近世越中国の学問・教育と文化
近世越中国で展開された寺子屋教育や学問の状況について
2009年06月18日
第一章 加賀藩と富山藩の藩校・教官
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第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾
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http://ettyugakumonshi.seesaa.net/article/121756777.html 続き
第三章 越中国の寺子屋総論
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第四章 寺子屋の師匠~砺波・射水
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第四章 寺子屋の師匠 続き~婦負・新川
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註釈
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寺子屋一覧
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参考文献
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第五章 明治維新後の教育行政
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第六章 浄土真宗の異安心と門徒
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参考文献
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第一章 医学
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第一章 医学
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第二章 高岡町の蘭方研究と情報収集
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第三章 測量・天文観察
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第四章 洋書の翻訳と兵学の流入
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第五章 絵画と写真
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第六章 天保期の蘭(洋)学
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参考文献
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第一章 加賀藩と富山藩の藩校・教官
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一、加賀藩の明倫堂
①明倫堂の創設
加賀藩の学校建設構想は、もともと好学家の五代藩主前田綱紀の頃よりあった。「先聖殿並学校造営事」が記され、京、江戸より木下順庵や松沢尺五らを招き、藩儒室井鳩巣を順庵に入門させた。更に菅真静を京から聘して『源氏物語』の要旨を聞き、田中一閑が京より唯一神道を伝え、養子の式如はそのまま藩に仕えた。また、綱教は国書数十万点を集めるよう指示している。しかしその後、財政逼迫のため学校建設は遅々として進まず、十代重紀が意欲を見せるもののやはり進まず、ようやく十一代治脩(はるなが)が天明六年に奥村河内守尚寛、横山山城守隆従、前田大炊孝友へ学校創設を下命する。校舎は寛政三年九月に起工し、翌年二月に竣工を見る。学頭には朱子学者新井白蛾を役料十石で招いた。敷地約一万七千坪(約五万二千㎡)、建坪約千百坪(約三千四百㎡)に文学校(十五間×七間)と武学校(九間×七間)[一間=一・八二m]を廊下でつなぎ、文学校には白蛾の筆で「明倫堂」、武学校には前田直方の筆で「経武館」の額を掲げた。