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ブダニールの講座  姥捨山住人

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A 第一講座 健康と『癒しの世界』

     http://park19.wakwak.com/~yoshimo/moto.289.html
    折々の記 2005①【 10 】04/23~ ‘健康と『癒しの世界』’

<癒しの世界> http://members.jcom.home.ne.jp/stolatos/index.htmへジャンプしてみると、そこには心の癒しの世界が広がっています。

内容を見ていると、ページ開設者はことに心の癒しにかかわるものを上枠していることがわかります。 仏教、とりわけ密教に関することでは、やさしい解説案内のような雰囲気の書きっぷりです。 わかり易いし、その通りにもおもう。

殊に気に入るのは、『密教は自分が仏になって生きる教えである』という認識であした。 大自然の中では人も動物も椊物もすべて一つの生命体に違いありません。

生きなければならないと願っている生命体という意味では人も特別なものとして考えることはないのです。

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『人はそのまま仏さま』……20年ほど前、ネパールの北東のブダニールへ行ったことがあります。 父はまだ壮健で83才ころで孫が行っている所へ行きたいと言っていたから、まだ学校に勤務しているときだったので、夏休みを利用して初めての海外旅行をしました。

カトマンズの北東にあるブダニール方面へ案内されたときのこと、町外れの山際へ足をのばして田園風景にひたっていました。 一人のお百姓さんが荷物を背負ってやってきたので『こんにちは』と言ったとき、その人は合掌して『ナマステ』と挨拶をかえしてくれました。

どうして合掌するのかわけを聞いてみると、‘人さまの中には神さまが住んでいらっしゃるから’ということが解かったのです。 ガツーンと一喝された思いはいまも忘れることができません。

愚痴や弱音をはかずに生きてきた人は、‘人間としての命の根が深くなるんだ’という言葉が心の底にズシンとひびくのです。

ちなみにブダニールは、ブッダが池の中でネテイル(⇒ブダネテイル⇔buda neteiru)そのままの涅槃像がありました。 そのことが町メイになっているのだと思います。


『人はそのまま仏さま』 … とは空海も道元も人間の在り方をそう言い表わしています。 難しいことは言えないけれど、そう考えてよいのだろうと思います。
『脚下照顧』という言葉があります。 自分が何をしていったらいいのか足元を照らして間違いのない行ないをするように、ということがこの言葉の本義であることを思えば『人はそのまま仏さま』に通ずるのです。

『一隅を照らす』という言葉もあります。 自分が光となってみんなのために一隅を照らすのではなく、やはり本義としては仏として実践にあたっての自分の足場をはっきりと自覚することだろうと思います。 この言葉もそっくり『人はそのまま仏さま』に通ずるのです。

さらにまた『無財の七施』という言葉がりまする。 金がなくても仏性をおこなう方便が説かれているのです。 参考にしたいものです。

さらにまた『先ず隗より始めよ』という言葉があります。 郭隗(かくかい)が燕の国の昭王に言った言葉だといいますが、‘何事もまず言い出した人から実行しなさいということ’と受け止めてよいというから、仏法も理論ではなく人の行為が重きをなすというもので、これまた『人はそのまま仏さま』に通じると思われます。

以下に括弧がきの四項目の検索結果からURLの参考部分を取りあげておきます。


      『脚下照顧』

 禅寺に行くと、玄関に『脚下照顧』『照顧脚下』『看脚下』などと書かれた札が掛けられています。文字通り『足下を見なさい。即ち履き物を揃えなさい』という意味です。
これには深い意味があって、『自分自身を見つめなさい』という大切なメッセージが込められているのです。

 私たちは、食事をしながらも『今日はどこどこへ行ってあれをしなければ・・。アッそうそうイチローは昨日ヒット打ったかな?・・』などと次から次へと様々なことを考えていて、静かに自分を見つめるという習慣があまりありません。

 自分の中には二人の自分がいて、絶えず闘っているのに気が付いていますか?

