☆嬉しかった経験が、悲しかった経験ほどよく覚えているのは何故か?
近年の研究は、感情を伴う出来事が、よく記憶される回路が脳の中に有ることを明らかにした。
その他にも、お酒によって感情が変化するメカニズム・養育期に虐待されるとストレスに弱い脳になること・有る遺伝子が機能しなくなると非常に攻撃的な性格になること、等が判ってきた。
これらは、知能や意識と同様に脳で生み出される感情の機能である。
物を見たり・聞いたりしたときの脳の働きについては、これまでに多くのことが明らかにされている。
ところが、同じ脳の働きにもかかわらず感情についてはこれまでごく一部の研究者しか研究していなかった。
これは、感情を客観的にとらえることが難しかったからだ。
しかし、感情の変化が脳の機能に非常に大きな影響を与えると考えられるようになり、研究に拍車がかかった。
このYCCトピックスでは、感情が起きるメカニズム・不快な感情に伴うストレス・そして感情の異常(精神疾患)を中心に、最先端の研究成果を紹介しながら、現在の科学で解明された感情の謎に迫ってゆく。
監修
協力
人間は、感情の動物であるとか、感情的な人であるとか、とかく感情を余計なものと見なしがちである。
しかし、この考えは大変に的はずれである。
喜び・悲しみ・怒りと言った原始的な感情から、愛・憎しみ・淡い情緒・沈鬱さに至るまで、感情が我々の日常生活を大きく左右している。
近年、中高年の鬱病や衝動的な暴力・切れる子供など、感情の異常が原因と考えられる現象や事件が多く見られるようになったが、このことも感情が人間の生活にとって如何に重要な物かを示している。
☆理化学研究所脳科学総合研究センター所長伊藤政夫博士談
感情は物を見たり・聞いたりと言った他の全ての心の機能と同様に脳で生み出される。
感情には、動物的な物と人間に独特な物がある。
この特集では、感情が起きるメカニズム・不快な感情に伴うストレス・そして感情の異常と考えられる心の病気(精神疾患)に迫ってゆきたい。
これらを知ることによって、心と脳の関係や感情が脳に与える影響を理解することができるからだ。
まずは、科学的に感情がどのようにとらえられているのか見てみよう!
日本の感情研究のパイオニアである富山医科薬科大学医学部の小野武俊博士は次のように言っている。
「私は、感情が二つに分けられると考えています。
一つは、動物的な感情・もう一つは、人間に独特な感情です。
動物的な感情とは、食欲や性欲など生まれつき備わっている欲求が満たされたときに快いと感じ、満たされなければ不快と感じる物です。
いわゆる喜怒哀楽の感情です。
人間に独特の感情には、尊敬や軽蔑・慈しみや憎しみなどが有ります。」
☆この記事では、小野博士が言う動物的な感情を主に扱っている。
動物的な感情は、快と不快の二つに分けられる。
現在では、人間の脳を傷つけずに調べるF−MRI(機能的磁気共鳴画像装置)やPET(陽電子断層撮影装置)等が開発されている。
しかし、人間の脳の中を実際に見たり・実験を行うことはできない。
そこで、脳のメカニズムを調べるときには、動物の脳が使われる。
動物の脳と人間の脳に共通した場所が有れば、その場所が司る心の機能は全く同じでなくても似ていると考えられるからだ。
感情の研究に置いても動物を使って研究が行われている。
しかし、動物に「あなたは今どういう気持ですか?」と訪ねることはできない。
その為。、行動を観察してどのような感情が起きているかが推測される。
特に、小野博士が言う「動物的感情」は、行動によく表れる。
食べ物に飛びついたり・天敵から逃げたりといった行動が見られれば、人間の喜びや恐れと同じではないが、似たような感情が起きていると考える。
このような動物的感情は、一般的な感情と言う言葉とは区別して「情動」と呼ばれている。
情動は、快情動と不快情動の二つに大別されている。
食べ物や飲み物など自分にとって好ましい物が有れば手に入れようと近付く(接近行動)。
このような接近行動を取ったときには、人間の喜びや幸せな気持に相当する快情動が起きていると考えられている。
逆に、ライオンや蛇・蜘蛛などを見たとき、逃げ出したり(回避行動・攻撃したり(攻撃行動))する。
このような行動を取ったときには、人間の恐怖や怒りに相当する不快情動が起きていると考えられている。
このような快情動と不快情動が動物に備わっている理由を小野博士は次のように説明している。
「情動、特に恐れや怒りと言った不快情動は、動物が進化の過程で生き延びてゆくために必要なものです。
自然界の中で、身の危険を感じたときに逃げたり闘ったりすることによって天敵から自分と種族を守ることができるからです。」
私たち人間にも同じようなことが言える。
危険な場所に近付かないのは、恐れを感じるからだろう!
怒っている人が居たら多くの人は争いに巻き込まれないために近付かないようにするだろう!
しかし、感情が読みとれなかったら怒っている人にも平気で話しかけ、トラブルに巻き込まれてしまうだろう!
このような心の働きが、脳のどこで起きているかを知ることは、脳の病気やその治療を行うときに、また人間の心を理解する為にも重要である。
人間でも扁桃体が壊れると、感情に障害が見られる。
人間にもウルバッハディーペ病という扁桃体だけが壊れる病気がある。
ウルバッハディーペ病の患者は、表情から相手の感情を読みとることができなくなる。
このように、扁桃体が壊れると、自分にとって好ましい物とそうでないものとの判断が付かなくなったり・感情を理解できなくなったりする。
その為、扁桃体は、快・不快を判断などを行っていると考えられている。
小野博士は、猿を使って扁桃体の機能を詳しく調べている。
猿の扁桃体に電極を差し入れて調べた結果、次のことが判ったという。
「オレンジやリンゴなどの好ましい物・あるいは蜘蛛や蛇などの嫌いな物に反応し、しかも好きな物ほど、あるいは嫌いな物ほど強く反応する脳の細胞を発見しました。
この細胞は、石ころなど自分にとって意味のない物には反応しません。
更に、自分にとって好ましい物でも、好きなスイカや嫌いな蜘蛛だけにしか反応しない脳の細胞も発見しました」
この小野博士の実験は、自分にどの程度の喜びをもたらす物か?あるいは、どの程度不快な気持をもたらすものかを判断する脳の細胞があることを示している。
また、喜びや不快感をもたらす物が、スイカや蜘蛛であることを知っている脳の細胞もあることを示している。
脳を作っている主な細胞は、神経細胞(ニューロン)と呼ばれる。
脳内にあるニューロンの数は、百億とも一千億とも言われる。
この天文学的な数のニューロンは、互いに繋がって非常に複雑なネットワークを作り、情報を送受信している。
一つのニューロンは、核などを治めた細胞の本体(細胞体)と・情報を受け取る沢山の枝(樹状突起)・そして情報を送る一本の枝(軸索)からなる。
軸索では、電気的に信号が伝わり、離れた場所にある別のニューロンへと情報を伝える。
ニューロンとニューロンとの繋ぎ目には、隙間(シナプス間隙)がある。
軸索の末端まで信号が伝わると、シナプス間隙に神経伝達物質と呼ばれる化学物質が放出される。
すると、シナプス間隙の対岸にあるニューロンが神経伝達物質を受け取り、情報が伝わる。
この神経伝達物質の一つにドーパミンがある。
ドーパミンは、覚醒剤や麻薬に関係していると言われている。
アンふぇたみんなどの覚醒剤やコカイン・モルヒネなどの麻薬を服用して幸せな気分が起きているときには、脳内でドーパミンの作用が強くなっていると言われている。
また、パーキンソン病では、覚醒剤や麻薬などの場合とは逆に、胃ドーパミンが少なくなっていることが判っている。
パーキンソン病は、喜びのない状態になったり・運動機能に障害が出る病気である。
このようにニューロンとニューロンとの間でやりとりされる神経伝達物質の量や作用の強さが、心の働きに大きく影響している。
ただし、快感を感じているときにドーパミンが出ている脳内の場所と、パーキンソン病の時にドーパミンが減っている脳内の場所は異なっている。
@神経伝達物質として働くペプチドが作られるときには、まず核の中でDNAの情報が、メッセンジャーRNA(mRNA)に覆製される。
AメッセンジャーRNA()が作られると核の外に出てきて、リボゾームでメッセンジャーRNAからタンパク質が作られる。
Bタンパク質は、ゴルジ体で加工され、神経伝達物質として作用するペプチドとなる。
Cゴルジ体で加工されてできたペプチドは、小胞に入れられて微少管というレールの上を滑るように軸索の末端まで運ばれる。
@細胞体や軸索で作られた神経伝達物質とは、シナプス小胞に入れられて軸索の末端で待機している。
A情報が軸索の末端まで伝わると、神経伝達物質がシナプス間隙に放出される。
B神経伝達物質は、受容体に結合し、イオンチャンネルを開いたり・細胞内の化学的な変化を起こしたりする。
シナプス前ニューロンは、神経伝達物質を放出するニューロン・シナプス後ニューロンは、神経伝達物質を受け取るニューロンである。
神経伝達物質は、シナプス前ニューロンの軸索末端からシナプス間隙に放出され、シナプス後受容体に結合して作用する。
すると、ニューロンの表面にあるイオンの通り道(イオンチャネル)を直接開いたり・Gタンパク質などのタンパク質を介して開いたり閉じたりする。
イオンチャネルが開くと、シナプス後ニューロンが興奮したり・抑制されたりして、更に次のニューロンへの情報伝達が調節される。
また神経伝達物質が受容体に接合すると、シナプス後ニューロンの中で様々な化学的変化を引き起こすこともある。
主な神経伝達物質には、アミノ酸・モノアミン・ペプチドなどがある。
アミノ酸は、タンパク質の材料の最小単位である。
モノアミンは、アミノ酸から様々な酵素の働きによってニューロンの中で作られる。
アミノ酸が2個異常繋がった物がペプチドである。
神経伝達物質として働くアミノ酸には、グルタミン酸やGABA(ガンマアミノ酪酸)など、モノアミンには、ドーパミンやセロとニンなど・ペプチドには、オピヨイドペプチドなどがある。
これらの神経伝達物質の中では、モノアミンとペプチドが、感情や感情の病気(精神疾患)に影響していると言われている。
ドーパミンやセロトニンなどのモノアミンは、精神疾患に関係していると考えられている。
ドーパミンは、統合失調症(精神分裂病)に・セロトニンは、鬱病や双極性傷害(躁鬱病)に関係していると言われている。
オピオイドペプチドは、自然な状態で脳の中にある物質である。
アヘンは、ケシの蕾から作られる麻薬である。
このアヘンの成分は、モルヒネであるが、オピオイドペプチドは、モルヒネと働きが似ている。
その為、オピオイドペプチドは、情動の中でも特に快情動に関係していると考えられている。
人間が寝食を忘れて何かに打ち込んでいるとき・あるいは、儲かることは無いと判っていてもギャンブルを止められない時、脳の中では何が起きているのだろう?