閏二月六日に開校を布達して町在の人々へも商・農の閑に出るよう申し渡し(実際の入学者は少数に止まった)、三月二日に開校式典が挙行、白蛾は藩主臨席の場で孝経を講じた。助教には長谷川準左衛門、新井升平を、助教雇に渋谷潜蔵、中島半助、林慶助を、読師に宮井柳之助、湯浅半助、稲垣左兵衛を、天文学に本保十太夫を、歌学に野尻次郎左衛門を、算学に村松金太夫を任じている。しかし白蛾は五月に病没したため、長谷川準左衛門が学頭格の都講に就任し、六月に定書(学則)を制定する。また学舎を設けて寄宿志願者を募集し、小身の侍及び御歩並の子弟で自ら賄いをして学びたい者には三年間貸与、貧窮者には食事を支給することにした。教職員には学校方御用主付や学校方御用といった藩吏、学頭(経伝講義)と都講(助教と講師の当否や諸学校の法式等を正す)を各一人(事実上同一人物が兼任)、諸書を講述する助教七人及び自ら句読や習字を学びつつ幼学生を指南する読師八人を置いた。また諸学生も毎日二人ずつ順番を決め、講堂等を掃除し、筆・硯等を飾り、火元を見回った。
授業は七月二日より開始された。二・七の日朝四ツ時(午前十時)と夕八ツ時(午後二時)に大学・章句・論語・古易断・孟子・小学・経、三・八の日朝五ツ時半(午前九時)と夕八ツ時に令・算学・和書・礼法・天文、一日・十五日四ツ半時を医学と本草学(開講せず)、十五日を除く他の日に習学一般を学んだ(医学は同十年八月から三日朝と二十五日夕に開講される)。
②享和・文化の改革
しかし学校の運営は必ずしも理想通りにはいかず、十二代齊廣は孝悌忠臣の道を励み当務有用の学を学ぶ者が稀であることを憂い、享和三年に儒学稽古を停止し文学校仕法を定めた。それは学監職を設けて名目にすぎなかった学頭・都講とともに相応の人品が出るまで闕役とし、かつ士列以下を助教格・読師格に任じて職分への途を開きつつ、討論の授業を設けて知識の多少に関わらず志ある者の入席を勧めて、出席手続きを簡素化するものであった。授業設計についても改め、論語・孟子・小学・易学・和学を四月から八月は朝五ツ時より四ツ時、九月から三月には朝五ツ時半より四ツ時半(午前十一時)とし等、他に朝四ツ時、夕八ツ時及び昼九ツ時(正午)に授業時間を設けて算学・礼法・医学などの特別講座を開講、特に医学は月三回で、内二回が本草の会読と論講であった。
文化三年四月には三日・十三日・二十三日を「辰之上刻(午前七時頃)より下刻(午前十二時頃)迄四書五経演習候事」と定め、同九年二月に入学手続きを簡素化し、頭か支配人から願書を出していたのを本人とし、子弟は父兄より紙面で学校へ願い出ればよいものとした。文政二年二月校舎を兼六園の東隅、奥村氏旧邸へ移築、六月に再開して怠慢を戒め、同五年三月に騒音と火災予防のため再度移築を決め、城西の仙石町に七月竣工を見た。更に同六年二月に人持・頭分といった重役が出席していないことを戒め、翌月に日割を明確化して二・七の日の朝五ツ半時と夕八ツ時の二回を役職により出席を義務化し、病欠の際は届け出るように命じるとともに、藩主自ら学校に臨んで学生を鼓舞し、進んで講義を聴した。医学振興についても意を配り、陪臣の医師、藩医の門弟、陪臣の特志者等の医学講義への出席手続きを規定している。
③天保の修補
次の十三代齊泰就任の際には、奥村河内守栄実が学校隆盛を意見し、天保十年四月に横山政孝や奥村淳叙とともに修補に乗り出した。まず教職員を学校主付、督学(定番頭、馬廻頭、小将頭を兼務)、教授(細工奉行、台所奉行の次で小将横目新兵使役の上)、助教、助教加入、訓導、訓導加入、訓導加入格、訓蒙、句読師及び書物方、御書物出納方御用に再編し、改めて選任し直し心得を示した。そして早速督学渡辺栗と教授陸原之淳に諮り、次の諸点を明らかにする。
・人持以下平士並以上の家中嫡子・嫡孫等で十五から二十三歳の者は義務、二十四歳以上で希望者へは一年間ごとに許可を出す。
・座席は身分の軽重を第一とし、同身分の場合は年長順位とする。
・平士並以下の嫡子・嫡孫で、明倫堂の素読修業課程修了者は十五歳未満でも正規の生徒課程へ進める。明倫堂以外での修了者には試業(試験)を課し、合格したら生徒に編入する。
・人持の十五から二十九歳で役懸の外は毎月会読に出席すること。
・対象外の嫡子・嫡孫で二十四から二十九歳まで、二・三男などで十五から二十九歳までの者は会読に出席すること。
・素読は十四歳まで、遅くとも十七歳までに修了すること。
