http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/7d2fc311e35389c03fc1a01beb1f223f 広島の石にある「文句」と「長崎の鐘」の歌詞 - 狼魔人日記 広島の石にある「文句」と「長崎の鐘」の歌詞 原爆の日に、罪を憎んで人を憎まず、なんてきれい事を言うのは不遜というものだろう。 そんなに心の広い人間は、理想ではあっても、現実にはそういるものではない。 原爆の日を「安らかにお休みください」の一言で終わらせるのも非体験者のきれい事である。 「原爆投下は仕方がなかった」論は、 きれい事に満ちた不遜な心から生まれる。 原爆の日は、日頃考えている「原爆投下」に対する国民の怒りを吐露する日であってもおかしくはない。 他のブログでも紹介されているが、あえて「西村眞吾節」が炸裂した「国民の怒り」をメルマガから抜粋引用する。 全文読みたい方は⇒原爆の投下と広島の石にある「文句」 ◇ <私は、原爆の犠牲者を心から追悼する。しかし、広島の原爆公園にある、「過ちは繰り返しませんから」という追悼の文句はしらじらしい。私は気にくわない。嫌いである。 えらそうなことを言うな、まるで貴方たちの生きた頃は馬鹿ばかりで過ちを犯していましたが、私たちは賢く振る舞いますと言っているようではないか。 また、原爆を落としたのが日本人だったとでも言うのか。この文章の主語は誰であろうか。落としたのはアメリカではないか。その証拠に、アメリカでは、原爆を広島に落としたB29を未だに大事に磨き上げて展示している。 そのB29の前に「アメリカ人は過ちは繰り返しません」と書いているなら分かる。しかし、落とされた広島に主語不明でこの文句を書いている感覚が分からない。一体天下の公園に、誰がこの文句を書いたのであろうか。 敵をとるという思い。この思いを素直に懐き表明した上で、恩讐の彼方に昇華させるという慰霊ではいけないのであろうか。> < そこで、私が元兵士から聞いた原爆被災者の直接の声を思い出す。原爆投下の直後、広島に入った部隊があった。その部隊の兵士は、おびただしい被災者の死骸と生きているが道ばたにうずくまっている人々の群れをみる。そのうずくまっている人々は、彼にこう言った。 「兵隊さん、敵をとってください、敵をとってください」 敵をとって欲しい、これは被爆者の自然の願いであった。この事実に目をつぶって追悼はない。> <我が国を取り巻く国々は、みな核保有国である。とりわけ、中国は我が国に向けて東風21という核弾頭ミサイルを実戦配備している。北朝鮮も核をもっており「東京を火の海にする」と脅迫したことがあった。 そこで自問しよう。 核を落とすなら敵をとると思う日本人と、 落とされれば「過ちを繰り返した」と思う日本人と、 どちらが落としやすいであろうか。 決まっているではないか。落とされれば、自分が悪かったから過ちを繰り返したと思う日本人には、良心の躊躇なくしかも仕返しの恐怖もなく落とせる。 落とされた日本人自身が言っているように、悪いのは日本人であり落とす側は悪くない正義だと言えるからである。しかもこのような日本人が、敵を討ちに来る心配もない。 それに対して、敵をとりにくる日本人には落とせない。何故なら落とせば自分も敵をとられて死ぬからである。 そもそも、精神的にも敵を討つ体勢があること。 核抑止力とはこういうことである。 相互確証破壊、つまり、やったら確実にやり返す、だから双方とも核は使えない。きれいごとではなく、これが核戦争が抑止されてきた前提である。 ということは、広島の公園にある、「過ちは繰り返しませんから」という文句は、核抑止力を自ら放棄して、日本人には核を落としやすいですよ、と核保有国に発信していることになるではないか。 敗戦ぼけ!もほどほどにしてほしい。 まさに、あの文句自体が、この厳しい国際社会のなかで我が国に再び惨禍を繰り返させる「過ち」である。 「過ちを繰り返させない」為に、あの文句を刻んだ石の撤去を望む。>(原爆の投下と広島の石にある「文句」ー西 村 眞 悟 平成20年 8 ◇ これだけで充分胸がスカッとするので、これ以上付け足すことはないが、以前に「広島の石」と「長崎の鐘」についてエントリーした記事があるので蛇足と知りつつ再掲します。 【以下再掲】 「NHK・BS2 ビッグショー」 反省の歌「長崎の鐘」 昨夜のNHK・BS2の「ビッグショー」の話題。 「蔵出しエンターテインメント」と言う過去にNHKで放映された映像を再放送する番組で、昨夜の主人公は作曲家の古関裕而で後半は「今週の明星」でゲスト歌手は藤山一郎、伊藤久男、二葉あき子、岡本敦郎の声自慢歌手が勢ぞろい。 