そのメカニズムを解明するヒントが、ラットを使った実権から得られている。
☆快感の回路を刺激すると、寝食も忘れる☆
1954年カナダのマックギル大学で、当時博士研究員だったジェームズオールズ大学院生だったピーターミルナーは、不思議な現象を報告している。
オールズとミルナーは、ラットの脳に電極をさして、ラットがレバーを押すとこの電極に電流が流れるという実験を行った。
すると、このラットは、餌を食べることや寝ること・性行動といった本能的な行動も行わずに、へとへとになるまでレバーを押してばかり居るようになったのだ。
このように、自分の脳に電気刺激を好んで与えるようになる現象は、「脳内自己刺激」と呼ばれている。
レバーを押して脳内自己刺激を行うのは、水を飲んだり・餌を食べたりする時と同じように、一種の接近行動だと考えられている。
したがって、脳内自己刺激で受ける電気刺激によって、人間の喜びに相当するような快い感情(快情動)がラットに起きていると考えられている。
ラットの中脳には、腹側被蓋野というニューロンが集まった場所がある。
自然な状態では、「餌を食べた」と言った情報が、腹側被蓋野のニューロンに伝えられると、更にその情報が軸索を伝わって行く。
この軸索は、前脳の側座核というニューロンが集まっている場所まで伸びている。
この軸索末端まで情報が伝わると、神経伝達物質のドーパミンを放出する。
すると、そのドーパミンを側座核のニューロンが受け取り、快感が得られると考えられている。
オールズとミルナーの実験では、電気刺激の情報が腹側被蓋野に伝わり、原腹側被蓋野から側座核へと伸びる軸索を情報が伝わり、側座核で軸索の末端でドーパミンが放出されていたのだ。
実は、人間の脳内にも腹側被蓋野と側座核が有る。
ラットと同じように腹側被蓋野のニューロンの軸索は、側座核まで伸びていて、やはり末端からドーパミンを放出する。
これまで、喜びや幸せな気持ちが起きるときには、人間でもラットの脳内自己刺激と同じように側座核でドーパミンが放出されていると考えられていた
特に、覚醒剤や麻薬を摂取したとき・寝食を忘れて、何かに打ち込んでいるとき・ギャンブルにのめり込んでいる状態では、このドーパミンが沢山放出されていると考えられていた。
しかし、東京精神医学総合研究所の池田和孝博士は、
「腹側被蓋野や側座核は、興奮して活動的になる快情動では、確かに重要です。
しかし、私たちが現在行っている遺伝子を組み替えたマウスの実験結果からは、ゆったりとリラックスする快情動には別のメカニズムがある可能性が示されています。」
と言っている。
脳内の反応は、快感一つをとってもそれ程単純ではないようだ!
お酒を飲むと気持が高ぶるなど、感情に変化が起きる。
20歳を越える多くの人がこのような経験をしたことがあるだろう。
しかし、何故お酒を飲むと感情に変化が起きるのだろう?
10年前までは、アルコールは脳内に広く影響を及ぼすと考えられていた。
特に、アルコールは細胞膜に作用し、神経伝達物質の受容体などが機能しにくくなることが、飲酒で人の感情が変化するメカニズムだと言われていた。
お酒は、ニューロンの表面にあるイオンの通り道に作用する。
しかし、そうではないことが明らかになってきたと池田和孝博士は言う。
「アルコールが高濃度になると細胞膜がひどい状態になります。
しかし、飲酒程度の濃度では、アルコールが特定のタンパク質に作用することが解ってきました。
特に、私たちはアルコールが細胞膜の表面にあるカリウムイオンの通り道となるタンパク質に作用することを発見しました。」
アルコールがニューロンの表面にあるカリウムイオンの通り道に作用すると、カリウムイオンがニューロンの外に出て由紀、そのニューロンから次のニューロンへの情報伝達が抑制されるのだ。
前述のように、腹側被蓋野のニューロンが、側座核でドーパミンを放出することが、快情動を生み出すときに重要だと考えられている。
この腹側被蓋野のニューロンは、むやみやたらにドーパミンを放出しないように、別なニューロンによって抑制されている。
実は、このドーパミンの放出を抑制しているニューロンの細胞膜にカリウムイオンの通り道がある。
アルコールは、このイオンの通り道に作用して、ドーパミンの抑制が効かないようにするらしい。
これが、お酒に酔って快情動が生まれるときの一つのメカニズムだと言われている。
お酒に関して、一つおもしろい研究を紹介しよう!
理化学研究所脳科学総合研究センターの三木宏明博士らは、Fyn遺伝子と感情の関係を調べている。
Fyn遺伝子は、脳内で作用するFynという酵素を作る遺伝子だ。
三木博士によると、マウスのFyn遺伝子が機能しないようにすると、正常なマウスよりも電気ショックなどをより恐れるようになったという。
三木博士は、このFyn遺伝子が機能しないマウス(恐がりマウス)と正常なマウスにアルコールを与えた。
すると、正常なマウスは2・3分ほどで起きあがってくるのに対して、恐がりマウスは起きあがるまでに10分もかかったという。
「これまでお酒に強い・弱いと言うことは、アルコールを分解する肝臓の酵素の働きで説明されていました。
しかし、我々の実験では、どちらのマウスも血中アルコール濃度は同じでした。
ということは、脳内で恐怖や不安と関係しているFynと言う酵素が、お酒の強さ・弱さにも関係していると言うことです。
私たちの実験は、恐がりマウスがお酒に弱いことを示しています。」
☆三木博士談
三木博士によると、FYn遺伝子は人間にもあるので、マウスの場合と同じようにお酒の強い・弱いに関係している可能性があるという。
通常腹側被蓋野ドーパミンニューロンは、腹側被蓋野内にある抑制性のニューロンによって興奮が抑えられている。
抑制性のニューロンは、神経伝達物質のGABAを放出する。
GABAが、ドーパミンニューロンの細胞膜にあるGABA(↓A)チャネルの受容体に結合すると、塩素イオンが流れ込み、ドーパミンニューロンの興奮が抑制される。
しかし、オピオイドペプチドやアルコールが作用すると、この抑制が効かなくなると考えられている。
腹側被蓋野のドーパミンを放出するニューロン(ドーパミンニューロン)は、同じ腹側被蓋野中にあるニューロン(抑制性ニューロン)によって抑制されている。
抑制性ニューロンの表面には、Μオピオイド受容体がある。
オピオイドペプチドやモルヒネがΜおピオイド受容体に結合すると、
@Gタンパク質が活性化される。
A活性化されたGタンパク質は、GIRKチャネルというイオンの通り道を開き、
Bカリウムイオンを細胞の外に放出する。
Cカリウムイオンが放出されると、抑制性ニューロンの興奮が抑制され、
結果的に、腹側被蓋野でのドーパミンの放出が促進されると考えられている。
池田和孝博士らは、アルコールがGIRKチャネルを直接開き、カリウムが細胞の外に放出されることを突き止めた。
いずれの反応に置いても、抑制性ニューロンの作用が抑制され、結果的に腹側被蓋野でのドーパミンの放出が増えると言われている。
このように、抑制が効かなくなることが、お酒やモルヒネによって痛みが和らいだり・快情動が生まれるときの一つの共通したメカニズムだと推測されている。
夏休みも終わりに近付いた8ガツ28日、東京都板橋区に住む小学校4年生のHK君とそのお母さんに話を聞いた。
お母さんによると、HK君は、漢字はなかなか覚えられないが、カードゲームのポケットモンスター(通称ポケモン)のモンスター全251種類の名前は驚くほどよく覚えているという。
HK君に、「どうして漢字が覚えられないの?」と聞くと、「楽しくないから!」と答えた。
大人でも、よく覚えている出来事と・すぐに忘れてしまう出来事とがある。
たとえば、一週間前の昼食に食べたものはおぼえていないかもしれない。
しかし同じ一週間前の昼食でも、とてもおいしい物やまずいものを食べていれば、覚えているかも知れない。
これは、何故だろう?