七月には文武稽古次第の詳細を定め、生徒を入学生と改称するとともに、毎月の明倫堂、各月の経武館日割を決め、二・七の日は朝五ツ半時、他の日は夕九ツ半時を会読諸学の講義日とした。また三の日夕九ツ半時は医学と定めた。
更に進んで藩は町在の教育振興へも乗り出す。翌年二月寺子屋の師匠に宛て、読書・算術を教授することを諭達し、手習の間に小学、図書等や算術を教え、孝悌の大意や六諭衍義りくゆえんぎの大意を話し聞かせるなど、幼少時の教育の必要性を強調した。
医者資格についても明倫堂に関与させた。従来医師開業希望者は師家の添書を付けた願書を町会所に提出し、町会所で横目、肝煎等の試問の上で許可を出していた。これを明倫堂での試験により判断するものとしたのである。
同十四年出席率を上げるため、欠席してよい場合を家や本人の吉事、父兄の江戸出発と帰着の送迎、臨時の武道稽古、父母・祖父母・妻の看病やその他の親族の危篤、法要、家族の葬送に限り、届出方心得を示した。しかしそれでも未入学者がいる。そこで藩末の安政二年には入学年令に関わらず明倫堂在学年限を九年とした。
この頃異国船が近海に現われ、攘夷をめぐる議論が藩内でも盛んになる。それとともに国学(当時は和学や皇学と呼称)を学ぶ者が増える。嘉永五年六月国学が明倫堂の一般学科になり、鈴木重胤門下の 石黒千尋を講師とし、日本書紀、令義解を毎月二回御歩並以上の藩士と子弟が受講した。その際講師はじめ聴講者一同は威儀を正し、裃を着用するものとされた。安政元年に社寺の希望者へも聴講を許し、同六年四月国学の会読を学科に組み入れ、御歩並以上とその子弟に勧めている。ただあくまでも朱子学が主流であることに変更はなく、継続して学習するものは多くなかった。
④藩政末の授業風景
この頃の様子を明倫堂横目野村實の証言から拾ってみる(「舊藩の學校」『三州史料』)。明倫堂は朱子学を徹底するあまり詩文を欠く傾向があり、経武館は養成所ではなく各師範家が門弟を集めて晴れの稽古をする所であった。また帳面に名前だけ付けて怠ける者が後を絶たなかった。
講書(四書、小学、孝経)は助教が担当し、一章一読の後、章意・字訓・解義・余論の順で講じた。日は二・七の日で、二日朝に人持、夕に大小将、七日朝は御馬廻六組、夕に同六組、十二日朝に定番御馬廻組外等、夕に寺社奉行支配平士射手異風等、十七日朝は与力等、二十二日朝に御鷹匠、六組歩、定番歩等、二十七日朝は御料理人、細工者等、陪臣、夕に足軽、坊主、町在の者となっていた。国学は五日夕に人持、十七日夕に平士及び御歩以上、二十二日夕に陪臣及び神主等であった。
余読は対象が入学生、句読師及び人持・大小将諸組等の論講と四書五経の素読修了者で、助教を会頭とし、訓導が補佐して行われた。籤に当たった生徒は素読と弁解をし、訓導が生徒とともに本文並びに註文を併せ低音で斉読し、その後に弁解者に訓練のため不審点を質して討論を行う。訓導が可否を説示し、助教が決定する。朔日と五の日を除き、朝と夕各甲乙二席、一と六の日朝は上級生、四と九の日夕が下級生のみで開いた。進級は試験によらず、平素の稽古振りで決めた。
句読師溜では、句読師の会読が三・八・四・九の日夕に行われ、かなり深く議論が交わされた。会読の授業日は人持が六の日夕、大小将が一の日夕、諸組が四と九の日夕にあった。他に特別講座として国学が五の日朝、医学が三の日夕、易学が八の日夕、礼法が十日と二十日の夕に開かれた。
素読は句読師が毎朝担当し(三の日は温習)、二人並んで机に向かい、座右に五経一部を備える。そこに素読生が馬蹄形に並び、一人宛順番に前に出る。最初は字突で一時ずつ付かれながら口授され、やがて字突なしで読めるまで熟読する。算術は素読と同時に行われた。素読を一通り終えると試験があった。四書五経を各一冊一ヶ所を読み、誤読しなければ合格となり、賞賜があった(初めは『四書正解』後に匯参わいさん明倫堂出版のうち『大学』)。
入学生は三月二十日と二十五日に弁書という試験を受けた。朝五ツ時(八時)に障子に向かい間隔をとって並ぶ。問題は横目が早朝に主附(年寄中)の宅で受け取って掲示した。解答は章意・字訓・解義・余論を書き分け、小紙の内に氏名を記して綴って提出するが、長時間かかるため餅菓子の差し入れがあった。結果は上中下に分けられたが、特に出世に響くというものではない。
士列の者が重視したのは惣試業であり、これには出世がかかった。そのため便所書(『国字解』等を懐中に入れて便所で見る)や弁当書(問題を写し従者に渡して読書の出来るものに解答を作らせ弁当の中に入れて持ってくる)といった不正手段(カンニング)もあったそうである。