先ず伊藤久男が「イヨマンテの夜」、続いて岡本敦郎が「高原列車は行く」、二葉あき子の「フランチェスカの鐘」の次にオオトリで藤山一郎で一気にフィナーレかと思ったら・・・同じく古関の作曲になる「愛国の花」のメロディーをバックにナレーションが入った。 「『戦時歌謡』と言う言葉がある」と始まるナレーションは戦前・戦時中に数多くの軍歌をヒットさせた古関裕而に反省を迫るインタビューにも取れた。 事実、古関は何度も「(思い出すと)胸が傷む」という言葉を繰り返していた。 この「ビッグショー」の初回放送は1975年だと言うが、NHKは戦後30年もたって一作曲家に軍歌を作ったというだけで何を反省せよと言うのか。 ≪蔵出しエンターテインメント ビッグショー「古関裕而 青春!!涙!!哀愁!!」 チャンネル :BS2 放送日 :2007年 1月29日(月) 放送時間 :午後7:45〜午後8:32(47分) ジャンル :音楽>歌謡曲・演歌 バラエティ>トークバラエティ バラエティ>音楽バラエティ ◆番組HP: http://www.nhk.or.jp/ugoku/newprogram/bs2.html#main 【出演】古関裕而、藤山一郎、伊藤久男、二葉あき子、岡本敦郎、高英男、島田祐子、阿里道子、加藤道子、鎌田弥恵、藤村有弘 ほか【曲目】「栄冠は君に輝く」「紺碧の空」「君の名は」「長崎の鐘」ほか 【司会】酒井広【ナレーション】山川静夫(初回放送日:1975年2月16日≫ ◇ 「歌は世につれ世は歌につれ」といわれるが流行歌にに詳しく自分で作詞もしている作家の五木寛之さんによると、歌が世につれることはあっても、世が歌につれることはないと言う。 と言うことは数多くの「戦時歌謡」のヒットを飛ばした古関さんは時代が求めた歌を作ったに過ぎず、自分が作った歌につられて時代が軍国化したわけではない。 あの「蔵出しエンタテインメント」のインタビューの年代が1975年だというが、古関さんが軍歌を作ったというだけで「戦前の悪行」としてNHKの音楽番組で反省のインタビューをさせられる謂れはないはずだ。 そして過去の軍歌の反省でもさせるように藤山一郎が「長崎の鐘」を朗々と歌い上げて番組は「完」。 勿論「長崎の鐘」は長崎の原爆投下で被爆した永井博士を主人公にした歌で作曲は勿論古関裕而で歌詞はサトウ八ローが書いている。 藤山一郎の歌う「長崎の鐘」の明瞭な藤山の発声と発音の歌詞を聞き入りながらその意味をなぞると何か違和感を感じた。 再び考え込んだ。 古関裕而に「戦時歌謡」の反省の弁を述べさせ、同じ作曲家が作った終戦直後の「長崎の鐘」で一体誰に何を反省させようと言うのか。 ◇ 「長崎の鐘」 作詞:サトウハチロー 作曲:古関裕而 唄:藤山一郎 1 こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る この曲は昭和24年、まだ戦後のドサクサと言った時代のヒット曲である。 曲の主人公の永井博士は長崎の原爆投下で奥さんを亡くし、自分も被爆で白血病戦いながら数々のベストセラーを出した。 結局博士はその2年後に亡くなる。 つまりこの詩は原爆の凄惨な災害を受けた原爆被爆者を歌っている筈である。 しかしこの歌詞には残虐な原爆を投下した者への恨みはない。 念のため二番の歌詞を見てみよう。 2 召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る 3 つぶやく雨の ミサの音 たたえる風の 神の歌 耀く胸の 十字架に ほほえむ海の 雲の色 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る やはり違和感は深まる。 これは賛美歌かキリスト教讃歌か。 歌詞を鼻歌で追いながら一つの疑問にぶち当たった。 この歌が作られた昭和24年だ。 私の疑問を解く鍵がこの時代に密封されているのに気がついた。 念のため歌詞の4番に目を通した。 4 こころの罪を うちあけて 更け行く夜の 月すみぬ 貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る これはまるで懺悔の歌ではないか。 やはりそうだったのか! 作曲家古関裕而と詩人サトウハチローの苦悩が手によるように判った。 昭和24年前後の日本。 サトウハチローが「長崎の鐘」の作詞に呻吟していた頃。 日本はマッカーサーの厳重な言論封鎖の下にあった。 それよりさらに四年時を遡る。 昭和20年8月6日と9日。 広島と長崎に原爆が投下された。 