海馬は、大脳辺縁系の一部で、記憶にとって重要な場所であることが解っている
この海馬へ情報が送られる経路は二つある。
一つは、勘定処理の中枢である扁桃体を経由して海馬へと送られる経路・もう一つは、嗅周囲皮質を通って海馬へ送られる経路だ。
産業技術総合研究所の梶原利一博士・東北大学大学院生命科学研究科の飯島敏夫博士らは、扁桃体と嗅周囲皮質と海馬という三つの場所を含むように工夫した脳のスライス標本を作り、情報がどのように海馬に伝わるかを調べた。
「嗅周囲皮質だけ・もしくは扁桃体だけを刺激したときには、情報が伝達される回路があるにもかかわらず海馬まで情報が伝わりませんでした。
ところが、嗅周囲皮質と扁桃体を同時に刺激すると、情報が海馬に伝わってゆくことが解りました。」
☆飯島博士談
飯島博士らの実験は、電気刺激を感覚情報見立てているので、刺激がどの感覚に相当するのか判らない。
しかし、次のような可能性があるという。
「食事を摂ったときに、比較的直感的な臭いや料理の色・形の情報が扁桃体を経由すると、おいしそうだと言う感情を伴う情報になります。
また、食べ物の詳細な視覚情報や味覚・嗅覚情報が、嗅周囲皮質経由で海馬への神経回路に入ってきます。
この情報は、扁桃体経由の情動的な入力情報に助けられて、海馬へ伝達されやすくなり、おいしい食事を食べたことが記憶に残るのかも知れません。」☆飯島博士談
同様に最初のHK君の例では、好きだという感情を伴うポケモンの情報が、扁桃体から海馬へと送られている可能性があると飯島博士は言っている。
通勤や通学の時に、満員電車や道路の渋滞でいらいらしていないだろうか?
また、会社や学校に着けば、大量の難しい仕事や勉強が待っているかも知れない?
このような不快な感情を伴うストレスも、皆さんの記憶によく残るだろう!
このストレスという言葉は、皆さんもご存じだと思う。
しかし、一般的なストレスの意味と・科学的なストレスの定義は少し違っているようだ。
体には、心拍数を一定に保ったり・血圧を一定に保ったりという、体内の環境を一定に保つ性質(恒常性の維持)が備わっている。
この体内の恒常性に歪みが生じている状態が、科学的なストレスの定義である。
つまり心拍数が増えたり・血圧が上がったりしているときにストレス状態にあるというのだ。
この定義によると、ストレスを引き起こす原因は、最初に揚げた心理的な物とは限らない。
細菌やウイルスに感染しても体内の恒常性に歪みが生じるので、ストレス状態にあるという。
一方、ストレス反応を起こす出来事は、ストレッサーと呼ばれ区別されている。
日本医科大学老人病研究所の今木敏広博士は、ストレス反応には、二つの経路があると説明する。
「ストレス反応には、血液中のホルモンを介して起きる物と・自律神経系という神経の働きによる物とがあります。」
感覚情報は大脳皮質で処理されると、扁桃体を経由して視床下部へと伝えられると言われている。
扁桃体で感覚情報がすとレッサーだと判断された場合、その情報が視床下部に伝えられると、視床下部が自律神経系を活性化したり・ホルモンを出すように指令を出したりする。
つまり視床下部は、ストレス反応の司令塔として機能しているのだ。
ストレス反応に関わっているホルモンは、ストレスホルモンと呼ばれる。ストレスホルモンの一つであるグルココルチコイドが、肝臓や筋肉に作用すると、活動するときのエネルギーとなる糖が血液中に増えて、闘ったり・逃げたりするための準備が整う。
自律神経系が活性化されると、心臓や血管に作用して、心拍数が増えてドキドキしたり・血管が収縮してけつ圧が上がったりする。
また、自律神経は、胃腸の働きも調節していて、胃腸に流れる血液の量を減らしたり・動きを悪くしたりする。
その結果、食欲が無くなったり・胃液の分泌が増えてひどいときには胃潰瘍になることもある。
@視床下部の室傍核と言うニューロンが集まった場所へ伝えられると、室傍核のニューロンはCRH(副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン)と言うホルモンを血液中に放出する。
ACRHが、脳下垂体前葉に流れ着くと脳下垂体前葉の細胞はACTH(副腎皮質刺激ホルモン)と言うホルモンを血液中に放出する。
BACTHは、全身を駆けめぐり・最終的には副腎皮質にたどり着く。
CACTHが副腎皮質の細胞の受容体に結合すると、副腎皮質からグルココルチコイドというホルモンが放出される。
Dグルココルチコイドは、肝臓や筋肉に作用して血液中に糖が増える。
このホルモンを介したストレス反応は、あまり自覚されることはないが、グルココルチコイドが無いと人は生きてゆくことができない。
室傍核のニューロンは、自律神経系を介して心臓や血管の働きを調節している。
自律神経系のニューロンが活性化されると、神経の末端から血液中にノルアドレナリンが放出され、心臓や血管に作用する。
その結果、心拍数が増えたり・血管が収縮して血圧が上がったりする。
また、胃や腸などの消化管も自律神経に支配されている。
ノルアドレナリンが放出されると、胃腸に流れる血液の量が減ったり・胃腸の動きが悪くなったりするので、食欲が無くなる。
胃腸に流れる血流を減らすのは、筋肉に流れる血流を増やして、闘ったり・逃げたりするための準備をするためである。
自律神経は、腎臓の上にある副腎髄質も調節している。
副腎髄質からアドレナリンが放出されると、心臓や血管・胃腸に作用し、やはり心拍数や血圧が上がったり・胃腸の働きが悪くなったりする。
自律神経を介したストレス反応は、心臓がどきどきするなどを初め、どれも自覚されやすい反応である。
阪神淡路大震災のような自然災害や・地下鉄サリン事件などの事件に巻き込まれて命が危機に曝されると、神経系が強く活性化されたり・ストレスホルモンが沢山出たりして、強いストレス状態に陥る。
また、交通事故や・暴力事件などでも、強いストレス状態に陥る。
このような災害や事件・自己などを経験した人がかかる精神疾患にPTSD(心的外傷後ストレス障害)がある。
強いストレス状態を経験すると、まず急性ストレス状態が現れる。
急性ストレス状態には、災害や事件の時の状況が突然思い出される)再体験症状()・寝付きが悪くなる(過覚醒症状)・その場所に近付きたくない(回避症状)等がある。
「急性ストレス症状は、普通1ヶ月ほどで落ち着いてきます。
しかし、再体験症状・過覚醒症状・回避症状の三つの症状が1ヶ月以上続くこともあります。
これがPTSDです。」
と、東京都精神医学総合研究所の飛鳥井望博士は語っています。
PTSDは、この三つの症状から診断される?!