⑤壮猶館の創設
異国船の侵略に備えるため、加賀藩は軍事研究機関として安政元年八月に火術方役所所管地(上柿木畠)に壮猶館を竣工させた。中心になったのは文政四年から天保九年にかけ高岡町奉行を務めた大橋作之進で、自宅を西洋砲術の研究所にしていたほどの研究者でもある。藩はこの壮猶館に砲術、馬術、喇叭、合図、洋学、医学、洋算、航海、測量学を研究させ、受講・調練をさせた。また訳書を進めさせ、上市出身の医師黒川良安も洋書調査に当たっている。この時に初めて蘭学(後に英学)を正式に導入して、万延の遣米使節一行にも入る佐野鼎が蘭学の兵学者として招かれ、稽古方・総棟取に就任する。文久二年には蘭法医書の会読と蘭法医の開業試問をも請け負った。砲術のための棚場や調練場も設けられるとともに、弾薬所と焔硝製造所及び軍艦所も付設されていた。慶応元年には種痘所を設置して黒川良安を棟取とし、翌年卯辰山養生所を建て医学教育をここで行うことにする。
⑥維新後の改廃
維新直後の明治元年、英式兵制を採用した加賀藩(以後は金沢藩)は、経武館を壮猶館に合併し、学校総裁支配下に置く。これは武術修練の廃止を意味した。旧経武館は十四代藩主慶寧世子の居館にあてられ、構内に騎兵訓練の群龍館、喇叭修練の威震館、歩兵小銃訓練の懐忠館、大砲訓練の震天館、兵学・洋算を学ぶ飛雲館(天雲館)を置いた。また城内の御普請会所を雄飛館と改め、卒の大砲・小銃・喇叭訓練場とした。
翌二年三月七尾と西町の軍艦所、弾薬所、焔硝製造所を海防方の所管に移す。英学教育に関し、英学所を壮猶館内に一月設立、これを移して致遠館とし、七尾軍艦所に英学所分校七尾語学所を設けて、本来の航海術の教授は壮猶館内に釣深館を建ててここに移した。
明治三年になると、政府の軍制統一の一環として仏式兵制への切り替えが命じられる。そこで士官養成を目的に十一月二ノ丸御殿内に館を建設し(十二月二十日斉勇館と命名)、藤勉一を主任に教授には旧幕士横田豊三郎外一名を任じた。斉勇館は生徒が士官・下士官に任じられるに伴い同年中に閉鎖される。
洋学教育に重点を置いた金沢藩は、有志を藩費で横浜に留学させていた。更に元年石見国津和野藩士吉本順吉を招き、狂言舞台を講堂に用いた道済館を設立して仏学の教授を受けた。その後金沢藩士でこれを受け継ぎ、仏学・英学・綴書読本・文典・地理・歴史・漢学・数学を教えるが、入学期限、規則、試業等を決めていなかったため、生徒増加に伴い翌年一月に規則を定めるとともに、幼年生を英学所に移管し、残った生徒の内英学生を城内に移して挹注館として独立させる。これを三年十一月に致遠館に併せた。また同年中壮猶館を初め意義を失った諸館を閉鎖し、道済館を移転した。
明倫堂も存続の意義が問われつつあった。元年十二月に町在の人々にも講解席を開放し、教師不足は陪臣の儒者を助教雇に取り立てることで補った。一方で素読生を切り離し、済々館と雍々館を建設して移管、明倫堂の句読師を廃止した。翌二年十二月には両館も廃される。
組織面でも二年三月に藩治職制が改められ、学政・軍政二寮の下に書吏と二等書吏、文学局に文学教師、武学局に武学教師を置く。六月学政・兵政二係に再編、権少参事・正権大少属・吏生・藩掌・出仕を任じる。翌三年文武館判任班列等級を改定し、学校に少属・権少属・藩掌を置くものの、十月ついに明倫堂の廃止が決まり、教職員は解雇された。
英学所は雍々館跡に移され、更に移って致遠館と改称されていたが、またも大手町へ移し七尾語学所を併せ、次に巽御殿へ移され城中にあった挹注館と合併、中学東校へと姿を変え、米国人オーズボンを教師に招く(三年八月満期)。
三年二月黒川良安の尽力で本科五年の医学館を開設し、卯辰山養生所の医学生を移して医者志願者の入学を義務付けることにした。入学は願書提出のみ(藩士は学政所)でよく、通学生と寄宿生(二十五ヵ月)がいた。毎朝五ツ時より夕七ツ時を授業時間とし、予科で語学・数学・理学・化学、本科で解剖学・生理学・顕微鏡用法・動物学・製薬処方学・外科眼科療病法・軍陣医則・包帯法を学ぶものと決めた。その上で前年十二月に医院医師として来ていたオランダ軍医ペイ・ア・スロイスを招くことが検討され、四年三月医学館教授への就任を見た。教職員七十四人・生徒百二十人(内三十三人は寄宿生)、月謝は予科が十銭、本科一等が二十銭で各五銭ずつを加え、五等は四十銭となる。
