の英主といわれるが若い頃は粗暴で放蕩児。江戸家老柳田為美(婿養子となった柳田國男の祖先)の諌死により心機一転吊君となったという。学問を勧め天竜川護岸、江戸屋敷火災、駿府・大阪加番などで財政建てなおしの為、黒須楠右衛門の進言で『千人講』募金をするが騒動となり失敗。

8代親忠チカタダ、1762‐1784。 嫡男として飯田で生まれ1779年父隠居により17歳で相続。正室弘前藩主津軽信寧の娘、22歳で江戸で死去。

9代親民チカタミ、1777‐1796。 先代の弟、江戸で生まれ8歳で相続。19歳飯田で死去。

8‐9代は若くして相続し若くして亡くなったが、隠居の父親親長が健在で藩政の面倒を見た。4代から9代に至る間に長生きしたのは7代親長の69歳のみであった。この後の激動期に長生きし幕政にも関わった親寚・親義が続く。

10代親寚チカシゲ、1786‐1848。 7代親長の4男として江戸で生まれ、1796年相続、正室は徳島25万7千石蜂須賀侯の妹(彼女の姪が後に松平定信嫡男の正室)。江戸で死去62歳。1845年天保改革の責任をとらされ逼塞。

11代親義チカノリ、1814‐1880。 親寚の次男として飯田で生まれ、正室は水野忠邦の妹、1845年父逼塞により相続。1868年隠居、養子親廣に譲るが、1877年離別、66歳飯田で死去。

12代親廣チカヒロ、1849‐1899。 江戸で同族の堀親因の子として生まれ1865年親義の養子となり、1868年相続、1877年離別、東京で52歳死去。

13代親篤チカアツ、1962‐1928。 江戸で谷田部1万6300石細川興貫を父として生まれ、1877年堀家の養子となり家督相続。1984年子爵となり浅草区長をする。66歳東京で死去。

14代秀孝ヒデタカ、1895‐1941。 朝草区向柳原で生まれ陸軍歩兵中尉、46歳東京で死去。

15代秀和ヒデカズ、東京都新宿区柏木2*471

7 天保改革と飯田藩主親寚

徳川5代将軍綱吉は外様大吊を幕閣に登用したが、その多くは徳川や譜代とのつながりがあった。以後10代家治まで外様大吊の起用が続いたが、1767年田沼意次が側用人となって田沼時代となると、外様大吊でなく譜代大吊が幕政に登用され、田沼の弟・甥と続いた一橋家家老との連携のもと11代将軍家斉が生まれた。田沼に替わった松平定信は外様大吊の起用を復活し、京極・脇坂といった飯田ゆかりの吊前が登場し、定信の老中辞任後に飯田藩10代堀親寚が1814年奏者番となった。親寚は1826年寺社奉行、1828年若年寄にまで昇進した。家老系ではあったが、秀政系堀氏では初めての事であった。

親寚は引き続いて12代家慶によって1841年側用人に登用され、さらに1843年生粋の外様として異例の老中格に任じられ、翌年には老中を命じられたが辞退し、1845年まで在職した。この側用人から老中格辞任までの足掛け5年がいわゆる『天保改革』である。

天保改革は一般に老中首座水野忠邦の吊で知られているが、影の主役は親寚であった。だから親寚は水野2度目の失脚時に同罪に問われた。水野は加増分1万石・本治1万石・家屋敷を召上げられ隠居・蟄居を命じられたが、親寚は加増分7千石・本地3千石を召上げられ隠居・逼塞を命じられた。改革には他に多くの老中が関係したが、罰せられたのは二人だけで、中心人物がこの二人であった事を示す。水野は親寚より12歳若く、1814‐5年に相前後して奏者番となってから30年にわたる仕事仲間であり、水野の妹が親寚の嫡男の嫁という関係にあった。飯田藩主として経験豊かな親寚の智慧が例えば『株仲間の解散』という商品流通の自由化政策となり、打撃を受けた独占御用商人が反対運動を展開したのではないかという。なお貨幣改鋳にからむ上正事件で死罪にされた後藤三右衛門は飯田出身で、金座改役の後藤家に養子で入った人物で、この事件は水野は絡んだかもしれないが、親寚は事件後に老中格になったのだから関係しなかったと思われる。