しかし、そこに問題点がある?!と言う東京大学大学院医学系研究科の加藤信正博士は言う、
「精神疾患一般について言えることですが、臨床症状から疾患を診断するので、主観的な要素を完全に排除できません。
そこで、MRIやF−MRIで脳の変化を調べて、客観的な診断基準を作る必要があります。」
PTSDになるような強いストレスでは、ストレスホルモンのグルココルチコイドが増えてなかなか下がらない場合がある。
すると、グルココルチコイドが海馬に作用して、海馬の体積を縮小させると言われている。
そこで、PTSDの診断と治療に役立てようと、世界的に海馬の変化が調べられている。
国立がんセンター研究所司書精神資料学研究部の内外海洋介博士もその一人だ。
癌の治療の過程でも、PTSDになることがある。
内外海博士によると、
「癌の治療では、健康診断で癌が疑われたので検査を受けてください・検査の結果あなたは癌でした・治療がうまくいっていません・・・といった悪い告知が続きます。
その過程でPTSDの症状が出る人が居ます。」と言う。
現在日本では、毎年約43万人が新たに癌になる。
その6割が亡くなり・4割が助かる。
しかし、この助かった4割の人の多くが、恐怖体験に苦しめられていると内外海博士は言う。
そこで内外海博士は、治療後3年以上経過した乳ガンの患者を対象にPTSDの調査を行った。
これまでの報告によると、今現在もPTSDが1.9〜6%・癌告知から現在までにPTSDにかかったことのある人は3〜22%だったという。
しかし、「死んでしまうのではないか?と突然頭に浮かんでくるなど、PTSD再体験症状を経験した人は42%にも及びました。」
☆☆内外海博士談
このように、PTSDの一部の症状だけが現れる場合は、部分PTSDと言われる。
内外海博士は、部分PTSDを経験した乳ガンの患者とPTSDの症状が見られなかった乳ガンの患者の海馬の体積を比較した。
その結果、PTSDの再体験症状を経験した人の海馬体積の平均が経験しなかった人より小さいという結果が得られたという。
今回の内外海博士の研究は、癌患者だけを対象にした物である。
今後健常者と比較して海馬の体積に明らかな差が有れば、PTSDの診断と治療に応用されるという。
※武蔵野女子大式PTSD症状 Checklist for victimsをを一部改変。
※「当てはまる項目の数を数えて大凡20以上の項目に当てはまる場合には、病院で診察することをお薦めします。
ただし、これで診断できるわけではありません。」と飛鳥井博士は言う。
生まれたばかりの赤ちゃんは、泣いて母親を求めることしかできない。
しかし数ヶ月たつと、微笑むようになったり・目を合わせるようになる。
これらの行動は、生まれながらに備わっている物で、子供に対する母親の愛着を引き出す本能だろうと考えられている。
この時期に、泣いても母親が母乳をあげなかったり・怒ったりすると、他者への信頼感や自信が育ちにくいと精神医学では考えられてきた。
特に、生まれて6ヶ月までは非常に大事な時期だと言われている。
この養育期に、母親の愛情を受けられないことは、子供にとって最大のストレスになると考えられている。
山梨大学医学部の神庭重信博士が、養育環境が脳に与える長期的な影響を調べている。
強いストレスを受けた全員が、PTSDになるわけではなく、PTSDになりやすい人となりにくい人がいる。
そこで、PTSDになった人を調べてみると、養育期に虐待などを受けた人が多いことが知られているからだ。
子供が、母親の愛情を受けられなかったり・虐待を受けたりすると、大人のストレス反応と同じようにストレスホルモンのグルココルチコイドが増える。
このストレス反応が、子供の脳に与える影響を調べるために、神庭博士らはラットを使って実験を行った。
神庭博士は、母親の愛情を受けて育てられたラットと、親から引き離されたラットの海馬を比較した。
その結果、成熟後にストレスを受けた際に、親から引き離されたラットの方が、海馬で新しく生まれるニューロンの数が少ないことが解ったと言う。
これは、養育期に受けたストレスによって、成熟後の海馬で新製するニューロンの数が減少し、海馬が縮小する可能性を示している。
また、ストレス反応によって血中のグルココルチコイドが増えると、海馬にあるグルココルチコイド受容体がそれを感じ取り、グルココルチコイドを減らすように視床下部に指令を出すと考えられている。
しかし、グルココルチコイドが増えすぎると、受容体が減ってしまい、グルココルチコイドの抑制が聞き難くなることが解っている。
「これらの結果から、養育期に極度に強いストレスを受けると、海馬がストレスで萎縮しやすく、PTSDにかかりやすくなる可能性があります。」と神庭博士は語っている。
PTSDの治療法として効果が証明された物に「認知行動療法」がある。
PTSDの患者は、原因となった出来事を思い出すと、非常に不快な気持になったり・手に汗をかいたりする。
その為、PTSDの原因となった出来事を思い出さないようになる。
しかし、その記憶をあえて思い出し、不快な気持に慣れるのが、認知行動療法だ。
認知行動療法に効果があることは、PTSDの原因として、次のような可能性を示している。
「事件や事故に遭うと、最初は大きな出来事としてとらえられますが、次第に新しい記憶によって出来事のイメージが塗り替えられ、精神的反応も和らいでゆきます。
しかしPTSDでは、このメカニズムに傷害がある可能性があります。
具体的には、海馬や扁桃体を含む情動の記憶を司る神経ネットワークの異常による物と考えられます。
☆飛鳥井博士談
つまり、PTSDでは、海馬や扁桃体に異常があるために、いやな思い出が忘れられなくなっている可能性があるのだ。
強いストレスを受けて急性ストレス反応が起きているときには、ストレスホルモンであるグルココルチコイドが増えている。
しかし、強いストレスを受けた出来事から1ヶ月以上が経過し、PTSDと診断されるようになると、逆にグルココルチコイドが減っていることが解っている。
京都府立医科大学第一解剖学教室の川田光弘博士は、このようなグルココルチコイドの変化が海馬に与える影響を調べるために、ラットを使って実験を行った。
「副腎を取ってしまって、グルココルチコイドが無い状態にすると、ラットの海馬のニューロンの樹状突起が縮小することが解りました。
また、同じニューロンにグルココルチコイドを与えると、再び樹状突起が伸びてゆくことも解りました。
☆川田博士談
樹状突起は、軸索の末端が、シナプスを作る場所である。
海馬の樹状突起が短くなると、受け手が無くなってしまうために、その領域に伸びていたニューロンが何処へ繋がったらよいのか?判らなくなってしまう。
すると、海馬と視床下部・海馬と扁桃体・海馬と大脳皮質といったニューロンのつながりが失われ、海馬の記憶機能が損なわれる可能性がある。
実際のPTSDの患者の海馬を調べた研究は無い。
「しかし、このような仕組みが、PTSDでいやな思い出を忘れられないメカニズムだと考えられます。」と川田博士は言っている。
@副腎皮質から放出されたグルココルチコイドは、ステロイド結合タンパク質と結びついて、血液中を流れている。
A海馬の近くまで来ると分離し、グルココルチコイドは細胞膜を通り抜けて海馬のニューロンの中に入る。
Bグルココルチコイドは、細胞質で待ち構えていたグルココルチコイド受容体と結合し、核の中に入る。
Cすると、DNAに作用し、転写が開始される。
その結果、どのようなタンパク質が作られるかは、今のところ解っていない。
しかし、「グルココルチコイドが無い状態では、ニューロンの樹状突起が縮小し、このニューロンにグルココルチコイドを投与すると、また樹状突起が伸びることから、細胞骨格や情報伝達に関わるようなタンパク質が作られていると考えられます。」と川田博士は言う。
@副腎皮質から放出されたグルココルチコイドは、ステロイド結合タンパク質と結合して血液中を流れていく。
Aグルココルチコイドは、海馬の近くまで来るとステロイド結合タンパク質と離れ、細胞膜を通り抜けて細胞室内に入る。
Bグルココルチコイドと細胞室内で待ち構えていたグルココルチコイド受容体が結合し、核の中に入ってゆく。
Cグルココルチコイド受容体と結合したグルココルチコイドが、核内で更に協約因子と結合すると、DNAの二重螺旋を切り離し、転写を促す。
※協約因子=遺伝子の発現を調節する転写因子。この場合は、グルココルチコイドと結合したグルココルチコイド受容体を活性化する。
D転写が促されてできたmRNA(メッセンジャーRNA)が、核内から細胞質に出てくる。
EそのmRNAの情報を元にリボゾームでタンパク質が作られる。
いったん縮んだ樹状突起を元に戻すための方法、つまりPTSDの治療法については今のところ解っていない!