また鉱山開発を企図して、三年に巽御殿で鉱山小学校を設立し、プロイセン人イ・フォン・デッケンを招いて生徒十数人に鉱山・金山・地質学が教授された。
三年閏十月学校の統合を更に進める。まず学校を中学校と小学校所に分けた。中学校は東校と西校からなる。前者は元明倫堂であり、皇学(国学)を解釈とともに毎月二回教え、漢学の紀伝学・文章学・経学を質問・輪講・会読等に席を分け教導、洋学も原書と訳書を会読した。後者は致遠館・邑注館・道済館よりなり、致遠館幼年生を正規塾生として語学から入らせ、他の生徒は変則塾生として扱い、文典より学ばせた。しかし塾生は思ったほど集まらず、定員八百人の所四年三月時点で東校三百三十三人、西校三百人に止まる。それどころではなかったということであろうか。生徒百人につき四等教師一人・訓導二人・訓蒙四人を配し、百人を四席に、一席を甲・乙に分けることとしていた。廃藩なった後四年十一月両校を統合し金沢中学校を創設する。
一方、小学校所は卯辰山の集学所など金沢市内に分散させ、最初五・六ヵ所、後に十ヶ所であった。上・下二等に分け、孝経・論語・孟子の素読を修了した後、小学・国史略・十八史略の講義を受けた。別に算術と習字を学んでいた。教員は中学校の訓導・訓蒙の内から配属し、有志の醵金と生徒の謝金で運営された。生徒には通学生と寄宿生がいて、四年時点での総生徒数は二千百八十八人(寄宿生百四十三人)であった。
金沢藩は更に大学校設立を予告するものの、七月に廃藩があったため流れてしまい、五年四月には旧金沢藩の学校全てを閉鎖する。例外として病院のみ私立金沢病院として存続が許されたが、医師太田美濃里らの尽力があったればこそであり、スロイスも七年まで勤務した。
二、富山藩の廣徳館
①廣徳館以前
富山藩主初代前田利次の時代は未だ武が中心であり、随従の武芸者で藩士を鍛練していた。兵学は楠流と北条流(甲州流とオランダ兵学の融合、北条正房の創始)、弓術は吉田流、砲術は安見流、鎗術は原田流、剣術は富田流であった。
二代正甫(まさとし)は文教礼儀を重んじ、藩内の気風を変えるため儒者を招いて講説を受けることにした。そこで藩医 杏一洞の推薦で 南部草壽を招いて朱子学を講ぜしめた。以後南部氏は景衡、景春と三代に渡り藩に仕えて学問振興に尽くした。一洞の長男三折は享保十年に学問所を城南空地に建設する旨を提案するが、藩は儒官充実を優先させることとし、五代利幸は江戸で朱子学者大野竹瑞、松岡好山、藤沼衡山等を招き、六代利與は宝暦十二年徂徠学派の佐伯北溟を侍講に招く。また享和三年正月十三日南部氏と杏氏に藩から銀子三十枚が下賜されている。
②廣徳館の設立
機は熟した。利與は安永二年正月藩士吉村順左衛門逑彭に昌平黌の規模・機構・祭儀を調査させた上で六月人材の育成と士風の振興を目的に、藩校として全国で六十二番目となる廣徳館を設立する。当時宝暦十三年の日光修復御手伝普請で藩は莫大な負債を抱え、藩士に全借知を課していたこともあり設立反対の意見は強かったが、儒官三浦衛貞の賛同を得た利與は強く決意していた。正月全藩士に向け、文武惰弱者を解雇して精を入れ役立つ者を力に応じて登用する旨宣言するとともに、学校建設反対の論を「雑談」と切り捨てた。あとは一気呵成に事を押し進め、二月に二代藩主正甫の末男前田聞我(幕政批判で罰せられた竹内式部に連座)の隣屋敷を用いることに決め、その両側の空屋敷と購入した藩士山本瀬兵衛宅を長屋風に建替えた。門には江戸の書家関源蔵(関鳳岡門人)が篆書で書いた「廣徳館」を掲げ、開講式を六月十八日に挙行する運びとなる。開講講義には御細工人組以上なら二・三男でも出席でき、元帳には四百人の名が記されている。三月恭敬篤実を旨とした 心得書を掲示し、年間日程や時間割りを発表した。
③廣徳館での学習
高知組(四百石以上、頭役取扱)以上の嗣子で十五歳以上には三ヵ年が義務付けられた。更に経書で五経の抜講(進級試験)未終了者、兵学で教科書の弁解未了者、剣・槍等の目録以上に進階せざる者は追願で一年留年でき、また出席が悪い者や尚も進階不充分な者には「御沙汰」や解職・停職などの「御咎方」があった。兵学は甲州流を採用し、藩士安達周蔵家に委ねて所定席数(出席日数)の講義を受けるものとした。
四百石以下には寄宿生を許し、父兄の禄高によって若干の学費を支給する。足軽の子弟には弓と砲術(鉄砲)を錬磨させた。