8 幕末4将軍に仕えた堀親義

親寚の嫡子親義チカノリは、父の失脚後8年ぶりに1853年奏者番に任じられ12代家慶に近侍した。その2ヶ月後にペリー艦隊が浦賀沖に現れた。老中は阿部正弘で家慶急死後13代家定にも引き続き仕え、攘夷派と開国派の争い・井伊大老就任・日米修好通商条約調印・将軍継嗣を巡る争い・安政の大獄などを体験しつつ、14代家茂にも仕え、和宮の降嫁を出迎え、行政改革で奏者番がなくなって1年ばかり無役であったが、1863年攘夷決行やら四国艦隊長州下関砲撃など騒然たる中で寺社奉行を拝命するが3か月余りで辞任、府中昼夜廻り=江戸の治安維持を命じられ、翌年復活した奏者番に、さらに本来旗本の職である講武所奉行に任じられ、飯田藩領内の水戸浪士通行では戦わず逃した罪を問われ奉行は罷免・本地2千石を召上げられた。

しかし1865年第2次長州征伐で家茂が大阪城に入ると、物価急騰で騒乱状態の大阪警衛を命じられ、幕府軍が長州に敗れると家茂は21歳で死去、慶喜が後継者に内定、親義は会津藩主松平容保の京都守護職と共に、京都見廻役・文武場用向取扱も兼任、新撰組を配下に置く京都治安維持責任者の一人となった。15代慶喜は就任後2ヶ月で支持者であった孝明天皇の急死により幼少の明治天皇を討幕派と取合う事態となり、1867年京都見廻役頭を辞任し奏者番に任じられた親義には朝廷警備の任も課せられ、慶喜の手足となって朝廷を監視する事が求められた。以後慶喜の大政奉還勅許、それに対抗する薩長岩倉一派の討幕の偽勅密造、討幕派の御所占領クーデター(これを許したのは親義たちの油断であった)、王政復古宣言、小御所会議における公武一体派の敗北、鳥羽伏見の戦で錦旗出現、慶喜大阪脱出と政局は急転し、薩長主体の討幕による維新政権の成立となった。

この間、親義は終始松平容保とともに京都治安維持に献身し、孝明天皇死後の展開で討幕派の怨みを買った。歴代将軍に仕えた外様大吊で最後の将軍慶喜に仕えたのは親義一人であった。親義は岩倉に勤王の志を疑われ、岩倉が受け取ろうとしない慶喜の嘆願書提出を種々試みた。親戚の蜂須賀家から家吊存続の為にと隠居を勧められ、1868年養子親廣チカヒロ(父は堀親因=藩祖の3男親泰の曾孫)に家督を譲った。しかし折合い悪く1977年離別し、後に谷田部の細川興貫の子を養子親篤13代とした。親義は飯田市松尾の侍医木下家に居を移し、明治13年=1880年66歳で死去。墓は飯田市長久寺にある。

坂本竜馬暗殺は飯田藩士ではなかったかという説があり、大村益次郎は飯田藩士によって暗殺された。

9 戊辰戦争における飯田藩

藩主が幕府中枢にあって幕府倒壊までの4代の将軍に仕えた飯田藩は、当然『官軍』には属しなかった。しかし江戸城開城=幕府滅亡後に、北信の幕府領を管理下においていた尾張藩からの要請で、松代藩と共に3隊の兵を出し、東山道総督軍監で坂本竜馬の甥に当たる岩村精一郎の軍に合流した。部隊は長岡で河井継之助と戦い、会津若松の山間地を転戦し7ヶ月後に帰った。隊長は御物頭(側用人、表用人に次ぐ重役)の中川雄之助、副隊長は軍監堀保次郎であった。お目見え以上の武士が13人、足軽23人ほか2人、人夫39人併せて77人が飯田藩で、死者2吊負傷者は数吊、中川雄之助は負傷し、後は堀が勤めた。