しかし、川田博士らが行った基礎実験は、PTSDの治療法開発のための土台になると考えられている。
また、アメリカのロバートサプロスキー博士は、グルココルチコイドが非常に多くなると、ニューロンが形を変えるだけではなく、萎縮していって、最後は死んでしまうことを突き止めている。
更に、通常のストレスで出るグルココルチコイドの濃度でも、その状態が長期間続くとニューロンが死んでゆくことも解っている。
これらの実験結果は、PTSDになるような非常に強いストレスに曝されたり・通常のストレスでも長期間曝された場合、海馬が萎縮することを細胞レベルの実験で示した物である。
理化学研究所脳科学総合研究センターの加藤忠史博士は、精神疾患は身近な病気だという。
「女性では4・5人、男性ではその約半数の人が、一生に一度は鬱病にかかると言われています。
また、双極性傷害(躁鬱病)は、100にんに1人がかかる病気です。
つまり精神疾患は、友人や知人の中で1人や2人は発病する身近な病気なのです。」
鬱病と双極性傷害は、共に症状として鬱状態が見られるが、別な病気だと考えられている。
鬱状態とは、何とも言えないいやな気分が一日中続いたり・何事にも興味を持てなくなったりした状態だ。
双極性傷害では、鬱状態に加えて躁状態が見られる。
躁状態では、人と関わり合いたいという欲求が非常に強くなる。
しかし、他人の迷惑を顧みず、周りの人に非常に負担をかけたり・気が大きくなって借金を作ったりする。
鬱病と双極性傷害では、鬱状態と躁状態という気分の異常が見られるので、精神疾患の中でも「気分障害」と言われている。
通常は、ストレス状態になって体の中の恒常性が乱れても、自然に元に戻る。
しかし、鬱病はそうした自然治癒力を越えて悪くなっていて、自分の力では治らなくなる病気だ。
鬱病では、心の症状が出るので、気分転換などを図って、気持で乗り越えようと考えがちだ。
しかし、「鬱病は、薬で治療する必要がある。」と加藤忠史博士は言う。
「鬱病では、脳の中野物質のバランスが崩れているので、薬を飲まないとなかなか治りません。
つまり、鬱病は心の症状が出ますが、脳の病気だと言うことです。」
現在の科学を持ってしても、鬱病や双極性傷害の原因はほとんど解っていない。
しかし、加藤忠史博士は、双極性障害の原因を解明する手がかりが、双極性障害の特効薬「リチウム」にあるという。
「リチウムは、神経伝達物質のセロトニンが、細胞膜の受容体に結合した後に引き起こされるニューロン内の化学的変化を止める働きがあります。
そこで、現在世界中で細胞内の問題のある場所を突き止める研究が行われています。」
細胞の中で起きる変化には、セロトニンの受容体・小胞体・ミトコンドリアなどの細胞内小器官に加え、様々な酵素が複雑に絡み合っている。
しかし、どれが本当の原因なのかが解らないのが現状だ。
@シナプス前ニューロンからセロトニンが放出され、シナプス後ニューロンの受容体に結合すると、
AGタンパク質が活性化される。
B活性化されたタンパク質は、更にTLCという酵素を活性化する。
C活性化されたTLCは、細胞膜内にあるPIT2という物質を分解し、IP3という物質が、細胞室内に流れ出してくる。
DIP3が小胞体のIP3受容体に結合すると、
E小胞体は、カルシウムイオンを放出し、
Fミトコンドリアが、カルシウムイオンを受け取る。
小胞体の中野カルシウムイオンが空になると、ニューロンの外からカルシウムイオンが入ってくる。
このような反応は、正常な人でも双極性障害(躁鬱病)の人でも起きているが、双極性障害では、ニューロン内のカルシウムイオンの濃度が高くなっている。
@神経の末端から放出されたセロトニンが、細胞膜にあるセロトニン受容体と結合する。
A細胞内では、Gタンパク質が活性化される。
B活性化されたGタンパク質が、更にPLCという酵素を活性化する。
C活性化されたPLCが、細胞膜の中にあるPIT2という分子を分解すると、IP3という分子が細胞室内に流れ出してくる。
※ここにリチウム(IMPA2という細胞内のシグナル伝達に関わっている酵素の作用を妨げる抗鬱薬)を投与する。
Dリチウムの作用を受けないIP3は、小胞体の表面にあるIP3受容体に結合する。
※もう一方、リチウムの作用を受けたIP3は、イノシトールとなり→IPとなり→
EIP3は、様々な酵素の働きで、再びPIT2となり細胞膜の中に戻ってゆく。
IP3という物質が細胞室内に流れ出すと、様々な酵素の働きで化学変化が起きて、再び細胞膜の中に戻ってゆく。
この家庭で働く酵素の一つに、IMPA2がある。
双極性障害で使われる薬の一つであるリチウムは、IMPA2の働きを妨げる。
Fカルシウムイオンが小胞体から放出される。
Gミトコンドリアが小胞体から放出されたカルシウムイオンを吸収する。
H小胞体のなかのカルシウムイオンが空になると、ニューロンの外からカルシウムイオンが流入する。
ここに掲載したチェックリストは、アメリカのウイリアムツング博士が開発した、抑鬱状態を評価する自己チェックリストである。
各項目の合計点で、抑鬱状態を評価する。
日本人での調査によると、正常な人の平均点は36点・神経症(軽症鬱病)の人の平均は45.3点・鬱病の人の平均点は57.5点であった。
理化学研究所脳科学総合研究センターの吉川竹を博士は、「このチェックリストは、鬱病を診断する物ではありません。45点以上の人は、専門機関で診察を受けることをお薦めします。」と言っています。
番号 | 質問項目 | 評価尺度 | |||
---|---|---|---|---|---|
無い・たまに> | 時々 | かなりの間だ | ほとんどいつも | ||
01 | 気分が沈んで憂鬱だ | 1 | 2 | 3 | 4 |
02 | 朝方は一番気分がよい | 4 | 3 | 2 | 1 |
03 | 泣いたり・泣きたくなる | 1 | 2 | 3 | 4 |
04 | 夜よく眠れない | 1 | 2 | 3 | 4 |
05 | 食欲は普通だ | 4 | 3 | 2 | 1 |
06 | まだ性欲がある | 4 | 3 | 2 | 1 |
07 | 痩せてきたことに気が付く | 1 | 2 | 3 | 4 |
08 | 便秘している | 1 | 2 | 3 | 4 |
09 | 普段よりも動悸がする | 1 | 2 | 3 | 4 |
10 | 何となく疲れる | 1 | 2 | 3 | 4 |
11 | 気持はいつもさっぱりしている | 4 | 3 | 2 | 1 |
12 | いつもと変わりなく仕事がやれる | 4 | 3 | 2 | 1 |
13 | 落ち着かず・じっとしていられない | 1 | 2 | 3 | 4 |
14 | 招来に希望がある | 4 | 3 | 2 | 1 |
15 | いつもよりいらいらする | 1 | 2 | 3 | 4 |
16 | たやすく決断できる | 4 | 3 | 2 | 1 |
17 | 役に立つ・働ける人間だと思う | 4 | 3 | 2 | 1 |
18 | 生活はかなり充実している | 4 | 3 | 2 | 1 |
19 | 自分が死んだ方が他の者は楽に暮らせると思う | 1 | 2 | 3 | 4 |
20 | 日頃していることに満足している | 4 | 3 | 2 | 1 |
統合失調症(かつては精神分裂症と呼ばれていた)も躁鬱病と同様に100人に1人がかかる心の病気だ。
統合失調症の特徴的な症状には、幻聴・幻覚(実際には人は居ないのに、自分に命令する声が聞こえて、それに従ってしまう)と被害妄想(実際には何も起きていないのに、周りの人が自分を迫害したり・いじめたりすると思いこむ)がある。
統合失調症は、遺伝的素質を持っている人が、ストレス状態を経験すると発病すると言われている。
しかし、脳や遺伝子にどのような異常があると発病するのかは、解明されていない。
統合失調症も鬱病や躁鬱病と同じように、薬物が効果を現すメカニズムから、いくつかの仮説が出されている。
その中にドーパミン仮説がある。
統合失調症に効果のある薬のほとんどは、神経伝達物質のドーパミンが受容体に結合するのを妨げる。
また、覚醒剤では、幻覚や妄想などの統合失調症に似た症状が出る。
そこで、覚醒剤が効く仕組みを調べた結果、ドーパミンの作用が強くなっていることが解っている。
これらのことから、ドーパミンが統合失調症に関係していると言われている。
しかし、理化学研究所脳科学総合研究センターの吉川武雄博士は、ドーパミンも一つの候補に過ぎないと言う。
「統合失調症の原因には、ドーパミン神経経路など、いくつかの候補が考えられています。
しかし、どれ一つをとっても統合失調症を引き起こす強い異常ではないと言われています。
このような効果の弱い沢山の異常が集まって、統合失調症が発症するというのが現在の考え方です。」
このような沢山の原因が集まって発症する病気は、「多因子疾患」と呼ばれる。
鬱病や躁鬱病も多因子疾患と考えられている。
統合失調症の原因には、遺伝的にも・環境的にも沢山の要因があると考えられている。
そこで、統合失調症に関係する遺伝子がある染色体の場所が、世界中で調べられている。
吉川博士らのグループも現在、日本人の統合失調症の家系で、染色体の何処に原因となる遺伝子があるかを調べている最中だ。
これまでに世界中で行われた研究から、統合失調症では、染色体の6番・8番・22番などに、躁鬱病では染色体4番・18番・22番などに病気と関係している遺伝子がある可能性が高いという結果が得られている。
DNAの塩基配列の中には、「CACACA・・・」というCAの繰り返しなど、2〜4塩基の繰り返し配列がある。