優秀者は藩費で江戸の昌平黌に留学させてもらえ、更にその間月に銀二百疋が支給される。また私費留学も勧められている。当然のことながら出世は保証されていた。廣徳館での成績は嫡子の相続願いや二・三男の養子願いの許可・判断の材料になるのだから、本人以上に親達が懸命であった場合もあったであろう。
教材は四書五経・十八史略・春秋左氏伝・史記等の漢書を用い、授業は寄宿生と通学生を分けて行われた。毎日午前中には下士以上子弟の四書五経の素読課程があり、これを修了して正規の入学が許可される。二・六・十の日午後は経書講義と質問、三・八の日午後は質問受付、四・九の日午後は寄宿・通学両生合同で経書会読があり、一の日午後は詩文会があって成果を発表した。なお、医学・算術・筆道は各人で師匠に就くこととされていた。
文化七年に校舎拡充のため三ノ丸西に移築し、文武の稽古場を分ける。その後本館一棟を文学と漢学の講習場、他の三棟を武術の演習場(各々を弓、剣・砲・槍、柔術)とした。馬術は馬場を、砲術は下士以上が構内、以下が千石町の教練場を用いた。
試験は文武とも月一回あり、合格者には文が書籍、武には竹刀が与えられる。また文学五経の合格者は武術の免許以上に相当するものとみなされた。他にも春と秋に賞罰の伴う試験があった。生徒は入学当日と試験及第及び賞典の際、師範へ挨拶に出向く慣例であった。
教員は当初、祭酒一人・学頭一人・助教一人であったが、まず助教を都講と監生に分け、享和二年七月に祭酒・文学・教授・学生・訓導に再編された。
④釈菜の礼式
廣徳館最大の行事といえば釈菜せきさいの礼式である。これは孔子を祭る儀式であり、まず明の謝時中が描いた孔子聖画像を安永二年に安置し、同四年学頭三浦衛貞が「釈奠図解叙」を選述して準備を進め、同五年二月上丁の日に初めて礼式を執行する。これ以降毎年春二月と秋八月上丁の日の恒例行事になった。
享和二年七月釈菜の略祭を釈奠の正祭とし、藩主在城時は祭儀中廣徳館に詰めて、拝礼時に白銀若干を献納、参勤不在時は老臣が代理で代拝した。また士分以上は必ず拝礼・献納し、献納銀は殿様御奉納銀目録、高知組以上献納目録、無組以下献納目録に分け奉納された。御目見得医者・町医者・社人も学校に申し込めば参拝でき、献納銀は春秋両度で一両、一度の参拝に五分ずつと定められた。
礼式時には五日前より休講になり、生徒は三日前に献上漢詩を書き写す作業を受け持つ。生徒が自作した漢詩は監生が閲監し、都講へ渡した。献上される漢詩は先聖(孔子)頌徳の詩であり、釈奠頌といわれて刊行もされた。寛政九年のものは、祭酒市河寛斎の序文と教職員三十四人の頌詩で構成されている。なお廣徳館では積極的に図書を出版し、私塾や寺子屋の教科書に用いられた。慶応二年に出版された佐藤一斎の訓点による四書五経の改訂本は一万部を数え、平戸にまで及び「廣徳館本」と呼ばれた。
さて礼式前日、廟堂や門の内外を掃除し、孔子像の前後に幔幕を張り、堂の中央に香を置く。その日には卯ノ刻(午前六時)に献官・都講・監生が一名ずつ堂に入って奠物を点検し、執役は休息所に控える。辰ノ刻(午前八時)より唱和者の呼び出しで孔子像の参拝が始まる。
⑤学校再建と文武奨励
七代藩主利久、八代利謙の頃には儒官の顔触れも充実する。学風は山鹿素行や荻生徂徠の古学中心であったが、寛政二年に幕府が異学の禁を出したため市河寛斎等の朱子学、昌平黌派へと変わった。文化元年には教員に家塾創設を促し、学問の教導と普及に努めさせた。
九代利幹としつよの頃、文化七年正月佐藤四郎左衛門信照を御普請御用に任じ、五月に校舎を城中三ノ丸へ移したが、天保二年四月十二日西田地方の浜田弥五兵衛方より出火、類焼してしまう。しばらくは仮校舎での講義を余儀なくされ、ようやく同六年三月近藤光享が責任者になり、佐伯棠園と藤澤長周の監督下に旧地で再建を開始、七月に復興を見た。この際学科拡充を市河寛斎や大野拙斎等に諮り、四書五経の素読・習字・作文を必修にして、蒙求・十八史略・春秋左氏伝・史記・文選・日本外記・日本史略及び作詩を課すことにする。また出席しやすくするため、二・五・七・十の日を従来の昼から八ツ時開始へ変更し、かつ出席を督励した。
天保六年十月に襲封した十代利保は学問の普及を重要視した。そこで大野欽一郎を昌平黌に留学させて機構や運営を観察させ、国学定着のため歌学・古学・国語を学科に加えた。更に訓諭書「履校(れきこう)約言(やくげん)」を編み、精神の高揚を図った。