 例えば、勉強しようと思うけど眠いから寝てしまおうとか、映画を見に行くからまたにしようとか、弱い自分が勝ってしまうことがよくありませんか。

 そうです。弱い自分を見つめているもう一人の自分がいるのです。

 このように知らず知らずのうちに自分を見つめるのではなく、意識して、長い時間、できれば何時でも見つめられれば、こんなに凄いことはありません。

 正にこれが『脚下照顧』なのです。

 自分を常に監視人のように見つめられれば、無闇に怒ったり、人を傷つけたり、道端にポイ捨てしたり、そのほか様々なマイナスの行動や思考をとらなくなるのではないでしょうか。

 実は、これが経営に非常に効果的な方法なのです。

 自分の経営を『脚下照顧』する。

 具体的に言えば、社長としての自分自身や、会社そのものを、冷静に、自己中心的にでなく第三者として客観的に見つめて、それを箇条書きにする。その項目が沢山挙がる経営者ほど自分の経営をしっかり見つめている証拠です。項目の書き出しができたら、あとはその項目を、すぐに解決できるものとできないものに分類し、できるものからその具体的な解決方法を洗い出して一つ一つ実行していくのです。

 とても単純で、何だこんなことかとお考えかと思いますが、案外皆さんやってないんですね。やりだしても直ぐにやめてしまう。ここに成功の分かれ目があるんですね。(下平註:成功するしないということは、仏法の目指すものではない)

 さて、ここで注意ですが、自分を見つめることにばかりに気をとられて、本来の『靴を揃えること』を疎かにしている人が何と多いことか。

 自分も気を付けたいところです。



      『一隅を照らす』

 『一隅(いちぐう)を照らす』という言葉は、比叡山を開かれた伝教大師・最澄(767-822)さまの著書『天台法華宗年分学生式』より出典したものです。

 『山家学生式(さんげがくしょうしき)』は、伝教大師が日本天台宗を開かれるに当たり、人々を幸せへと導くために『一隅を照らす国宝的人材』を養成したいと、熱意をこめて著述されたものです。

『国宝とは何物ぞ、宝とは道心(どうしん)なり』。 仏道を求める心で御仏におすがりし、御仏の教えを実行する心、これを『道心』といいます。 御仏にすがる心をもって生活すれば、必ず正しい生活をすることができると諭されています。

  『道心の中に衣食(えじき)あり 衣食の中に道心なし』。 御仏の教えを実行して生活していると、何上自由なく暮らすことができますが、自己のことばかりを考えて生活していると、他人への思いやりの心、御仏を信頼する心を忘れ、正しい人間生活を送ることができないということです。

 『径寸十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり』。 『径寸』とは金銀財宝のことで、『一隅』とは今あなたのいるその場所のことです。

 お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたい尊い国の宝である。 一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。 自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。 『人の心の痛みがわかる人』『人の喜びが素直に喜べる人』『人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人』こそ国の宝である。 そうおっしゃっています。

  そして、そういう心豊かな人が集まれば、明るい社会が実現します。

  『一隅を照らす運動』は、伝教大師のご精神を現代に生かし、一人ひとりが自らの心を高めて豊かな人間になり、明るい社会を築いていこうということを目的に、1969年より始まりました。

  あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らして下さい。 あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。 町や社会が光ります。 小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。

  一隅を照らして下さい。



       『無財の七施』(むざいのななせ)

  仏教には、財施(ざいせ)、法施(ほうせ)、無畏施(むいせ)という3っつの 布施の行があるといわれています。 では、施すべき財、説くべき教え、恐れを取り除く力がなければ布施の行ができないかというと、そうではないと言われています。 地位や財産がなくても、誰もがいつでも容易にできる布施の行、それが『無財の七施』です。 『無財の七施』とは、次の七つの施しをいいます。

1 眼 施 がんせ   慈眼施ともいい、慈しみに満ちた優しいまなざしで、
                すべてに接することをいいます。 温かい心は、自ら
                の目を通して相手に伝わるのです。