この繰り返しの長さは、親から子へ遺伝する。
しかし、個人によって繰り返しの回数が異なるので、個人を識別する標識(マーカー)としてDNA鑑定などに使われている。
このようなマーカーが、精神疾患の家系でどのような伝わり方をするのかを調べ、染色体上のどのマーカーの近くに病気に関係する遺伝子があるのかをしらべるのが、「連鎖解析」という方法である。
病気の父親が8回のCAの繰り返しを持ち、病気でない母親は11回だとする。
この両親から2人の子供が生まれたとすると、8回の繰り返しを持つ確率と・11回を持つ確率は、それぞれ1/2である。
しかし、子供が2人共8回のCAの繰り返しを持ち・しかも病気だったとすると、この8回の繰り返しの近くに病気の遺伝子がある可能性がある。
連鎖解析では、病気の家系を沢山集めて、どの染色体にある確率が高いかを調べる。
記号 | 意味 |
---|---|
● | 双極性傷害(躁鬱病)に関係している遺伝子があると考えられている場所 |
○ | 統合失調症に関係している遺伝子があると考えられている場所 |
★ | 双極性障害(躁鬱病)に関係していると考えられる遺伝子 |
☆ | 統合失調症に関係していると考えられている遺伝子 |
染色体番号 | 場所 | 遺伝子 | |
---|---|---|---|
第1番染色体 | 上 | ||
下 | ☆ | hSKCa3/KCNN3 DISC1 | |
第2番染色体 | 上 | ||
下 | ● | ||
第3番染色体 | 上 | ○● | |
下 | ☆ | DRD3 | |
第4番染色体 | 上 | ● | |
下 | ● | ||
第5番染色体 | 上 | ○ | |
下 | ○●● | ||
第6番染色体 | 上 | ○☆ | DTNBP1 NOTCH4 |
下 | ● | ||
第7番染色体 | 上 | ● | |
下 | ●● | ||
第8番染色体 | 上 | ○●☆ | NRG1 |
下 | ● | ||
第9番染色体 | 上 | ||
下 | ● | ||
第10番染色体 | 上 | ○● | |
下 | ●● | ||
第11番染色体 | 上 | ★ | BDNF |
下 | ●☆ | DRD2 | |
第12番染色体 | 上 | ||
下 | |||
第13番染色体 | 上 | ||
下 | ●●○☆ | HTR2A | |
第14番染色体 | 上 | ||
下 | |||
第15番染色体 | 上 | ||
下 | ○● | ||
第16番染色体 | 上 | ●● | |
下 | ● | ||
第17番染色体 | 上 | ● | |
下 | ★ | SLC6A4 | |
第18番染色体 | 上 | ●☆★ | IMPA2.GNAL |
下 | ● | ||
第19番染色体 | 上 | ||
下 | |||
第20番染色体 | 上 | ||
下 | ● | ||
第21番染色体 | 上 | ||
下 | ● | ||
第22番染色体 | 上 | ||
下 | ○●☆★ | COMT | |
第X番染色体 | 上 | ○★ | MAOA |
下 | ● |
ドイツの心理学者エルンストクレッチメルは、性格や体格と精神疾患に関係有ると言う説を唱えた。
クレッチメルによれば…鬱病には、肥満で執着気質の人が多く・統合失調症では、痩せ形で分裂病気質の人が多いと言う。
執着性気質とは、非常に几帳面で・責任感の強い性格のことだ。
一方、分裂病気質とは、人付き合いが悪い・無愛想・孤独が好きと言った性格だ。
理化学研究所の吉川竹を博士によると、「現在でも多くの精神科医は、鬱病と性格が結びついていると考えています。」と言う。
このような個性は、成長の過程で経験したこと(環境要因)と遺伝子の両方が複雑に影響し合っていると考えられてきた。
しかし、時に遺伝子が非常に大きな影響を及ぼすことが解ってきた。
1993年オランダの遺伝学者ハンブルーナー博士は、「攻撃性と遺伝子に関係が有ると突き止めた」と、アメリカの科学雑誌「Science」で報告した。
ブルーナー博士らは、オランダで放火やレイプ・露出癖といった非常に衝動的な行動や・攻撃的な行動を取る人が多い家系を発見した。
ブルーナー博士らが、その家系の遺伝子を調べてみると、MAOA(モノアミン酸化酵素A)という酵素を作る遺伝子に異常があり、MAOAが全く作られないことが解った。
MAOAは、セロトニンやドーパミンなどのモノアミンという種類の神経伝達物質を酸化し、機能しないようにする酵素である。
ブルーナー博士らは、このオランダの家系の中で、MAOAが作られない男性全員が反社会的な行動を起こしていることから、MAOAが攻撃性と強く関わっていると結論付けたのだ。
MAOA以外にも性格と関係有ると考えられる遺伝子の個人差がいくつか発見されている。
セロトニンをニューロン内に再取り込みするセロトニントランスポーターの遺伝子が、不安と関係しているという研究や・ドーパミンの受容体の遺伝子と新しい物好きな性格が関係しているといった研究が「Science」誌などに発表されている。
ただし、「このような結果を考えるときには、注意が必要だ!」と、理化学研究所脳科学総合研究センターの山田一男博士は言っている。
「何人かの日本人研究者が行った研究の結果、日本人は96%が不安の強いタイプのセロトニントランスポーター遺伝子を持っていることが解りました。
しかし、実際には不安を感じやすい人も・感じにくい人も居ます。
また、パーソナリティーと遺伝子の研究に置いては、同じ遺伝子の研究を行っても、関係があるという結果と関係がないと言う両方の結果が出ることがあります。」
MAOAのように遺伝子が全く機能しなくなると、大きな影響が出ることは確かだと言われている。
しかし、個人差程度の遺伝子の違いと性格が関係しているかどうかは、まだ解ってはいないというのが現状のようだ。
プロモーターは、遺伝子の転写を調節するDNAの領域である。
セロトニントランスポーター遺伝子のプロモーターには、長いタイプと短いタイプがある。
短いタイプの人では、不安を感じやすいと言われている。
現在では、プロモーターではなく、セロトニントランスポーター遺伝子自体の違いも不安に関係している可能性が指摘されている。
MAOA(モノアミン酸化酵素A)は、セロトニンやドーパミンなどのモノアミンを酸化する酵素である。
セロトニンの場合を例に取ると・・・
セロトニンは、トリプトファンと言うアミノ酸を材料として作られる。
トリプトファンは、酵素の働きでゴヒドロキシトリプトファン→セロトニンと変化する。
セロトニンにMAOAが作用すると、ゴヒドロキシンドールアセトアルデヒドになり、神経伝達物質としての活性を失ってニューロンの外に排出される。
このMAOAが無いと、攻撃的になると考えられている。
今回のYCCトピックスでは、感情が記憶などの脳機能に影響を与えることや、ストレスとして体にも影響を及ぼすことを見てきた。
現在の感情の研究と今後の課題について、今回記事を監修していただいた理化学研究所脳科学総合研究センター所長の伊藤政夫博士に伺った。
YCC:「これまで情動の研究は、どのように進んできたのでしょうか?」
伊藤:「第二次世界大戦前には、脳の何処が壊れたときに機能が失われるかを調べる破壊実験が行われました。
たとえば、1927年から28年にかけてアメリカの生理学者ウォルターキャノンらは、動物の脳を大きく破壊しても視床下部さえ残っていれば、怒りを表すことができることを見いだしました。
戦後は、脳の中を電気刺激して、どこからどのような情動反応が起きるかが調べられました。
最近1980年を過ぎた頃からは、分子生物学的な研究に移ってきました。」
YCC:「脳の中の場所だけでなく、様々な物質が脳の活動に関わっていることが解ってきたのですね!」
伊藤:「伝達物質やホルモンなどは、ニューロンとニューロンの間だのシナプスで働いて、細胞間のシグナル伝達を行っています。
このことは比較的早くから知られていました。
セロトニンやドーパミン・ノルアドレナリンなどのカテコールアミンという物質は、情動と特に関係が有ることが現在までに解っています。
今非常に注目されていて、重点的に研究が行われているのは、細胞の中のシグナル伝達を操る遺伝子機構です。
細胞の表面にある受容体が刺激された後、細胞の中に一連の化学変化が起きる家庭は、細胞内シグナル伝達と呼ばれます。
細胞内シグナル伝達の解析が、最近大変進歩しました。
YCC:「今回の記事では、主に感情(情動)と感情の病気を取り上げました。
しかし、人間の心には、感情以外にも様々な側面があると思います。
脳科学では、心をどのように捕らえているのでしょう?」
伊藤:「知・情・意という言葉があります。
この言葉は、とてもよく人間の心を表していると思います。
知は、知識の知です。
情は、感情の情ですが、自分にとって良いものか・悪いものかという情報の意味や・価値も含まれています。
知は、情報を処理するだけですが、情は、処理された情報に価値を与えるという面があります。
意は、意識の意です。
意は、知や情とは全く異なっていて、知や情に働きかける主体的なものです。」
YCC:「知・情・意は、それぞれ脳の中ではどのように処理されているのですか?」
伊藤:「脳の中では、知・情・意を司る場所が違います。
知は、大脳の後半部・情は、大脳辺縁系・意は、前頭葉と、脳の中で割り振られています。
つまり、脳という一つのものの働きを、別の三つの方向から見ているわけではなく、脳そのものが知・情・意という三つの要素を持っています。」
YCC:「知・情・意は、大脳の機能と言うことですね?