十一代利友と十二代利声の頃には廣徳館教育が充実期を迎えるものの、十三代幼君利同の頃には既に維新直前であった。当時の政情は学校教育にも反映される。慶応元年に従来の学則が大幅改定され、武が奨励されたのである。併せて「文武師範家塾学則」を作り、教員に家塾教育を改めて命じた。同三年六月「文武奨励申渡書」を発して、武術稽古所を廣徳館西に建てる。師範役には渡辺順三郎を、製薬方・弾薬方・御筒方などに六十一人を任じた。これは武を廣徳館が担い、文の学習は専ら家塾に依頼することを意味し、創立以来の大転換であった。また教員家塾を事実上の分校とするものでもあり、優秀者は下級・小禄でも登用し、昌平黌に留学させるものとした。
⑥廣徳館教育の終焉
しかし間もなく明治維新の大変革を迎え、文の教育が復活された。その直後の明治元年九月校舎が火災で焼失してしまう。だが教育は継続され、上等生・下等生に分かれて夫々民家を借り塾舎とした。また優秀者はこれまで通り東京や京都に留学させた。
翌二年十月に藩は英学教師として森本弘策(元「榎本艦隊」の千代田艦長で降伏人として預り中)を招き、近藤邸に変則英学校を創立、さっそく寄宿生と通学生に分けて生徒を募集した。これは後に洋学北校と改称される。それに伴い廣徳館も藩学校と改め、漢学を専門に教えることにした。直ちに二番町の鎮撫使旅旅館跡に移り、生徒を上・中・下等及び等外に分け授業を再開する。また教員高橋篤の家塾を正式に支校として総曲輪にあった重役西尾逸角邸に移し徳聚堂と名付け、皇学・漢学・洋学・算学の教授を町在の人々にも開放した。教員には堀才二や久米といった識者が就任し、明治九年まで授業は継続されている。
その他、演武場を山王町の民家に移し撃剣を習得させた。西洋医学校も山王町の山田嘉膳邸跡に創立し、金沢藩医高峰昇を教師として招いた。生徒数は最大百四十人で、やがて洋学南校と改称される。
十一月に藩学校と英学校の生徒若干名を東京の開成校及び家塾へ留学させるものの、四年七月の廃藩に伴い全て廃校が決まった。ここに歴史ある廣徳館教育は完全に停止されるに至ったのである。
●昌平黌の様子
昌平黌とは昌平坂学問所のことである。孔子を祭る聖廟があり、建物は黒のモノトーンで統一されている。もともと尾張の徳川義直の支援で作られた林家の家塾であったが、四代将軍徳川家綱の頃より官立色を強め、五代綱吉が頻繁に通ったため、林家から湯島へ移した。寛政十二年三月十一代家斉の時に、老中松平定信が正式に官立とした。
学生には稽古人と書生の区別があり、前者は幕臣子弟や昌平黌幼年部出身者であるが、四十八名のみが特別に入寮が許され、他は通学生になる。後者は諸藩からの留学生であるが、寮には八十名の定員しかないため、通常は空きが出るまで麹町の教学所に収容されていた。寮には八畳と六畳の部屋が・あり、前者は上級生用の二名部屋で、後者は下級生の三人部屋である。室内を屏風で仕切って使用した。下級生は上級生の使い走りをし、上級生就中優秀性は役付きになり、寮の万端を仕切った。
さて、授業であるが、寄宿寮の幕臣子弟は厳重な管理下で修業を義務付けられたが、書生寮は規則が緩く、それらしいものは月に一度の教師の講義と二度の教師による個人的講義くらいであり、それも学生側は真剣とは言いがたかった。そもそも昌平黌に通う学生は基礎がしっかりしているため、そのようなことは不要であったのであろう。まどろっこしい講義より討論を好んだ。毎日の勉強は自学自習が常であり、解釈を巡って口角泡を飛ばす討論をしたという。また自説が誤っていると知るや、すぐそれを認める潔さを誇りともしていた。また特に卒業年齢があるわけではないので、官吏当用試験を受ける者や藩で急用が無い限り心行くまで学問ができた。
学校側は学生の学習をチェックするため読書ノートの提出や籤に当たった者に輪講をさせるが、学生も心得たもので、読んでもいない本の名を書いたり、適当な発表でお茶を濁していたようである。ただ学校側も分かっているのであろう。特に処断はなかった。
このような自由な雰囲気で、自由な発想が涵養されたので、高杉普作等の幕末維新で活躍する人々も現われ得たのであろう。(中村彰彦「捜魂記」『諸君!』平成十五年三月号、『稿本金沢市史學事編第一』を参照)
●本居宣長の漢意批判