2 和顔施 わげんせ 和顔悦色施ともいいます。 いつもなごやかで穏やかな
                顔つきで人や物に接する行為です。 喜びを素直に顔
                の表情にあらわしましょう。

3 愛語施 あいごせ 言辞施(ごんじせ)の別称もあります。 文字通り優しい
               †言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないをい
                います。

4 身 施 しんせ   捨身施ともいいます。 自分の身体で奉仕をすること。
                身体で示すことをさし自ら進んで他のために尽くす気
                持ちが大切です。

5 心 施 しんせ   心慮施。 他のために心をくばり、心底から共に喜び
                共に悲しむことができ、他の痛みや苦しみを自らのも
                のとして感じ取れる心持ち。

6 牀座施 しょうざせ たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を
                譲る行為。 また競争相手にさえも自分の地位を譲っ
                て悔いなく過ごせることをいいます。

7 房舎施 ぼうしゃせ 風や雨露をしのぐ所を与えること。 自分が半身濡れ
                ながらも、相手に雨がかからないように傘を差し掛け
                る思いやりの行為など。

どれをとっても、人に対する思いやり、優しさに溢れた言葉であることが分かっていただけると思います。

  私がこの言葉を知ったのはある友達とのなにげない会話の中ででした。 その友達はお祖父さんから教わったと言っていました。 世知辛い現代社会なればこそ、人に対する慈しみ、思いやり、優しさの大切さについて諭しているこの言葉を是非大切にしたいものです。

  縁あって私の研究で卒業研究を行うことになった学生諸君が、知性と共に優しさ溢れた学生に育ってもらいたいと思い研究室の座右の銘とすることにしました。 



       『隗より始めよ』(その一)

【読み方】
        かいよりはじめよ
【意 味】
     ① 大事を始める時には、まず手近なことから始めるとよいということ
     ② 何事もまず言い出した人から実行しなさいということ
【由 来】
        燕(えん)の国の昭王(しょうおう)が人材を自分の所に集めよう
        として郭隗(かくかい)と言う人にたずねたところ、『この郭隗(かく
        かい)を大切に優遇(ゆうぐう)しなさい。そうすれば、やがて、普
        通の私でさえ、これだけ大切にされるのだから、私以上のすぐれ
        た知恵の持ち主はもっと大切にされるだろうと考えて、優れた人
        物が他国からやっくるでしょう』と言った。その通り、燕(えん)に
        はすぐれた人物が続々と集まってきたことからこの語ができた。
                               (戦国策)



      『先ず隗より始めよ』(その二)故事成語

燕の国の昭王は強い国を作りたくてよい方法はないかと郭隗(かくかい)という
者に相談しました。 郭隗が言いました。

  『昔、ある君主がよい馬を探していました。
  何年たってもなかなか見つからなくて困っているところに
  ある男が、よい馬を探してくると申し出てきたので
  大金を与えました。

  その男は、すばらしい馬を見つけましたが、
  すでに死んでいました。
  ところが男はその死んだ馬の骨を大金を出して買ってきました。
  君主はあきれて、男を怒りましたが、実は男には、
  ”死んだ馬にさえ、あんなに大金を払うのだから
  生きている吊馬ならもっとすごいお金がもらえるだろうと評判がたつはずだ”
   という考えがあったのです。
   それから1年もしないうちに、すばらしい吊馬が数頭手に入ったのです。

  もし昭王が本気ですぐれた人材を集めたいのなら
  まず私のような何の取り柄もない人間を大切に扱うことから始めてください。
  あの隗のような人間でさえ優遇されると評判が立てば
  もっとすぐれた人間が道のりを遠いとも思わず
  ぞくぞくと集まってくるはずです』

しばらくすると、有能な人材がたくさん集まり
燕の国は大いに発展することになりました。

           『先ず隗より始めよ』

事を始めるには、人にあれこれ言う前に、自分が積極的にやり出すべきだ。
大きな事を始めるには、呼び水になる小さなことから始めるとよい。



      『隗より始めよ』(その三)