脳には、脳幹や小脳なども有りますが、これらはどのような働きをしているのでしょうか?」
伊藤:「脳全体は、階層的に作られています。
下等な動物から高等な動物へ進化する中で、次第に積み上げられてきました。
脊椎動物で考えると、最初に脊髄があり、その上に脳幹(延髄・中脳・橋)と間脳が現れ、更に小脳や大脳基底核・大脳辺縁系が付け加えられてゆきます。
魚類と両生類とは虫類までは、脊髄と脳幹だけで歩くことや走ること、そして餌を食べることもできます。
しかし、これらの行動は、機械的に行われていて、ロボットのようなものです。」
YCC:「小脳と大脳基底核は、どのような働きをしているのでしょうか?」
伊藤:「小脳は、外の世界が変化すると、脳幹や脊髄の働きを少し変えます。
大脳基底核は、視覚や嗅覚など様々な刺激を受けて、同時に起きている脳幹や脊髄の働きを整理して、状況に合わせて最も適切な行動を取るように調節していると考えられています。」
YCC:「更に、大脳辺縁系が加わるとどのように変化するのでしょうか?」
伊藤:「大脳基底核によって調節された後で、実際に行われた行動が、理に叶っているかを大脳辺縁系がチェックしています。
つまり、動物が生存して子孫を残してゆくという、動物にとっての至上命題に叶っているかどうかを判断して、脳幹や脊髄の働きを変えてゆき、脳幹と脊髄と小脳・大脳基底核・大脳辺縁系を組み合わせると、は虫類までの行動は全て説明できます。」
YCC:「哺乳類の脳では、どのような特徴が付け加わるのでしょうか?」
伊藤:「哺乳類になると、大脳の皮質が出てきます。
進化的に古い哺乳類である、鼠の大脳皮質は受けた刺激を詳細に分析する感覚皮質と・感覚情報を受けて巧妙な運動を行う運動野が発達しています。
霊長類になると、更に大きくなってきて、脳の前の方に前頭連合野・後ろの方に側頭頭頂連合やが発達してきます。」
YCC:「連合野は、感覚や運動といった特定の機能を担っていない場所ですね?
連合野はどのような働きをするのでしょうか?」
伊藤:「後ろの側頭頭頂連合野は、感覚野からの情報を集めて外界の内部モデルを作ります。
前頭葉の連合野が指令を送ってその内部モデルを動かすことが、ものを考えると言うことです。
それまで、側頭葉・頭頂葉の感覚野から側頭葉の運動野へ情報が伝わっていたのが、今述べたように脳の前から後ろへ指令が伝わるようになります。
脳の階層構造が発達する段階を追って、脳の働きが代わってゆきます。」
YCC:「情動には、大脳辺縁系が大きな役割を果たしていると言われていますが、進化の過程では大脳辺縁系はどのように変化してきたのでしょうか?」
伊藤:「色々な種類の猿から人間までの霊長類の脳の変化を調べた研究があります。
その研究によると、大脳辺縁系の容積は、あまり変わりません。
ところが、大脳皮質の容積は、大きく変化します。
情を司る根底の機能は、代わっておらず、知識の方がドンドン代わって来ていると言うことだと思います。」
YCC:「と言うことは、感情を考える場合、人間も動物もあまり変わらないと言うことでしょうか?」
伊藤:「喜怒哀楽と言うことを考えると、人間でも動物でもあまり変わっていないと思います。
人間の脳の大きさを今の進化の方向に沿って仮に倍に大きくした場合、大脳辺縁系はほぼ同じ大きさで、大脳皮質だけが大きくなるので、とても利口な人間ができるかも知れません。
しかし、大脳辺縁系が発達しないので、道徳や倫理と言った価値の問題は進歩せず、悪の帝国を作るだけという可能性も考えられない事もありません。
大脳辺縁系も一緒に大きくなれば、良い社会ができるかも知れません。」
YCC:「大脳辺縁系の中でも、特に扁桃体は快不快の判断を行う重要な場所だと言われていますね?」
伊藤:「ウサギの脳では、大脳辺縁系が占める割合が非常に大きくなっていて、臭いをかぐとそのまま扁桃体に入ってきます。
しかし、人の場合には、様々な刺激が大脳で処理された後で、扁桃体に入ってきます。
その為、大脳と扁桃体とどちらが重要なのかと言うことが、議論になります。
私の推測では、これはよい刺激なので知かずけ!悪い刺激なので逃げろ!という価値判断の最後の決定を下すのが、扁桃体ではないかと思います。」
YCC:「扁桃体が壊れると、人間でも感情が乱れるそうですね?」
伊藤:「両側の扁桃体が損傷した患者さんは、ギャンブルで賭けることができません。
つまり、決断することができなくなります。
ここに賭ければ儲かると予想しても、それに賭ける決断が着かなくなります。
4や5といった数字の情報は処理していますが、どちらを取るかという決断が着きません。」
YCC:「人では、情動以外でも人間独特の感情が有ります。
このような感情の処理にも大脳辺縁系が関わっているのでしょうか?」
伊藤:「人間の場合には、生物学的な価値から離れて、社会的な価値や文化的な価値に基づいて行動を決める事が多くなります。
多少痛かったり・苦しかったりしても、重要なことで有れば行動を起こします。
極端な場合には、宗教の殉教者のように命をかけて行動するという宗教的な価値もあります。
このような場合には、大脳しかも連合野の働きだと考えられます。
そういう意味では、人間の情は、大脳を広く巻き込んで処理されていると思われます。
しかし、非常に重要な鍵になっているのは、脊椎動物に共通している扁桃体だと思います。」
YCC:「心については、心理学的なアプローチも有ります。
心理学では、心をどのように捕らえているのですか?」
伊藤:「精神分析学を創始したドイツのジークムントフロイトは、人間の心が三段階になっていると考えました。
最も下にあるのは、イドです。イドは、非常に本能的で、快楽を追求する部分です。
その上にエゴがあります。
エゴは、社会性を持つ部分で、外界と仲良くつき合ってゆく部分です。
そして一番上にあるのが、スーパーエゴで、宗教的規範などからイドやエゴを抑えています。」
YCC:「フロイトの説は、脳科学的にはどのように解釈されるのでしょうか?」
伊藤:「フロイトが言うイドは、知・情・意でいけば情の部分で、扁桃体の働きです。
本来は、非常に本能的で、衝動的なものです。
良いものが有れば飛びつき・いやなものが有れば飛んで逃げるという原始的な動物の行動を引き起こすものです。
この大脳辺縁系の働き(イド)を、前頭葉(エゴ・スーパーエゴ)が、社会的・文化的な基準を参照しながら抑えています。
ところが、前頭葉がうまく働かないとイドが爆発してしまいます。
それが切れるという現象だと思います。
F−MRIなどを使った研究から、このような情動をコントロールする大脳の機構が、次第に解ってきています。」
YCC:「今回は、精神疾患としてPTSDと躁鬱病・鬱病・統合失調症を取り上げました。
これ以外で、注目されている精神疾患には、どのようなものがあるのでしょうか?」
伊藤:「情動の問題がうまく扱えないために、子供が幼稚園や学校で色々なトラブルを起こすことがあります。
情動の傷害で最も多いのは、ADHD(注意欠陥他動症)です。
ADHD()にかかった子供がいると、学級崩壊を起こすと言われています。
ADHD()は、アメリカで非常に問題になっています。
州によっては、25%、4人に1人は薬による治療が必要だという研究者もいます。
少なく見積もっても、100人に2人ぐらいはいるだろうと考えられています。
ADHD()は、脳が発達するときに、何か異常が起きるのだと考えられています。」
YCC:「ADHD()以外にも、自閉症やアスペルガー症候群などがありますね?」
伊藤:「自閉症とアスペルガー症候群に共通しているのは、社会性の発達が悪いことです。
言葉は話せるし、知能の発達も悪くありません。
しかし、他の人と協調して社会生活を営む事ができないという症状が見られます。
その一番の根底は、相手の心が判らないと言うことです。
普通の人で有れば、4歳を越えると人の心が判るようになり、3歳までの子供とは心の仕組みが大きく変わると言われています。
ところが、自閉症やアスペルガー症候群では、それができないまま育ってしまいます。
自閉症やアスペルガー症候群は、どのように治療して良いのかまだよく解っていません。
このような問題を解明するのも、脳科学の使命だと思います。」
YCC:「現在、情動の研究はどのような研究に注目が集まっているのでしょうか?」
伊藤:「一つの方向性として、情動の障害を起こす統合失調症や躁鬱病(感情病とも言う)の研究があります。
感情の異常の研究においては、病気に関わっている遺伝子を特定したり・細胞の中野シグナル伝達の異常を調べて行くのが、一つの方法です。
遺伝子の変化は、何だかの形で細胞内や細胞外のシグナル伝達に変化を起こします。
その変化を補うような化学物質が薬になります。
このような形で、治療につなげようとして研究を進めています。」
YCC:「病気のメカニズムの解明と治療ですね?