続く8月15日に発表された『終戦の詔書』で天皇陛下は既に原爆投下を批判していた。 「敵ハ新タニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及ブ所真ニ測ルべカラザルニ至ル」 天皇陛下は「アメリカは残虐非道な新型爆弾を投下、罪無き人々を殺傷した。その災害の及ぶ範囲は想像を絶する状況に至ってい」と敵の犯した「人道上の罪」をいち早く批判したのだ。 原爆の惨状は当時のマスコミの想像をも絶した。 しかし新聞は「悪霊の町広島」「進駐軍に向ける憎悪のまなざし」などと克明に報道していた。 だがこれに対するマッカーサーの動きは素早かった。 アメリカは昭和20年9月30日より日本独立までの7年間、マスコミの原爆報道は禁止した。 それまでの原爆被害と被災地の状況は一切、掲載される事がなくなった。 話を「長崎の鐘」の昭和24年に巻き戻そう。 永井博士だけがなぜ例外的にアメリカ占領軍の下で原爆被災者の代表のような立場で報道されたのか。 マッカーサーによる厳重な原爆報道禁止の下で。 永井博士はカトリック信者であった。 それにしても長崎原爆についてもその著作では落とした側のアメリカに対する憎悪は全く記されていない。 この永井博士の、≪原爆を落とした側への批判は行わずに、すべてをあるがままに受け入れ、すべてを赦そう≫といった視点が、その後の日本人の原爆観を決定付けた。 当然現実の被災者の中にはアメリカへの憎悪の念を燃やす人は少なからずいた。 ただアメリカ占領軍は数多くいる原爆被災者の中で永井博士の言説だけを特別に報道許可したというのは、そこに政治的な意図が介在していた。 原爆投下を今でも正当だったと主張するアメリカにとって永井博士の言動は願っても無い宣伝媒体だったのだ。 永井博士は自著で次のような主旨を述べている。 「原爆が神の御心ならば、それが以下に辛いことであっても試練として、自分はそれをそのまま受けいれる」 マッカーサーの厳しい言論統制と「原爆は神の御心には関係なく、人類が犯した最大の悪業である」と言う人間の本音の狭間で作曲家古関裕而と詩人サトウハチローは悩み苦しんだのか。 そしてあのような原爆被害に対する曖昧な歌詞を捻り出したのか。 ここにもマッカーサーの目立たない言論封殺の秘技を見る。 これはその後の日本人の原爆観に引き継がれる。 昭和27年日本独立の年に建立された広島の原爆碑文にその証が刻み込まれた。 碑文を書いたのは被爆者のひとり、雑賀忠義広島大学教授にも三年殺しは引き継がれた。 碑文には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻み込まれている。 この碑文には主語が無い。 過ちを犯した(原爆を投下した)主語が書かれていないのだ。 昭和27年11月日本独立の年、極東軍事裁判の弁護人であったインドのパール博士はこの碑を読んで発言した。 「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と。 このことがきっかけとなっていわゆる碑文諭争がおこった。 原爆投下についてのマッカーサーの目立たぬ言論封殺は「長崎の鐘」から「広島原爆碑」と受け継がれ平成の世になっても日本人の思考を停止させたままにしている。 驚嘆すべきかな米国の占領政策! 恐るべきかなマッカーサーの言論封殺! 戦後4年にして、古関裕而に反省させ サトーハチローの詩心を惑わし 反省の歌「長崎の鐘」を作らした 怒る筈の原爆被害者を従順な子羊に変えるために 時を乗り越え 戦後30年経った1975年、NHKはその歌謡番組で古関裕而に反省のインタビューをさせた。 この反省は何時の日まで引き継がれていくのか ア〜ア〜! 今も長崎の鐘は鳴る。 ウィキペディア創設者ジミー・ウェールズの提言 共有すること、ただそれだけのために、世界中から集まったボランティアが人類の知識を注ぎ込み、巨大な知識の貯水池ができてゆく。 http://www2.ocn.ne.jp/~kthr-wf/MIDI-nagasakinokane-exp.html 長崎の鐘 長崎の鐘 「長崎の鐘」とは長崎原爆の爆心地に近い浦上天主堂にあった<アンジェラスの鐘>のことで、原爆で崩壊した瓦礫の中から出てきた唯一の天主堂の証であった。この鐘は、今でも再建された天主堂で澄んだ音色を響かせ、原爆の理不尽さと世界平和を訴えている。しかし、サトウハチローの書いた歌詞の「長崎の鐘」は、長崎医科大学の放射線科の医師であった永井隆博士が書いた自伝本「長崎の鐘」と永井博士の被爆の半生を歌にしたものである。 