A 儒家と道家 金谷治著『老子』より
『老子』は、『論語』と並ぶ中国の代表的な古典である。 孔子の『論語』が『孟子』とともに儒教のはじまりの姿を伝えるのと同じように、『老子』は『荘子』とともに老荘とか道家とかよばれる一派を形づくっている。 そして、中国の長い歴史を通じて、孔孟の儒教が表向きの正統的な思想であったのに対して、老荘の思想はその裏面をささえるものとしてあった。
今ここに二人の人物を登場させてみよう。
一人はいわゆる紳士であって、フク装も整って身だしなみもよく、世間の決まりごとはよく守って万事に勤勉で、きちょうめんである。 そして、自分だけがそうなのではなく人にもそのように勧め、みんなが紳士淑女になることで世の中がよくなると信じている。 多少窮屈な感じはするが、社会的にはいかにも信用はできて間違いのない人物に見える。
さて、もう一人はこれと反対のタイプである。 フク装のことなどは意に介せず、時にはだらしなくも見えるが、それだけ純朴で裸の人間味がある。 世間の決りや仕事のこともあまり気に留めず、時にはずぼらもするが、別になまけものでもすねものでもなく、大事なところは外さない。 こちらの方から前の人物を見ると、いかにもこせこせした小人物で、こんな人物が多くなると世の中はダメになると考えるが、前の人物からこちらを見ると、調子はずれのフ安定な人物で、社会の秩序を乱すことになると考える。
二つのこうしたタイプの人間は、われわれの近くにもいるであろう。 そして、この前者が儒家的人間に近く、後者が道家的人間に近いと言ってよい。 もちろん、表向きの顔で世の中の受け止めもよいのは前者である。 秀才型で社会的にも栄達に向かうものが多いが、それだけにまた苦労も多く浮き沈みもある。 後者のほうはそれに対して野人的である。 時にはチャンスに遭遇して大事を成し遂げるが、別に自分からそれを求めたのではない。 むしろおおむねは市井にあって悠々と自分の信ずるところを守って暮らすのであって、はたから見るとうだつの上がらぬ人生とも見えるが、本人は苦労もなく何の屈託もない。
さて、孔孟の方も老荘の方も、平和で安らかな人間の幸福を追求したという点では、変わりがない。 彼らの時代は春秋末期から戦国時代の中期という歴史の大変動期であって、上は諸侯のような権力者から下は農民に及ぶまで、うちつづく戦乱とそれに伴うフ安にかきたてられて、安らぐ時もないありさまであった。 この世界はいったいどうなるのか、安定した社会のなかで人々が幸福な暮らせるようになるのにはどうすればよいのか、それが思想家たちの重要な課題であった。 そして、孔孟の儒家の方では、高い道義的な理想をかかげて人々をそれに向かわせ、社会的な秩序を確立し安定した世界を築こうとした。 しかし、老荘の道家の方では、そうしたあるべき人間の姿の追及よりは、あるがままの本来の自然な人間にたちかえることによって、世界の争乱は静まり、人々の安定した暮らしが復活すると考えた。
そこで、儒家の思想が政治や社会に向かって強くまっすぐに進んだのに対して、道家の思想では、むしろ人間の本来的なあり方を追求し、その自然性を訴えることに主力が注がれた。 儒家の側でももちろん個人の人格が問題にされるが、それはあくまでも社会的人間としての人格であった。 道家の側でも、特に老子において政治的主張が多いが、それは要するに『無為自然』という政治の否定にも連なるような主張であった。 道家の人々は、人間の本来性を追及して、儒家のようにそれを社会的道義性の中だけで考えているのはだめだと考え、それを広い自然世界の中に開放してとらえようとした。 人間は人間の仲間どうしで暮らしているだけではない。 その背後には大きな自然の広がりがある。 そして、人間もまたその自然世界の万物のなかの一つだということに目覚めると、社会的人間としての枠でしか考えようとしない儒家思想の限界が明白になる。 それが道家の人々の立場であった。 『自然に帰れ』という、西洋では十八世紀になってルソーによって唱えられた主張が、ここ紀元前の中国で起こることになった。
道家の人々の思想は、それを自然思想という言葉でまとめるのがよかろうと、私は思っている。
【下平注】
キリスト教やイスラム教は、人間を社会的存在としてとらえて教義が深められその論理の上に生活規範が展開されています。 ところが仏教では社会的存在の教義を深めるとともに個人内省への教義を深めることを規範としています。 儒教においても社会的規範としての孔孟思想と、社会的規範プラス個人的規範という老荘思想があります。 グローバル化していくこれからは、一人ひとりが自分の日常生活をくみたて考えをまとめていく上で、東洋文化としての仏教や儒教について、基本的な認識をしていかなくてはなりません。
B 老子の思想 金谷治著『老子』より
素朴な自然に対立するものは、人間的な作為であり技巧であり、またそれによって積み上げられていく文化である。 自然思想としての老子から見れば、人間が作りあげた文化や文明とよばれるものに対しては、懐疑とか批判の心が強い。
C 孔孟思想と老荘思想の相違 儒教に通ずるプラスワン
D 西欧と東洋の宗教の相違 仏教に通ずるプラスワン 2013/3/17
キリスト教やイスラム教が求めている教義は、個人の心がけ個人の道義律であろうと理解しています。 仏教においても、人対人という社会的存在としての教義を持ちそれを規範とし道義律としています。
西欧及び中近東の宗教と東アジアの宗教の違いは、大雑把に言ってどんなことがあるのでしょうか。 そのことを長いこと考えてきました。 人対人が平等だという意識の持ち方において大きな特徴は、キリスト教もイスラム教も神の存在を想定して教義を組み立て人対人の平等を意識していますが、仏教では神の存在という概念を取り入れていません。 これは基本的な違いで、違いがあるとすればここに端を発しているように思うこととなりました。
西欧及び中近東の人々は、神の予言に従って人と人の社会的存在としての道義の在り方を信奉し、そのためには闘争すら認容してきました。
一方、『蜘蛛の糸』を読んでもわかるように、対人関係のみならず動ショク物にしても仏教においては『命』を大事にすることを根底としています。 自分自身への内観がプラスされているのです。 というより、シッタルタの第一歩の意識は始まったのは内観からでした。
自己存在の認識という、その第一歩が違っています。
自己存在の認識から言えば、認識の優劣にこだわることはなく、自他存在の根底においては <生きものはみな互いに手を取合って仲良く生きる> そのことが出来なくてはならないのです。 それができて個人としても、自己存在の悦楽が共有されるのだと思います。
社会生活一切がそこを基盤として伸びてゆくことが、世界の平安を生み出すことになるのだろうと思います。
『キリスト教やイスラム教の考え方』 『プラスワン』 それを大事に考えていきたいものです。
|