その他にはどのような方向性が考えられますか?」
伊藤:「扁桃体の中の仕組みをもっとはっきりさせる必要があると思います。
扁桃体の仕組みのモデルを着くって、コンピュータで脳を創る領域に持ち込まないといけないと思います。
現在の脳とコンピュータの最大の違いは、情動が有るか無いかだと言われています。
コンピュータ的なロボットは、情報は処理するけれども、その価値については無頓着です。
しかし脳は、価値の方にむしろ重きを置いています。
そういう意味で、情動の仕組みが解ることは、社会の情報化にも大きな影響を与えるでしょう!」
YCC:「最後に、今後の課題を伺えますか?」
伊藤:「これから重要になるのは、脳を育むと言うことです。
脳科学に基づいて、教育や育児に助言して、様々なトラブルをなくそうと言うことです。
健康な脳が、何をやるかは個人の問題ですが、病気や発達異常で悩まされることが無いようにしてゆくことが、重要だと思います。」
YCC:「どうもありがとうございました。」
アドレナリン【Adrenalinドイツ】
副腎の髄質ホルモン。心筋の収縮力を高め、心・肝・骨格筋の血管を拡張、皮膚・粘膜等の血管を収縮せしめ血圧を上昇させる作用をもつ。気管支平滑筋を弛緩させるが、立毛筋・瞳孔散大筋を収縮させ、また代謝面では肝・骨格筋のグリコーゲンの分解を増進して血糖を上げ、脂肪組織の脂肪を分解、一般に酸素消費を高める。高峰譲吉が初めて結晶化に成功、アドレナリンと命名。止血剤・強心剤などに利用。エピネフリンともいう。
→ノルアドレナリン
ノル‐アドレナリン【noradrenalin】
哺乳類の交感神経の末端から分泌される物質で、化学的にはアミンの一種。交感神経の支配を受けている細胞に神経刺激を伝達する働きをもつ、代表的な神経伝達物質。ノル‐エピネフリン。
アミノ‐さん【―酸】
アミノ基(-NH2)とカルボキシル基(-COOH)とをもつ化合物。アミノ基とカルボキシル基が同一の炭素原子についているものをα(アルファ)‐アミノ酸、アミノ基が隣の炭素原子に順次移るに従って、β(ベータ)‐、γ(ガンマ)‐、δ(デルタ)‐アミノ酸と呼ぶ。α‐アミノ酸は蛋白質の主要構成成分で、普通アミノ酸といえばα‐アミノ酸を指す。天然に存在するアミノ酸は80種以上、うち蛋白質を構成するもの約20種が知られる。
→必須アミノ酸。
ドーパミン【dopamine】
カテコール‐アミンの一。分子式C6H3(OH)2CH2CH2NH2 神経伝達物質として作用する。生体内でチロシンから合成され、ノル‐アドレナリン・アドレナリンの前駆物質となる。
トリプトファン【Tryptophanドイツ】
芳香族アミノ酸の一。必須アミノ酸として、生体内でインドール・セロトニン・ニコチン酸などの生成に関与し、生理上重要な物質。
しょうほう‐たい【小胞体】セウハウ‥
動植物の細胞質内で網目状に連なる扁平な嚢や細管からなる細胞小器官。リボソームが付着した粗面小胞体では蛋白質合成が、付着していない滑面小胞体ではステロイドなどの脂質合成が行われる。
→細胞(図)
いでん‐し【遺伝子】ヰ‥
(gene) 生物の個々の遺伝形質を発現させるもとになる、デオキシリボ核酸(DNA)、一部のウイルスではリボ核酸(RNA)の分子の領域。ひとつの遺伝子の塩基配列がひとつの蛋白質やリボ核酸の一次構造を指令する。遺伝子産物や遺伝子間の相互作用が形質発現を調節する。遺伝子は生殖細胞を通じて親から子へ伝えられる。
→遺伝情報。
じく‐さく【軸索】ヂク‥
(axon) 神経細胞から発する1本の長い突起。ニューロンの構成要素の一。これが被膜に包まれ、あるいは束になったものの1本1本を神経線維という。軸索の末端は分枝して、次のニューロンまたは効果器に接合し、興奮を伝達する。軸索突起。神経突起。
→神経細胞(図)。
〓―‐とっき【軸索突起】
だいのう‐へんえんけい【大脳辺縁系】‥ナウ‥
大脳半球の内側面で、間脳・脳梁を囲む部分は辺縁葉と呼ばれ、それと海馬体・扁桃体などを含め大脳辺縁系という。脊椎動物の進化過程で古くから発達した古皮質と、それよりやや新しい中間皮質から成り、本能・情動を支配する中枢と考えられている。すなわち、個体や種の生存の基本をなす自律的生命活動や快・不快・恐れ・怒りなどの情動の根本にかかわるとされ、視床下部と合せて情動脳・内臓脳ともいう。旧皮質。
ミトコンドリア【mitochondria】
細胞小器官の一。真核生物の細胞質中に多数分散して存在し、内部にクリスタと呼ぶ棚状の構造があり、独自のDNAを持ち、自己増殖する。呼吸に関係する一連の酵素を含み、細胞のエネルギー生産の場。独立した好気性細菌が進化の過程で別の細胞にとり込まれ、共生したものという説がある。糸粒体。
→細胞(図)
リボソーム【ribosome】
細胞質中に遊離するか、または小胞体や核膜と結合して存在する小顆粒。蛋白質の生合成のうち、翻訳が行われる。ミトコンドリア・葉緑体は独自のものをもつ。
→細胞(図)
さいぼう‐しょうきかん【細胞小器官】‥バウセウ‥クワン
(organella) 細胞内の機能的構造単位。もとは原生動物の糸胞・鞭毛・食胞・収縮胞などを指したが、広く真核生物の、後形質を除いた、ミトコンドリア・葉緑体・ゴルジ装置などをいう。細胞器官。オルガネラ。
せんしょく‐たい【染色体】
真核生物の細胞核が分裂するときに見えてくる糸状の構造体および染色質。DNAとヒストンなどの塩基性蛋白質を主成分とし、塩基性色素に染まりやすい。数や形は生物の種類に応じて一定で、DNAに遺伝子を含む。体細胞中には相同染色体が1対ずつあり、それぞれ雄親と雌親との生殖細胞に由来する。広義には原核生物の核様体、ウイルスや葉緑体・ミトコンドリアのDNAを含めていう。存在する場所、機能などから常染色体・性染色体、唾液腺染色体などに分ける。
生物の染色体数(表)
だい‐のう【大脳】‥ナウ
精神作用の場で、種々の運動・知覚の中枢が分布するところ。脳は発生学的に後脳胞・中脳胞・前脳胞と呼ばれる神経管の膨大部に由来し、後脳胞から小脳・橋・延髄が、中脳胞から中脳が、前脳胞から終脳が形成される。左右の終脳の間が間脳で、終脳は大脳半球となる。人の大脳半球はきわめて著しく発達し、間脳・中脳を被い頭蓋腔の大部分を満たす。大脳半球の表層は灰白質で、大脳皮質と呼ばれ、深部は白質で大脳髄質といい、その中にも灰白質塊があり大脳核という。大脳半球の内部には神経管内腔に由来する側脳室がある。〈哲学字彙初版〉
→脳(図)。
〓―‐きていかく【大脳基底核】
〓―‐はんきゅう【大脳半球】‥キウ
〓―‐ひしつ【大脳皮質】
〓―‐へんえんけい【大脳辺縁系】
ししょう‐かぶ【視床下部】‥シヤウ‥
間脳の一部で視床の前下方にあって第3脳室の側壁下部と底とを囲む部分。下方に突出して脳下垂体に連なる。体温調節・睡眠・生殖・物質代謝などをつかさどる自律神経系の高次中枢。
だいのう‐ひしつ【大脳皮質】‥ナウ‥
大脳半球の表層を形成する灰白質。哺乳類で著しく発達しており、人では思考や言語など高次の機能を担う中枢が局在する。新皮質。
→大脳辺縁系。
じき‐きょうめい‐えいぞうほう【磁気共鳴映像法】‥ザウハフ
(magnetic resonance imaging) 人体に電磁波をあて、患部の水素原子などに核磁気共鳴を起させ断層撮影を行う方法。腫瘍や梗塞の的確な診断ができる。MRI
PTSD
(post-traumatic stress disorders) 心的外傷後ストレス精神障害
イド【id】
〔心〕精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。快を求め、不快を避ける快楽原則に支配される。エス(es)ともいう。精神分析の用語。
→自我
→超自我
じ‐が【自我】
(selfイギリス・egoラテン)
〓〔哲〕認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別していう語。自我は、時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識している。身体をも含めていう場合もある。〓他我〓非我。
〓〔心〕
〓意識や行動の主体を指す概念。
〓精神分析の用語。イドから発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする、パーソナリティーまたは人格の側面。エゴ。
→超自我
ちょう‐じが【超自我】テウ‥
(superego) イド・自我と共に心を構成する3要素の一。自我から分化発達し、社会的価値をとりいれ、あるべき行動基準によって自我を監視し、欲動に対して検閲的態度をとるもの。精神分析の用語。