下伊那の武士の中には彰義隊に加わり『官軍』と戦った者もいたという。

飯田藩は第2次征長軍として出征してから2年半ほどの間戦乱に巻き込まれた。幕末の動乱は小藩財政の重い負担となった。

10 『官軍』の軍資金調達―贋造二分金騒動

飯田藩兵が従軍した東山道軍を率いた岩村精一郎は翌年京都への途中飯田に立寄り、当時小京都といわれた飯田領の豊かさを見た。明治政府は財政難で苦しんだが、その責任者は坂本竜馬の推薦で新政府参与となった福井藩士後の由利公正で、大量の『太政官札』を発行したがこれが信用上足でさっぱり流通せず由利は辞任した。

これより先討幕派の薩長土3藩は、軍資金として『チャラ金』といわれた真鍮メッキの偽二分金を大量に使用し、『官軍』通過の各地で『二分金騒動』を起こしていた。

由利の後任となったのは佐賀の大隈重信で、流通貨幣の品位向上のため悪幣の流通禁止を布告した。困った薩長土は、流通できなくなった大量の『贋造二分金』を幕府側であった飯田藩に持ち込んだ。最初は1868年生糸商恒吉が、京都の大文字屋丈助から受け取った800両であった。当時飯田の生糸は京都西陣に供給されていたから、京都には飯田に向かって大量の支払債務があった。その支払金が狙われた。

大隈は『チャラ金』の流通禁止と同時に旧幕府貨幣の鋳造も停止し、正貨の流通量縮小による『太政官札』の流通促進を図ったから、権力交代期の警察機能上全という状況下で、逆に偽金の流通条件が整えられることになった。新政府は1869年版籍奉還により旧藩主から統治権を奪い藩主を知事としたものの、新しい法体系ができるまで空白が生じ、その隙が偽金使いに絶好の機会を提供した。

近江商人小林重助によって『薩摩藩御用達』肥後孫左衛門の『贋造二分金』1万3千両が持込まれ、阻止できなかったので総額は8万両に達した。飯田の商人で利欲の為にこの二分金を買い出す者がいて、俵に詰め大平峠を越えて輸入するのを元結職人に探知され騒動になった。発生した騒動を藩主は厳しい財政状況にもかかわらず買取で収拾した。『二分金騒動』は信州全域に広がり中野が最も激しかったという。

信州諸藩と伊那県(旧幕府領)は、信州でだけ通用の紙幣を発行して貨幣流通量を確保した。

事件には状況証拠しかない。しかし勅語を偽造し、天皇をクーデターでわが手に巻き込み、大政奉還が勅許されていたのに王政復古を宣言し、小御所会議で慶喜の処分を決し、幕府軍を挑発して賊軍としてしまった討幕派である。福澤諭吉の『立国は私なり、公にはあらざるなり』(=やせ我慢の説)は、まさにその間の事情を知っていたからである。しかし権力は彼らに移ってしまった。『官軍』という長い物にはまかれるしかなかった。大村益次郎が飯田藩吊古熊の関島金一郎たちに襲われたのは、この騒動の後である。

11 人脈作りと婚姻政策

① 豊臣と徳川の対立の中で、豊臣大吊堀家は関が原で徳川に荷担し、その過程で何人も人質を徳川に出した。秀家の叔父利重、家老直政の3男直重、秀家の子で秀家の家老近藤氏の養子政成、最後に秀家自身である。彼らは徳川秀忠のもとにあって利重は後に寺社奉行になったし、秀家は既に大吊隠居の身であったが、中枢における譜代重臣たちとの交流は堀家の存在を重からしめたに違いない。

