絵の中の鳥1

 

 

 

絵の中の鳥たち 1集

・・・バードウォッチャーの目で見る名画・・・

川村桂子 文

1.若冲の「老松白鳳図」

還暦を過ぎてもバードウォッチングはまだまだ駆出し。でも望みだけは、いつかパプアニューギニアでフウチョウのダンスを見たいとか、タイでサイチョウの飛ぶ姿を眺めたいとか・・・。とても叶わぬ夢ですね。しかし、ありがたいことにこの時代ブラウン管でたいていの世界の珍鳥は、撮影欲に飽くことないカメラマンたちのお陰で、茶の間でゆっくり見せていただけます。

それでもどうしても見られないのが想像上の鳥。鳳凰といえばお寺のお堂の上とかに佇んでいたりしますが、もちろん誰も本物は見たことがありません。1716年、京都錦市場の青物問屋「桝源」3代目伊藤源左衛門の長男として生れた絵師伊藤若冲。彼の「老松白鳳図」は、その想像上の鳥を現実さながらに見せてくれています。老松の枝を細くしなやかな片足が掴み、まだ落ちつかぬ姿で真っ白い羽根を羽ばたかせながら立っている・・・頭には真っ赤なとさか、嘴も赤、はあはあと息を吐きながらちろりと赤い舌がのぞいています。

 

 

 

2.ロセッティの「死の使者である一羽の鳥」

遠い昔、何かの雑誌で1人の若い女が暗闇の中に座って目を瞑り、1羽の赤い鳥を両手に乗せている絵を見たことがあります。ずいぶん後になって、その女性は、ロセッティという画家が妻をモデルに描いた、ダンテの「神曲」中のベアトリーチェであることが分りました。暗闇の中に、頭上から黄金の光が射し、緑色の衣装をまとう女性と、芥子の花を咥えた赤い鳥。忘れられない1枚です。

 

 

 

3.古径の「孔雀」

沖縄を旅行したおり、孔雀を放し飼いにしているホテルに泊まったことがあります。退屈凌ぎに窓下に来た孔雀にパンを投げると、貰いつけているのか嘴で上手にキャッチします。少し焦らすとさっさと蘇鉄の向こうに遠のき、また投げると美しい長い羽根をゆさゆささせながら走ってきます。神様の贈り物を見ているようで幸せな一時でした。鳴き声は猫そのもので一晩中悩まされましたが・・・。

古今東西、孔雀の絵はたくさんありますが、小林古径の「孔雀」の屏風絵は画面一杯に緑の孔雀が羽根を広げて立います。すっきりとして品格があり、いつまで見ていても飽きない好きな絵のひとつです。

 

 

 

4.シャガールの「魔法の城」

生れて初めて自分が稼いで買った画集がみすず書房の「シャガール」400円也。突然モノクロの世界から色の渦へ放り出されたような驚きが身体の隅々まで染み渡りました。マルク・シャガールの「魔法の城」とあるその絵はストラビンスキーのバレー音楽「火の鳥」の舞台装置として描かれた作品で、画面の左上には黄色をバックに大きな黄緑の鳥が、真っ赤な目をし、金の冠をかぶり空に懸かっております。背中に中世のお城を乗せたその鳥に向かって梯子が架り、花嫁が1人静々と登って行きます。右下の恋人たちから大きな花束が迫り上がってきます。空にはピンクの雲が棚引き、愛の交響楽が鳴り響いているようです。

 

 

 

5.ジョットーの「小鳥に説教する聖フランチェスコ」

鳥好きの私は小鳥とお喋りができたらどんなにか楽しいだろうといつも考えています。ジョットーの、「小鳥に説教する聖フランチェスコ」は眺めているととても微笑ましく心がなごみます。聖フランチェスコの前に集まっているのは鳩や椋鳥、鵯、雀たちのように思います。遅れて後から1羽が飛んできました。きっと聖フランチェスコは小鳥たちに説教をしているのではなく、地球に生きる友達として皆一緒に楽しいお喋りをしているのでしょう。

 

 

 

6.クレーの「花の神話」

ある暖かい日、京都御苑内の近衛邸跡近くへキビタキの群が木の実を食べにやって来ました。双眼鏡の焦点がピタッと合った時、みごとな黄色と黒のコントラストが目に飛び込んできました。キビタキの胸からお腹にかけての鮮やかなオレンジ色から黄色へのグラデーションは抱きしめたいような衝動にかられます。

パウル・クレーの鳥の絵は画面を庭や林、森や山に変え、そこに鳥たちが自由に生息しているような、大きくて深いものを感じます。それらの絵の中でも「花の神話」は、輝くような赤の画面の中央に月の形をした青い花が咲き出て、その花に向かって空から黄色い鳥が一直線に下りて来る瞬間を捉えています。そんな美しい時っていつまでも続いて欲しいものですね。

 

 

 

7. ヒエロニムス・ボスの「悦楽の園」

バードウォッチングを始めて一番驚いたことは世界には数えきれないほど種々様々の鳥たちがいるということです。赤い鳥、青い鳥、黄色いの黒いの、そしてその身体にはそれぞれ異なった模様がほどこされています。嘴の形は下に曲がったのや上に反ったの、長短いろいろ。頭は貴婦人さながらの羽帽子を乗せたのや、はては襟巻きまでしているのです。これはどう逆立ちしても人間技ではない造物主のなさることとしか思えません。