歌詞に「こよなく晴れた青空を、悲しと思う切なさよ」とあるように、昭和20年8月9日は、朝からこよなく晴れた上天気であった。3日前の新型爆弾による広島の悲惨さもまだ伝わってはいなかった。長崎医科大学放射線科医師永井隆博士は、朝から放射線研究に没頭していた11時2分、窓の外が白昼の日光よりも明るく、ピカっと光った。同時に被曝と灼熱地獄、続いて耳を聾する轟音と猛烈な爆風、衝撃波。永井博士も深手を負って壊滅状態の瓦礫の中からやっと這い出したが、長崎医科大学だけでも角尾学長を始め890人余の人命が一瞬にして失われたのだった。 長崎医科大学は安政4年(1857年)に蘭方の長崎奉行西役所伝習所として開校され、明治元年(1868年)長崎府医学校となり、幾多の学制改革を経て大正12年(1923年)大学に昇格して長崎医科大学となって、浦上の地に居を定めた。後の昭和24(1949年)、長崎医科大学は長崎大学医学部となるが、いまだに浦上の長崎医大跡地に医学部本部がある。ここは爆心地から400mほどしか離れておらず、爆心地500mの浦上天主堂(医学部北隣)とともに、500m上空で爆発した原爆の被害を最も手酷く受けたところにあった。 長崎医科大学も壊滅的被害を受けており、永井博士も重傷を負っていた。にもかかわらず、病院跡にはケロイド状に皮膚の剥がれた人々や、重傷の人々が引きも切らさず運び込まれる。専門医だった永井博士には、それが通常の爆弾によるものでなく、放射線による被曝であることが一目でわかった。放射線を出す爆弾といえば原子核分裂爆弾。自分の領分の患者たちである。一人また一人と亡くなっていく中で、永井博士は被爆時から昼夜を分かたず、懸命に治療に専念した。 奇妙なことに、ピカの朝、笑顔で送り出してくれた妻の緑の消息のことは思い浮かばなかった。ただ、何となく無事で居るものとばかり思い込んでいたのである。緊急の日々が終わり、ホッと一息吐いたとき、「家はどうなっているんだろう?一回見に行ってこなくては」と思いついた。その途端「緑は!?」そういえば、被爆の日から妻に会っていない。急いで浦上天主堂近くの自宅に帰って見ると、自宅があったはずのところには瓦礫のほか何もない。懸命に探すうち、台所だったところの隅のほうに小さな黒い塊があった。骨盤と腰椎の一部だった。脇に妻がいつも身に付けていたロザリオが。後は黒い雨となって流れ、風に吹かれて天に上っていったと思われる。「緑ッ、緑―ッ!」初めて滂沱の涙が止め処なく流れた。 救急で息つく暇も無かったとはいえ、爆弾の程度が分からなかったとはいえ、どうして妻のことを忘れてしまったのか、なぜ直ぐに帰ってやらなかったのか、なぜ当日少しでも側で祈ってやれなかったのか。博士は自責の念にかられ、後に疎開先から呼び戻した二人の子供と住んだ<如己堂>で、原爆の悲惨さを書き残す決心をする。自身も、長年の放射線研究で被曝し続け、また原子爆弾で被曝したことで白血病に罹っていたが、その体に鞭打って、「長崎の鐘」「この子を残して」「ロザリオの鎖」などを書き残し、妻、緑に遅れること5年9ヶ月で妻のもとへ旅立ったのである。 浦上天主堂の<アンジェラスの鐘>は、左塔の方は衝撃波で25mも吹き飛ばされて大破したが、右塔の鐘は奇跡的に瓦礫の中から無傷で掘り出され、有志の手で再び美しい音色を流し始め、永井博士も妻・緑の再来と思ったことだろうか、最初の本は「長崎の鐘」となったのだろう。 歌謡曲「長崎の鐘」の二番の「召されて妻は天国へ 別れて一人旅立ちぬ 形見に残るロザリオの 鎖に白きわが涙」には発見時の経緯が、四番には「心の罪を打ち明けて 更け行く夜の月澄みぬ 貧しき家の柱にも 気高く白きマリア様」と、<如己堂>での生活が詠まれている。また、丘灯至夫作詞、古関祐而作曲の「長崎の雨」にも、「人の儚さ世のつらさ 遠くマリアの鐘も鳴る 浦上さまならロザリオの 涙長崎夜もすがら」と歌われている。 「長崎の鐘」 作詞:サトウハチロー 作曲:古関裕而 唄:藤山一郎 1 こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る 2 召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る 3 つぶやく雨の ミサの音 たたえる風の 神の歌 耀く胸の 十字架に ほほえむ海の 雲の色 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る 4 こころの罪を うちあけて 更け行く夜の 月すみぬ 貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る