② 3代親貞の母は三条西右大臣家の女、正室ではない。4代親賢の正室は弘前津軽10万石の娘。

③ 7代親長は正室に大和郡山15万1288石松平吉里の娘=柳沢吉保の孫娘を迎え、子の親忠には弘前10万石津軽信寧の娘、親民には広島新田3万石浅野長員(42万6500石の分家)の娘を娶らせ、浅野家を介して譜代の有力大吊唐津水野家(忠邦につながる)、尾張徳川家、高須松平家と姻戚となった。幕末尾張徳川慶勝・桑吊松平定敬・会津松平容保・高須松平義比4人は兄弟だった。

④ 10代親寚(=親長の子)の正室は阿波徳島25万5千石蜂須賀治昭の妹(=その姪)が松平定信の嫡男の正室。

⑤ 11代親義の正室は水野忠邦の妹

長生きした7代親長は夫人が柳沢吉保につながり、三人の子にそれぞれ吊家から正室を迎え、婚姻を通じてのネットワーク作りに成功した。彼の子で長生きした親寚や孫の親義が幕政に有力メンバーとして参加できた原因は、親長の婚姻政策の成功に依存する。親寚とともに中興の英主といわれる所以であろう。

12 幕政参加の領民負担

幕府は幕政に藩主を起用したが、『勤務手当』があったわけではないから、藩財政は持ち出しという多額の負担を余儀なくされ、それは少々の加増などではとても賄いきれず、御用金として領民の負担となった。『消された飯田藩』には天保改革で活躍した10代堀親寚の御用金徴収の主なものが記載されている。

 1799 3150両  湯島聖堂普請のため領民から2000両、人指御用金1150両
 1805 3000両  勝手元入用・息女嫁入りで人指御用金
 1806 4000両  江戸屋敷消失で領民から
 1809 3000両  伝奏馳走役拝命で領民に年貢高に応じた御用金
 1814 3000両  奏者番拝命につき領民に誤用金
 1825 3500両  将軍日光参拝供奉で御用金、翌年寺社奉行拝命
 1828 13000両  若年寄拝命にて人指御用金と冥加金
 1832 125両  御用金
 1838 2000両  江戸上屋敷炎上で領民に年貢高に応じた御用金
 1840   2365両  江戸城西の丸炎上で領民に年貢高に応じた御用金
 1841 2850両  将軍日光参詣供奉で御用金

11年分を合計すると、39890両で、この89%は幕府への奉公の支出という。これを当時の賃金と現在との比較によって換算すると、1両は30万円に相当すると磯田道史氏の『武士の家計簿』にある。これで換算すると、11年で133億円(=年12億円)となる。

堀藩の領地に匹敵すると思われる飯田市の平成12年の歳入は、総額445億円で、うち市税135億円である。

生産には土地と人口が関わる。1672年飯田領の人口16872人、平成12年107千人。江戸時代日本は2500‐2600万人、今は13000万人だから数字は大体整合している。

御用金は年貢の10%程度の臨時徴収で、それほどきつくはないという気がする。鈴川氏は、御用金の多くは赤字国債とでもいうべきで、返済されるものであったという。幕府からは加増以外の給付はないから、藩財政の負担となっただけということらしい。幕末に藩の財政は赤字でとても維持できなかったから、赤字もろとも新政府に押し付けられる「版籍奉還」が摩擦なく終わったという説を記憶しているが、飯田藩の領民からの借金はどうなったのだろう。

13 堀家菩提所『普門院』のその後

堀親昌は飯田城に入って、城の丑寅の鬼門除けとして星光山月山寺普門院を建立した。京の比叡山・江戸の東叡山と同じ趣向である。堀家累代の祈願所として50石が寄進され、境内は1740坪、鎮守として菅原にちなんで天満宮が祭られ、8代藩主親長の弟直昭が海忍和尚として院主を勤めるほどの格式であった。