ヒエロニムス・ボスは神様か悪魔か分りませんがそれに近い人のように思います。彼の「悦楽の園」を眺める時突然平穏な世界から奇妙な国へタイムスリップしたようです。絵の上部には、球形のピンクや瑠璃色の建物、薔薇の蕾のような建物が池のほとりを取り囲こんでおります。よく見るとあちこちにたくさんの鳥たちが描かれているのです。できることなら一度望遠鏡を持って絵の中に入りたい気分になります。「きつつき」「つぐみ」「さぎ」たちがいます。むくろのような「ふくろう」が止まっている木の下の卵からは人の手足がにょきにょきと出でいるのです。鳥の卵や木の実が画面の方々に描かれ、透き通ったのや丸いのや割れているのがあり、その中に裸の男女が入っています。はるか彼方の空には魚が泳いでおり、それを鳥人間が両手で捕まえています。トランペットのような楽器の先から飛び出しているのは渡り鳥の群れでしょうか。多分ボスは日頃野山を歩きまわり、鳥や動物、植物にいたるまで自然を克明に観察していたのだと思います。「悦楽の園」は見なおすたびに画面のどこかで新しい鳥が見つかるのです。怖くて面白くてぞくぞくする不思議な絵です。

 

 

 

8.歌川国茂の「里雀ねぐらの仮宿」

講談社の絵本に「舌きり雀」というのがあり、好きなお話のひとつでしたが、お婆さんが鋏みを持って雀の舌を切ろうとしているシーンだけは、子供心に恐ろしく自分の舌が切られるようで飛ばしてしまいたい1ページでした。それに引きかえ、いつまで見ていても飽きない個所は、雀のお宿に招かれたお爺さんが、着飾った雀たちの踊りを眺めながら嬉しそうにご馳走を食べている場面です。昔田舎へ疎開していた時、落ちた雀の子を従兄から貰って、母と一緒に育てたことがありました。

国茂の「里雀ねぐらの仮宿」は遊郭吉原に集う人間を雀に置き換えた版画ですが、格子の向こうに着飾った雀の花魁(おいらん)が色っぽい目付きで客を誘っている姿や、物見高い見物人、井戸端会議の女たち、お金持ちらしい旦那衆にいたるまで全部が雀なのです。右下にいる駕籠かきは諸肌ぬいで見事な背中の刺青を見せていますが、首から上は雀です。ウォルト・ディズニーのドナルド・ダックもよくここまで表情豊かに作り上げたものだと驚嘆しますが、わが国の絵画にも鳥羽僧正筆と伝えられている「鳥獣戯画」や浮世絵にも鳥や魚や動物をみごとに擬人化した作品があることに感動します。

 

 

 

9.ヴァン・ゴッホの「からすのいる麦畑」

天下の名園「円山公園」を歩いていますと、突然30羽ちかくのからすの群が騒ぎ出し庭園の木々をバサバサ縫って飛び廻わり始めました。辺りの景色は一変し、刈り込まれた美しい公園のたたずまいが一時異様な空気に侵されてしまったように感じました。私はそれが収まるまで立ち止まって見ていました。

ゴッホが畑で絵を描いておりますと、からすがあちこち群れて採餌しており、時には彼の周りを騒ぎながら飛び廻るのです。陽が西に傾くとみんな塒へ帰って行きました。ある日ゴッホは麦畑とからすを描きたいという衝動にかられました。彼がピストル自殺を企てる直前に描かれた3枚の絵の1枚「からすのいる麦畑」は、生涯を通してゴッホの胸に住み続けた狂気と悲しみを、迸る熱情の刃に変えて麦畑を黄金色に、そして最後にからすの群を描き込み一気に完成したように思います。

 

 

 

10.ピカソの「鳥と梯子の上の女」

 

我が家の近くに西国三十三霊場の1つ頂法寺六角堂というお寺があります。そこには一群れの鳩が住みついていて、子育て中の私は児童公園に厭きた長男を連れてよく訪れたものです。彼はまだ握りかねている指で柳の葉先に触れてみたり境内をよろけながら走り回ったりしていました。そのうち、餌を持っていた私達をめがけて数羽の鳩が飛んできて、長男の頭と肩に止まり、彼は大泣きをして、その後二度と行きたがらなくなりました。

パブロ・ピカソ68歳の作品、世界平和会議のポスターの原画(リトグラフィー)「鳩」は闇を背景に光の玉のような白い鳩が1羽描かれています。彼が平和とか優しさを表すとき画面によく鳩が出てくるように思います。私の大好きな絵の1つにパステル画の「鳥と梯子の上の女」があります。梯子に座って鳩を抱いている女性を描いていて、まろやかで力強い曲線が女の身体を包んでいます。青い闇の中に桃色がかったオレンジ色の洋服と伏目がちの女の白い顔。天才ピカソが夢のような世界を見せてくれます。

 

          

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おことわり: 文中の絵はイメージを得るためのもので

解像度を落として掲載しており、複写には耐えられません。