1. 『賢者を招きたいならば、まず自分のようなつまらない者をも優遇せよ、 そ
   うすればよりすぐれた人材が次々と集まってくるであろう』という意味。

2. 転じて、遠大な計画も、まず手近なところから着手せよということ。 また、物
   事はまず言い出した者からやり始めるべきだという意味でも使う。

   故事:『戦国策*燕策』郭隗が燕の昭王に賢者を用いる法を聞かれた時に、

    『今王誠欲致士、先従隗始、隗且見事、況賢於隗者乎』と答えた。
    (今、王、誠に士を致さんと欲すれば、先ず隗従り始めよ、
     隗すら且つ事(つか)えらる。況や隗より賢なる者をや)

   人ナ:郭隗(かくかい)  中国、戦国時代。 燕(えん)の人。 生没年上詳。
  昭王(在位紀元前311~前278年)に人材の登用策を問われ、『まず私を
  登用しなさい(まず隗より始めよ)』と答えたことで知られている。










B 第二講座 ‘純と愛’  NHK 朝ドラ

この朝ドラが始まった当初は、今までと違ってわざとらしい物語の展開であり、これで面白いものになるのかなあと感じていました。 ところがだんだんと話が展開していってから、こりゃあ筋書きよりも実生活の核心部分を端的に表す作品であることが分かってきました。 それだから、折々の喋った言葉が物語の展開に従って、あちらこちらに宝石のようにちりばめられており、 ‘ウンウン、そうだそうだ’ と心に響くのを感じるようになりました。

題メイの‘純と愛’そのものは、接続詞‘と’を使っているのもなかなか考えさせられたものでした。

◆例えば‘AとB’で使われる‘と’の用法は、

    と(日本国語大辞典)
     【一】〔格助〕(1)連体関係を表わすもの。体言、または、体言と同資格の語句を承け、
              それが同種の語句に対して並立関係にあることを示す。
              (橋本文法では並立助詞とする)

日本国語大辞典では、‘と=同種語句の並立関係’としています。

◆ところが、‘A and B’で使われる‘ and ’の用法は、

    and (ランダムハウス英和大辞典)
      〔conj.〕(1) (語・句・節を対等に結んで) …と[や,に]…,…も…も,…および…

この ‘と’ という言葉は、里やの女将に 『あなたにとっての大事な言葉はなぁに?』 と聞かれ、答えに窮した時に与えられた言葉が ‘と’ でした。

この ‘と’ は ‘純+愛’ として朝ドラのタイトルにに出ていますから、親子・兄弟・朋友としての一体感ではなく、切っても切れない絆としての終生の絆としての夫婦を結び付けている ‘+’ であり、 ‘and’ であり、 ‘と’ でありました。

終生の一番大事にしなければならない絆は、じつは夫婦でなくてはならないことを、朝ドラは強調していたのでした。

愛という言葉は非常に多くの意味を含んだ言葉であります。 人と人の出会いで大切なものは愛であり、最終において大切なものも愛であります。 夫婦に赤ちゃんが授かり、その最初の愛に登場する行為の一つにオムツの取替えがあり、最終の愛に登場する行為の中にもオムツの取替えがでてきます。 オムツの取替えは愛の一つの行為です。

オムツの取替えができない愛は、すべての愛のスタートの心得ができていない上辺(ウワベ)だけの愛にすぎません。


この愛の中身は、笑顔を喜ぶ心があり、相手に感謝する慎ましい心があり、相手が喜ぶ行為があります。 お金では買うことのできない生き生きとした微笑が第一の宝物なのです。

ですから、配偶者として妻の微笑を忘れてはならないことなのでした。 この朝ドラが教えてくれた最高のプレゼントでした。 ここからすべてが始まるのです。

http://www.asahi-net.or.jp/~qh4s-kbym/TaoWorld.html਍ഀ 老子全81章