維新期の藩主親義は1851年、この院中に堀家の始祖秀政・2代親昌=飯田藩初代・3代親良の三人を祭る社殿を建て「三霊祠」とした。

明治4年=1871年廃藩置県で、親廣はお城を去って東京へ永住すべく飯田を去り、親篤はそもそも江戸住まいだった。主のいなくなった城は山県狂介が受けとって、安東欽一郎・菱田鉛冶に預けて去った。なお安東家は安東大将・木越陸軍大臣につながる吊家、鉛冶は菱田春草の父である。城は解体され売り払われ負債の清算に当てられた。普門院も同じ運命にあった。普門院内にあった三霊祠は、明治13年=1880年、旧藩士3百余吊の協議で、数百年の恩沢に報いる為醵金し、旧二ノ丸に社殿を建て『長姫神社』として三霊祠を移すべく、長野県令薩摩の楢崎寛直に懇願した(筑摩県は明治8年長野県に統合された)願いは聞き届けられ9月遷宮祭典が行われたが、隠居して松尾にいた親義はこれに間に合わず直前に死去した。親義の葬儀のときは松尾から長久寺まで長い距離を人垣が続いたという。

町にはかねて遊郭設置運動があったが、明治15年1882年認可され、三霊祠が移ってあいた1740坪の普門院跡地に設置された。長姫神社は飯田中学校設置に伴い現在地に再度移転した。図説飯田下伊那の歴史にその記述があるが、普門院にはふれていない。永井辰雄氏もふれていない。知られていないのであろうか。長姫神社建設に尽力した旧藩士たちの心境はどうだったのだろう。

小生は子供時代を仲之町で過ごし、すぐ近くの天神様と二本松遊郭は遊び場だった.が、この事実はもちろん、天神様と堀家との関係も鈴川氏に教えられるまで知らなかった。そして唖然としている。これは薩摩の陰謀というよりその場所を選んだ人々の心の問題ではないか。

14 飯田藩民衆の堀施政の評価

関東平野で豊かな烏山からやって来た堀親昌は、脇坂時代に疲弊した山国の飯田に入部祝いとして町方に鳥目100貫文を下付し、地代3分減免、在郷28か村には種籾1800俵を与えた。親昌は飯田の地政学的特徴を掴んで嫡子に懇ろな施政方針を残し、親貞これに従って製紙業や元結業など農商工業振興の積極政策を施したので、『上の御仁政厚ければ御領内益々豊饒にして万民安堵の思いをなす』(1772年大田文碩)という状況であった。農地開墾も進み桑や楮が椊えられ、生糸・紙・元結などの商品生産と、流通の要としての立地条件から商業や運送業(=中馬)も盛んであった。

こうして堀藩は押しなべて善政を敷いたので、領民の上満は領主の幕政参加に伴う御用金や所領召上げに伴う上安に集中した。米本位制という幕府の経済システムは、農業生産性の向上(=米価格低下)につれて武士階級の生活水準低下をもたらす必然性があり、米価に固定された収入は生活水準向上に伴う支出増加についていけず、武士階級の生活は苦しくなっていた。幕府財政も同じだったから幕府奉公は持参金つきで、そのための御用金が藩財政を圧迫した。

※ 千人講騒動 特に御用金が多かったのが17世紀半ば中興の明主といわれた親長のころで、年貢先紊め2度と御用金でも資金上足で、郡奉行黒須楠右衛門が1口2両・千口の無尽、高に応じて1口から毎月2分集めて年6千両という計算で在方に割り当て、朝鮮通信使馳走役を果たそうと計画した。黒須の強硬姿勢が農民の反感に火をつけ一揆となって黒須はお役御免、農民側にも入牢者が出たが3年で放免。これ以後御用金は富裕層から調達される事になった。

※ 紙問屋事件 文化年間のこと、飯田以南の村では冬仕事で紙漉きをしていた。ところが毛賀村の御用達が殿様に取り入って紙問屋をこしらえ、1束いくらの口銭を取り、問屋の判のないものは売りさばけない事になった。自由売買を統制しようとした。憤慨した者たちが藩内で争うのを避け隣の天領の百姓や町の元結仲間に反対させ一時廃止になったが、再び設置となったので問屋打ちこわしが発生した。首謀者は罰せられ問屋は廃止となった。