国学者として知られる本居宣長・は『玉勝間』や『古事記傳』序文で、儒学者が何かというと聖人の道を讃えてわが国に道無きが如く説くことに対し、次の如く強い異議を唱えた。曰く“実際の支那で・は道など関係なく国が乱れ、戦争に明け暮れているではないか。それに比べ、わが国は古来道などという小難しいことを言わなくとも国は治まり皇統も不変である”曰く“儒学の思想は卑近な事柄から引いているので分かりやすく、記紀からは伝わる思想が無いように見える。だがそれは幾重にも連なる美しい山々を遠くから見ているからなのである。一見ぼんやりと靄がかかっているようでも、耳を澄ませば聞こえる者には聞こえてくる”曰く“支那の物ならば何でもありがたがるのは、猿が人を毛が無いと笑うのに対し、短い毛を寄せ集めて、ほらこんなにあるじゃないか、と言い返すようなものである”等々、無邪気に漢意をありがたがる儒者を批判した。
●素読の座席
素読は明倫堂に入学していなくても受講できる。各々師範に就いて学び、試業のみを明倫堂で受けた。座席は七席と算学の席があった。
●素読試業
素読試業は毎年一回であったが、天保十年から二、五、八、十一月に実施となる。五経十一本中につき一枚を読ませ、渋滞しなければ登第で、四書正解一部、天保十年からは小学句読・大学匯参を各一部が授与された。特に白文が読めると優等として、論語匯参一部が与えられた。
●試業
四書五経のうち四・五章を出題し、任意の一章を辯書させる。評価者は姓名を見ずに上中下で優劣を分けた。義務付けられた年齢は十八から二十八歳までで春と秋、後に春か秋にあった。二十九から三十九歳は三年に一回となっていた。
【文政二年八月十日の試業問題】
孟子の中
告子上篇牛山章
公孫丑上篇仁則榮章
離婁上篇存乎人者章
離婁下篇中也養不中章
同篇徐子曰仲尼丞稱於水章
解答方法
何経何々之節、或は何之章
章意、字訓、解義、餘論
年号月日
を筆答辯書して横目へ差し出す。試業の間は脱刀勝手(刀を置く)、章意と字訓を略し、解義のみでも構わない。また時務等に関する意見を餘論に記しても、漢文・和文・仮名書・通用文の一つに認める。孟子集註は持ち込んでもよいが、大全・正解といった細註のあるものは認めない。
【答案の記入例】昌平黌の場合。この方法に準じた。
學而篇 子曰巧言令色鮮矣仁
章意 此章は志をかざり候心有之候へば、本心の仁徳はうせ候と申事を示され候章にて候。
字訓 巧言とは詞を上手に品よく申なし候、令色とは顔色をいかにも尤もらしく取繕候事のよし。
解義 凡人は内心の見事なるやうにのみ心かけたく候、左なくして口上を上手にいひなし、顔色を尤らしくとりつくろひ、外をかざりて人の気にいらんとする時は、是則欲心の盛なるにて、本心ははやうせたりと申べし、仁は人の本心なれば、本心をうしなひたる人は、仁徳の有べきやうなし、聖人の御言葉はゆるやかなれば、鮮との給ふうえは、絶へなきといふことを心得べし。
餘論 剛毅木訥近仁と申言葉に引くらべて見候へば巧言令色なる人の心のおそろしき事しりつべし、されば人はかりにもほかをかざりて人によろこばれんと思ひ、大切の本心を失ひ見ぐるしき心持まじき事、肝要の儀と存候。
●廣徳館の学則
寛政四年七月「北藩秘鑑」
父子有親君臣有義夫婦有別長幼有序朋友有信学校之おしへは此五倫に止まりて人々其身に行ひ各其職分のなすへき事をおこたらすつとめはけむへき事
一、師長に被仰付候人々者其役不軽候得者先其身を正しく心得教導すへし 学校志の深浅才器之甲乙にしたかひねむころに示諭すへし 仮令不器之徒たりとも丁寧に教講すへし 然ども強而おしへに不従之輩は学校御役人江可相達事
一、習学之輩は貴賎となく学頭助教之教導に従ひ無怠慢勤学之各職分を全く心掛之儀肝要たるへき事
一、講習ハ聖経賢伝を本とし諸賢諸儒正説をも兼講し又本朝先哲の書も其正しきを撰て用ゆへし 異端邪説等聖経に害あるの書は一歳禁せられ候 此外歴史諸子詩文集等も得手にしたがひ会読すへし 和漢天文暦学算法医学等ハ別に其師を被仰付候事
一、諸生を御養被成候者三年にて学業上達不仕者は学校を出すへし 師長の教に不従者は三年に不満とも指置ましく候 若今暫相学び業すゝみ可申体之者は三年を過候とも御養ひ可被成候 尤毎年諸生之学業を考へ試み相応之賞罰あるへき事
一、総而礼儀正敷心得言語進退着座之次第急度慎むへき事
一、講書聴聞中居眠り或無益之雑談或無用に席を立或扇子つかひ等堅仕ましき事
一、師長之優秀講述之善悪批評(す)ましき事
一、才器学力有之共無礼緩怠之所行候者学校を出すへき事
一、不忠不義之輩其断なくみたりに学校へ入候者早速追いしりそけ可申候 若先非を悔習学相望者は其実情をとくと見届教導すへき事
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