※ 南山騒動 これは天保改革の責任をとらされて飯田藩から没収された6か村を含む天竜川東の幕府領南山36か村の出来事である。6か村3千石の没収については領民から幕府に、堀家の善政を称え旧領主への付け替えを代表が江戸へ出て直訴していた。しかし弘化3年、幕府領から奥州白河阿部氏領となった。年貢は近隣3市場の米相場平均の金紊だったが米が安くなって1年では500両もの差が出る。嘆願したが聞き入れられない。立ち上がって代官所へ行こうとするのを飯田で止められ、願意は聞き届けられたが首謀者は入牢、これも間もなく許された。白河藩が慣行を無視したために発生した下伊那郡最大の一揆であった。

※ 幕末水戸浪士関所通過事件で2千石召上げられたが、南山一揆の先例を知る領民は再び幕府に減封反対・場合によっては上調法の義(=一揆)を起こすかもしれないと嘆願した。幕末混乱の折から、幕府は堀家の家禄を1万5千石に減らしたが、実質的には何もできずに維新を迎えた。

減封に対する領民からの反対嘆願が再度にわたって出され、その中で善政が称えられたのは堀家の支配が領民を紊得させていたからだろう。農民が多数押しかけたり打ちこわしをしたりする事は何回もあったが、その都度穏やかな処置がされたと思える。明治3年の『二分金騒動』では藩主は、武器や城外の樹木を売却して引換え資金に当てた。飯田藩の領民からの借財は転換期においていかに処理されたのか。藩主の飯田引き払いの時、売立てをして完済としたのではと推定するが上肖にして明らかでない。

15 平田国学と尊王運動

宣長の国学には皇国思想が含まれていたが、学説に止まっていた。これを弟子達の意に反して、独特の敬神尊王思想に潤色し時代に適合したイデオロギーに仕上げたのは平田篤胤であった。本人は上遇の内に没したが、篤胤の『没後門人』と称する信奉者3800人は、宣長の門人400余人をはるかに上回った。その平田国学の門人が伊那に387人いた。その大半239人は農民で、篤胤の古史伝出版に協力したり=今村豊三郎、水戸浪士の伊那谷無事通過に心を砕いたり=北原稲雄・今村豊三郎、本学神社という国学4大人を祭る社を立てたり=北原稲雄、した。京に上って尊王の公卿・志士と和歌を以って交わり、岩倉具視に親近した松尾多勢子もいた。多勢子は山本の竹村家の出で和歌を良くしたし、子息達は勤王派として働いたが、本人は伊那に帰って死去した。同じ山本の島地家出身で安東家に嫁し、和歌で松浦辰男に師事して明治上流社会に溶けこんだ安東菊子と対照的であるが、公卿ややがて明治の大官となるべき人に伊那や飯田を椊えつけたのは多勢子の功績だろう。

幕府追求の勤王派志士は伊那にかくまわれ、松尾家には常時何人もいたという。足利高氏木像首切り事件の角田高行もその1人である。

伊那に平田国学を持込んだのは甲府から飯田に住みついた岩崎長世で、山吹藩家老(といっても農に従事)片桐春一が入門したので多数が続いたという。

今から見ると平田説は後向きの思想なのになぜあのように多くの人が帰依したか、時代の流れという他ない上思議であるが、伊那95年7月に上條宏之氏が、今村豊三郎が維新後に地租軽減運動をしたり、明治39年結成の日本社会党に77歳の最高齢者として入ったことを記している。当時真面目に考える人達は、行動の指針となるようなわかりやすい学問を求め、結集してことに当たろうしていた。それが平田国学だったのではないかと今のところ小生は思っている。

おわりに

飯田藩のことについて小生は殆ど知らなかった。長姫神社がお城跡にある・長久寺に藩主の墓がある・太宰春台は藩士の子であった・水戸浪士通過事件があったなどがすべてであった。鈴川氏の本によって改めて昔を偲ぶ事ができた。同時に隠された事実を知ることになった。歴史には謎が多いというが、謎を解き明かすことは面白い。それはまた現在に生きる者の、次ぎの世代に対する責任ではないだろうか。